▼ 或る一日の話
あのね、パパとママ、今度けっこん記念日なんだって。
電話の向こうの姪は、この会話が家族に聞かれてしまうことを危惧してか、ひそひそ声で俺にそう言った。
『それでね、プレゼント買いに行きたいんだけどね』
「うん」
『一人で出かけるとママが怒るから』
「そうだな。そりゃそうだ」
『そう。でも、ママについてきてもらったらバレちゃう』
「……だから俺についてきてほしいって?」
『うん』
――断るという選択肢はなかった。他でもない可愛い姪の頼み事だ。
そんなわけで、次の週末。俺は姉夫婦の家へと向かっていた。
姉夫婦の住んでいる場所は実家よりも少しだけ近い。車を小一時間ほど走らせて姪を迎えに行くと、姉と義兄が揃って出迎えてくれた。
「ごめんね和真くん。この子の我侭に付き合わせて」
「いえ、俺もこういうことでもないと出かけないし、丁度良かったですよ」
義兄は申し訳なさそうな顔をしている。俺は彼のこういう顔を見る度、姉が結婚したのがこの人で良かったと思う。
「比菜、いい子にしてるのよ。和真の言うこと聞かなきゃダメだからね」
はーい、と姉の言葉にご機嫌な返事をした比菜が、隠し切れないといった笑顔で俺を見上げてくる。親に内緒で何かをする、という状況が楽しくて仕方ないのだろう。その気持ちはわからないでもない。
「夕飯までには帰るようにする。何かあったら連絡するから」
「行ってきまーす」
小さな手に腕を引かれながら、俺の長い一日が始まった。
*
「何かめぼしいもの、あったか」
むやみやたらに移動しても、俺も比菜も疲れるだけだろうということで、とりあえず百貨店やショッピングビルが集まっている駅周辺で探すことにする。
しばらく二人でいろんな店を歩き回ってみたが、いまいちピンとくるものが無いらしい。姪は浮かない顔をした。
「うーん……わかんない。何をあげたら喜んでもらえるかなぁ。和真は何をもらったら嬉しい?」
何でも喜ぶと思う。自分がもし姉夫婦の立場だったら、こんな風に我が子が懸命に自分達のために何かをしようとしてくれていることこそが嬉しい。我が子を持ったことがないので何とも言えないけれど。
「比菜のその気持ちが嬉しいからな。何でも喜ぶよ。でもそうじゃないだろ?」
大事そうに握られた小さな財布。自分も大人たちと同じように、自分のお金で買ったものを大事な人にプレゼントしたい。そのためにお小遣いでも貯めてきたのだろう。全く我が姪ながらいじらしい。あの姉から生まれてきたとは到底思えない。
「俺はいつまででも付き合うから、納得いくまでゆっくり考えな」
「うん……」
「そうだ。もう十二時を回ってるけど、お腹空いてないか?」
こく、と比菜が頷く。夕飯の兼ね合いもあるから、あまりたっぷりと食べさせるのは良くないだろう。だが折角だ。我侭くらい聞いてやりたい。
「何が食いたい?何でも好きなもの食わせてやる」
「……和真は?」
「俺のことは気にするな。俺といるときくらい我侭言え」
「じゃあ、オムライスがいい」
「わかった。オムライスな」
確かここからすぐの百貨店のレストランフロアに洋食屋があったはず。普段ならば入らないような高値の店だが、こんなときくらい贅沢をしてもバチは当たらないだろう。
「和真、ありがとう」
「どういたしまして」
「手つないでもいい?」
「いいよ」
体温の高い小さな手が、俺の手をぎゅうと握った。確かに、今日は休日なこともあってか人が多い。迷子にでもなったら大変だ。俺もその手を握り返す。すると比菜が笑った。
「和真とデートするって言ったらね、パパがいいなぁって言ってた」
「お前、そんなこと言ったのか」
「だって、好きな人と二人で出かけることをデートって言うんでしょ?」
「そうだな。じゃあデートだ。でもパパとも今度デートしてやれ」
「うん。する」
何だか義兄に悪いことをしてしまった気がする。最近の女の子はませたものだ。
百貨店の入口のガラス戸に手を掛け、中に入った瞬間。
「先生?」
そんな一言が聞こえた。
――気のせいだ。気のせいであってほしい。無かったことにして進もうとするも、さらにもう一度繰り返し呼びかけられた。
「先生、なぁ。先生ってば」
「……人違いです」
「いや違くねーだろ。めっちゃ嫌そうな顔してんじゃん」
最悪という言葉はこういうときに使うのだろう。災厄、と言ってもいい。何故よりによってこんなところでこいつに。
「……」
九条は俺と比菜を交互に見比べて、「……えーと、妹さん?姪御さん?」と首を傾げた。姪御。頭の出来の割に、こういうとき咄嗟にそういう言葉遣いが出るあたり、やはりこいつは育ちが良い。
「姪だ。姉の子」
「だよな。隠し子だったらどうしようかと思った」
「張り倒すぞ」
くい、と比菜が俺の手を引く。しまった。ついいつもの調子で口をきいてしまっていた。この子の前で。
「ごめんな。この兄ちゃんは俺の生徒なんだ」
「せいと?和真の学校の?」
「そう」
かずま、と九条が口の中で呟くのがわかる。うるせえお前は呼ぶな。
「和真が夏休みに電話で話してた人?」
「……」
まさか覚えているとは。というか何故わかるんだ。子どもは鋭い。
「……そうだよ。でもそれは」
「わかってる。比菜、ちゃんとないしょにしてるよ。和真と比菜とのひみつだもんね」
「……」
何やってんだ俺は。この子にこんなことまでさせて。秘密なんて持つべきじゃない。この子が人に言えないようなことを、俺がつくるべきじゃないのに。
落ち込む俺を余所に、今度は九条が比菜の目線に合わせるようにその場にしゃがみ込む。
「ひなちゃんっていうのか。初めまして。藤城先生の生徒の九条徹平です」
「てっぺいくん?」
比菜は九条の言葉を聞いて、少し興味を惹かれたようだ。九条は存外子どもの扱いに慣れているらしい。少々意外だった。
「そう。徹平」
「……あのね、比菜の好きな人もてっぺいくんっていうの」
「そっか。一緒だな。てっぺいくんとは同じクラス?」
「おんなじクラス。てっぺいくんはね、足が速くて、頭が良くて、かっこいいんだよ」
「うーん……そうか。足が速いのは一緒だけど……俺は頭よくねーし、かっこよくねーしなぁ。全然一緒じゃねーや」
ふふふ、と比菜が笑いを零した。
「じゃあ、てっぺいのお兄ちゃん。てっぺいってどう書くの?」
「徹るに平和の平」
「とおる?とおるくん?」
「……っつっても難しいか。もうちょっとおっきくなってから先生に教えてもらえよ」
俺に丸投げか。そんなところで適当さを発揮するな。
「てっぺいのお兄ちゃんもいっしょにお昼ごはん食べる?」
「えっ」
九条がちらりと俺の顔を窺う。駄目に決まってるだろ、というのを視線だけで返した。しゅんとその顔が寂しげな表情を浮かべる。
「ね、和真。いいよね?」
比菜が再度俺の手を引き、改めてそう尋ねてきた。
「……なんで比菜はこいつと一緒に昼飯を食いたいと思うんだ?」
「だって、ちょっとてっぺいくんに似てるんだもん。かっこいいよ」
「はぁ?」
かっこいい?こいつが?俺は比菜に首を振ってみせた。
「比菜。騙されるな。この兄ちゃんはバカでアホでどうしようもない奴なんだ」
「そうなの?」
「そうだ。どうせなら頭の良いやつにしておけ」
「おい。ひどくね」
抗議の声を無視して歩き始める。そういえば、俺も小腹が空いてきた。
「……行かないなら置いてくぞ」
「!」
振り返らずに半ば呟くほどの声でそう言うと、九条は耳聡くもしっかりとその声を拾ったようだ。慌てて後ろからついてきた。
全く、可愛い姪との折角の「デート」が台無しだ。
*
「比菜ちゃんはさ、父さんと母さんのこと好き?」
「大好き!」
「……」
目の前には仲良く手を繋ぎ歩いている姪と九条。俺の両手は空いている。何故だ。何故俺が差し置かれなければならない。
比菜はいたく九条を気に入ったようで、昼食を終えた後もこうして一緒にプレゼント探しに付き合わせていた。九条も九条で暇なのか、比菜とうんうん唸りながら行く店行く店を丁寧に物色している。
「だから、プレゼントに喜んでほしいっていうよりは、二人をお祝いしたいって気持ちの方が強いと思うんだよ」
「うん。パパとママに、ずっと仲良くしてほしい。比菜とずっと家族でいてほしい」
「その気持ちを伝えるのが一番喜ぶんじゃねぇかな」
「でもね、あげたいの。自分のお金で、プレゼントを用意したいの」
「わかるよ。すげーわかる。自分の力で何かしたいんだよな」
ふとそのとき、九条がある店の一点に視線を留めた。
「比菜ちゃん。あれは?」
「あれ?」
「こっち」
二人が手を繋いだままその店に入っていくので、俺も後ろからついていく。
「これ」
九条は目に留めたらしいその写真立てを手に取り、比菜に見せた。
「これにさ、比菜ちゃんと、パパとママと、家族みんなの写真を入れるんだよ」
「陽くんも?」
「あぁ、弟がいるんだっけ。そう。弟くんもそろった家族全員の写真。うまいこと入るやつがなけりゃ新しく撮ればいい」
いかにも比菜が好きそうな可愛くて煌びやかなデザインのフレームのものだった。
「みんなが笑顔で写ってるやつな。んでリビングとかに飾んの。比菜ちゃんがパパとママの結婚記念日にプレゼントしたやつだって、見る度に思い出すんだよ。それってすげー嬉しくない?」
「……」
比菜は九条の持っていた写真立てを手に取り、暫くしげしげと眺めた。
「……うん。うれしい」
「だろ?絶対これがいい。俺もこれに大事な写真入れて飾りてぇもん」
「家族の写真?」
「……」
家族の写真。
比菜の質問に、九条は少し考え込むような表情になる。
今の二人の会話を聞いて、今の九条の顔を見て、一つの疑問が湧いてきた。
――こいつにも、家族写真はあるのだろうか。
そりゃ一枚くらいはあるだろう。だが、家族全員が笑顔で写っているような写真があるのかどうかは知らない。
あればいい、とは思う。
そのくらいあってしかるべきだ。子どもには。
そんな幸せくらいあってもいい。こいつには。
「…んーん」
「ちがうの?」
「俺が今一番欲しいのは、好きな人との写真だな」
九条は暫しの沈黙の後、笑いながらそう答えた。
「お兄ちゃん好きな人いるの!」
キラキラと輝く目で食いつく比菜とは裏腹に、俺は思わず脱力しそうになる。余計なことを言うな。そんなこともわからないのかこの単細胞は。
「いるよ。超超超大好きな人」
「どんな人?学校の人?」
「同じ学校の人。すげー怖いけど、ちゃんと俺のこと怒ってくれる人。だから好き」
「つきあってる?」
「えーと、たぶん?」
「……比菜。決まったなら買ってこい。夕飯前には帰るぞ」
耐え切れなくなって会話を遮った。はぁい、と比菜が大事そうに写真立てを抱えてレジに向かうので、俺も後からそれについて行く。がしかし、その前に。
「おい」
「ん?」
「たぶん、じゃねぇよ」
「え」
何が「たぶん付き合っている」だ。
「多分」とか、「恐らく」とか「きっと」とか。
自分からはほとんど口にしようとしないのに、こいつの口から曖昧な言葉が出るのは気に食わない。それが自分勝手だと言われればそうなのだろう。
「そんなにあやふやな関係にしたつもりは無い。お前がそうしたいなら話は別だが」
「したいわけねーだろ」
「じゃああんなこと言うな。バカが」
「いや、なんかちょっと照れたっつーか……恥ずかしくなったつーか……聞いてた?」
聞こえるだろ。普通。
「アホ。やることやっといて何が恥ずかしいだ」
「そ……っその発言は親父くせーぞ!」
「死ぬか?」
「遠慮します!」
九条は不満げな顔でふいと俺から顔を逸らした。髪の隙間から見える耳が赤い。照れているのか、怒っているのか、その両方か。忙しい奴だ。
赤く染まった耳朶に手を伸ばし、指で挟む。九条はびくりと小さく震えたが、されるがままだ。
「今日、なんでわざわざこんなとこにいるんだよ。お前の家からは遠いだろ」
「あ……あぁ、ちょっとおつかい」
「おつかい?なんだそれ」
「姉ちゃんが好きなプリン屋があのデパートにあるんだよ」
「プリン?」
「最近季節の変わり目で調子悪そうだったから。おいしいもん食えたら気分だけでもちょっとはマシかと思って」
「……」
――この子どもは、時々。
時々、俺を。
「先生?」
「……お前は買わなくていいのか」
「え?プリン?もちろん買うけど」
「違う。これ」
この子どもは、時々、俺をどうしようもない気持ちにさせる。
「写真立て?いーよ。俺には可愛すぎるだろこのデザインは」
「飾るんだろ。俺との写真」
「えっ、飾っていいのかよ」
「駄目だ。誰かに見られたらどうする」
「駄目なら言うなよな」
「九条」
「ん?」
手は耳に触れたまま。
指先に感じる熱を、これを、この子どもを、俺は一体どうしてやろうか。
「俺の前では、俺を好きなことを遠慮するな」
「……何の話だよ」
「いいから言うことを聞け」
「そんなん、困るのはアンタじゃねーの」
「困らない」
こんなことで困るくらいなら、最初から受け入れたりしない。
こんなことで持て余すくらいなら、最初から好きになったりしない。
「……先生」
「なんだ」
「す……っんぐぐ」
九条が言葉を発する前に口を手のひらで塞いだ。こいつの言うことなんて簡単に想像がつく。大方人様には聞かれるのが憚られるような内容のことを言うつもりだったに違いない。
「知ってるから、言わなくていい」
お前が俺を好きなことなんて、俺が一番知ってる。
九条が俺の顔を見上げる。
「!!」
そして、少し迷うような素振りを見せた後、口を覆っている俺の手のひらに唇を押し当ててきた。驚いてぱっと手を離してしまう。
「おい……お前なぁ」
「はは、俺の勝ち!」
「勝ちとか負けとかじゃないだろ」
「俺が勝手に勝負にしてんだからいーんだよ!早く比菜ちゃんとこ行こ!」
――生意気もいいところだ。一体誰がこんなクソガキに育てやがったのか。
その質問はとんでもないブーメランになりそうなので、心の中だけに留めて置くことにした。
*
あのね、パパとママ、すっごく喜んでくれたよ。
後日、電話の向こうの姪は嬉しそうな声でそう報告をしてくれた。
「良かったな。ちゃんと写真入れたか?」
『うん!新しく家族四人でとったやつを入れたの』
「手紙も書いたんだろ。パパもママも泣いてなかったか」
『パパはちょっと泣いてた』
「そりゃ泣くだろうな」
可愛い娘にそんなことをされた日には。
『お兄ちゃんのおかげだね』
「……お兄ちゃんって」
今日も今日とて我が家のソファに我が物顔で座っている九条をちらりと見る。九条は首を傾げてこちらに近寄ってきた。
『てっぺいのお兄ちゃんだよ。今度また会いたいなぁ。ちゃんとありがとうって言わなくちゃ」
「会わなくていい」
『なんでよー。和真はお兄ちゃんのこときらいなの?』
「別に嫌いではないけど」
『でも、仲良さそうだったよ』
「……生徒だからな」
一応は。
隣にやってきた九条が、「比菜ちゃん?」と口パクで尋ねてくる。俺は頷いて、それから少し会話をした後に電話を切った。
「比菜がお前にありがとうだって。プレゼント喜んでもらえたって」
「おお、そっか。良かった」
「付き合わせて悪かったな。正直助かった」
「んーん。むしろ俺の方が楽しませてもらったし」
「楽しむような要素あったか。完全にこっちが振り回しただけだろ」
女の買い物は長い。それは子どもも大人も一緒なのだと姉や姪に付き合わされて思う。彼女ら曰く、「ああでもないこうでもないと選んでいる時間も楽しい」のだそうだ。俺にはよくわからない。
「先生の家族の話とかちょっと聞けたし……あと、俺と先生って今までほとんど外で会ったことないじゃん?普通にデートみたいで楽しかった」
「……デート、したいのか」
「そりゃしてぇよ」
あ、と九条が慌てて付け加える。
「でも外で会えないのが嫌とかそういうわけじゃねーよ?」
「……」
「俺、先生がそこにいるだけで嬉しいから」
知っている。知っているが。
「おわっ」
身体ごと引き寄せて自分の膝の上に座らせる。向かい合わせで見る九条の顔が、みるみるうちに赤くなった。
「なっ、な、なに、なんだよ急に」
「お前は俺が本当に好きだな」
「悪いかよ!」
「悪かねぇよ」
悪くないから困るんだ。
「いつかな」
――いつか、こいつが俺の生徒じゃなくなったとき。
その「いつか」を待っている自分に気がついて、気がついたのに嫌な気持ちにならない自分にさらに気がついた。
「いつか俺も先生と手繋いでデートしたい」
「それは無理」
end.
貴鼓さまリクエストで、「藤城先生と九条くんが休日とこかでばったり会っちゃった…!的なエピソード」でした。大変遅くなり申し訳ないです……。そしてかなり長くなってしまった……。
折角なので、付き合った後の少しは恋人らしくなった二人を書かせてもらいました。藤城が大分九条を甘やかしているつもりですが、伝わっていればいいな。
素敵なリクエストをありがとうございました!楽しんでいただけますように!
prev / next