DOG | ナノ


▼ 02

さて、今回の修学旅行であるが、一週間のスケジュールとしては、一日目は移動と旅館周辺の観光、二日目に全体で名所めぐり、三日目から四日目にかけてが班単位での自由行動、そして五日目に帰校となっている。

最も大変なのは、やはり三日目と四日目の自由行動の日だろう。

引率教員たちは本部と所定のエリアを巡回する見回り組に分かれ、生徒たちの動向の確認を行う。

修学旅行という雰囲気に浮つき、羽目を外しすぎている生徒なんかも必ずいるわけで、何か問題が起きないように気を配らねばならない。

それに加え、旅館での様子も要チェックである。

女子と男子の厳格な部屋の区分けと、消灯時間後の見回り。旅館全部を貸し切っている(ここら辺はさすが金持ち校だと思う)ため、他の宿泊客とのトラブルの心配がないのが救いだ。

そして毎晩開かれるミーティング。

わかっていたことではあるが、当然自分の時間はほとんどない。

――流石に疲れた。

「はー……」

ようやく三日目を乗り切ったその夜、夕食と入浴を終え、消灯時間までの自由時間。

わずかな空き時間を見つけて談話室のようなスペースで休憩していると、一人の女子生徒が深刻な顔で話しかけてきた。

「ふ、藤城先生」
「どうした。何かあったのか」

折角の休憩時間を、と思わなくはなかったがとりあえず話を聞いてみないことには先に進まないので、気持ち穏やかな声で尋ねてみる。

「聞いてもらいたいことがあるんです」

その声と顔を頼りに頭の中で記憶を辿る。俺が授業を担当しているクラスの女子だった。成績も悪くなく、提出物もきちんと出す、どちらかと言えば優等生と呼べる部類の生徒だろう。

目立たない、と言ってしまえばそれまでだが、教師の立場からすると非常に優秀な生徒とも言える。

「俺で良ければ、何でも聞くぞ」

――様子を見れば、なんとなく「聞いてもらいたいこと」の内容は察することができたが、気づかないふりをした。

「あの、私」
「うん」

人に聞かれたくない話なら、場所を移ろうか。そう言いかけてやめた。誰にも気づかれないような場所で二人きりになってしまうのは、もしその事実が他に知れたとき、俺にとっても彼女にとってもデメリットしかない。

「私……」

何度も何かを言いかけるように唇を開いてはまた閉じる。彼女が伝えようとしているものの重みがそこに現れているようで、俺は複雑な気持ちになった。

こういうことは初めてではない。だが何度経験しても慣れることはない。

「私の」

長い長い沈黙の後、その女生徒は一言呟く。

「私の名前、覚えて、いますか」

――名前?

「……名前」

予想していたものとは違う問いかけが飛び出したことに、少しだけ戸惑う。

――私の名前を覚えていますか。

たったそれだけのことを尋ねるのに、一体どれだけの時間この子は悩んだのか。

それを思うと、どうしようもない気持ちになった。

きっと彼女は、自分が人にどんな印象を与えるかを理解しているのだろう。成績も素行も悪くない。優秀であるがゆえに目立たない。

だからこそ、俺にそんな質問を投げかけた。

「……勿論、覚えてる」

覚えているに決まっている。特別な理由はない。それは俺が教師で、たまたま物覚えのいい方だったというだけの話だ。教師だから、自分の受け持つ生徒の名前くらい覚えていた。ただそれだけ。

それだけのことなのに。

俺がその名前を口にすると、彼女は顔を覆って泣き出してしまった。張りつめた糸が切れてしまったような、今まで抑えていたものを吐き出すかのような泣き方だった。

「……」

放置するわけにもいかず、ポケットにあったハンカチを取り出す。

「ごめんなさい……っ」

細く白い指が遠慮がちにそれを受け取った。

「好きです、好きなんです、先生」
「うん」
「言うつもりなんてなかったんです、でも、やっぱり言いたくて、先生がこの旅行に来てくれて、チャンスだって思っちゃって」
「うん」

俺がここにいるのは、単に若い男手、しかも持っている授業数も少なく比較的身動きのとれる教員という便利な属性を持っているだけだからなのだが、彼女にとっちゃそんなことは関係ない。

全くの偶然も、重なれば「運命」だと感じる奴もいる。俺は信じちゃいないけれど。

「ごめんなさい、私、今、先生のこと困らせてる」
「謝らなくていい」

――人から向けられる真っ直ぐな好意は痛い、と思った。それに自分が応えられないときは尚更。

じゃあ、好意を向けた側はどうなのだろう。相手が絶対に自分の想いに応えてくれないことを知ったとき、自分の想いに行き場がないことを知ったとき、同じように痛みを感じるのだろうか。

こんな風に泣くのは、辛いからじゃないのか。

「ありがとうな」

自分の口から出た言葉に我ながら驚いた。

ありがとう。そうか、俺は感謝しているのか。いや違う。感謝なんかしていない。

謝罪の言葉を言いたくなかっただけなのかもしれない。ごめん、という言葉で彼女の気持ちを終わらせてしまいたくなかった。どうせ終わるのなら、感謝の言葉の方がまだマシだ。マシだなんて言い方もどうかと思うけれど。

「ハンカチはそのまま持ってていいから、濡らして目を冷やしなさい。そんなに泣いたら明日腫れるだろ」
「はい、すみません……」
「だから謝らなくていいって」

俺は多分、自分が誰かの「決定的なもの」になるのが嫌なのだ。

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