▼ 10
「……好きだ」
――そう。
「好きだ」
もし俺が、お前を好きじゃなかったら。
「好きじゃなかったら、誰がこんなに構うかよ」
キスだって、セックスだって、好きじゃなきゃ誰がここまでしてやるかよ。
「ちゃんと好きだから」
一度言葉にしてしまうと、自分でも不思議なほど存外簡単に次の言葉が出て来た。
九条の瞳が徐々に見開かれていく。まるで何か存在するはずのないものを見たような、ひどく驚いた顔だった。信じられない、とでも思っているのだろう。信じられないもなにも、言えとせがんできたのはお前の方だ。
「多分、お前が思ってるよりはずっと」
言いながら、俺自身も自分の気持ちが思っていたよりもずっと大きいものだということを実感した。できれば気付きたくはなかったが。
気付きたくはなかったが、気づいてしまった。
「っと、あぶねぇ」
無言で勢いよくしがみ付かれ、俺はバランスを崩し一歩後ろに下がる。
「……何とか言えよ」
そう声をかけても九条はただただ黙って首を横に振るだけだ。
「……」
「……」
「おい」
「……」
もしかするとまたいつもの如く泣いているのだろうか。だったら面倒だな、と思いながらそれを確かめるために無理矢理顔を掴んで上げさせる。
と、目に飛び込んできたのは予想していた泣き顔ではなかった。
「あ……」
「……」
「えっと、その……っ、おれ」
「……お前」
「え?」
「お前、なんて顔してんだ」
俺は呆れたように言った。
真っ赤に染まった頬はまだいいとして、口元はだらしなく緩み、瞳はうるうると涙の膜が張っている。はっきり言わなくても不細工だ。ぐちゃぐちゃだ。
「顔って……?」
「照れてんのか嬉しいのかそれとも感極まってんのか、どれか一つにしろよ」
「ぜ、ぜんぶ」
全部って。
「へへ」
九条はその沢山の感情が入り混じったぐちゃぐちゃな顔のまま、ぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。
「鬱陶しいからやめろ」
「先生」
「なんだ。へらへらすんな」
「ほんとのほんとに俺のこと好き?」
「だからそう言ってんだろ。しつけぇ」
「俺も好き。大好き」
そんなことは知っている。
こいつがどれだけ俺のことを好きかなんて、わざわざ改めて口にされるまでもない。が、そうやって言われるのは嫌いじゃない。
馬鹿の一つ覚えみたいに追いかけて、ぶつかって、纏わりついてくる。
そういう姿は、嫌いじゃない。
「先生」
九条が腕を伸ばして俺の首を引き寄せようとする。黙ってそれに従ってやると、珍しく向こうからキスを仕掛けてきた。一回ならまだしも、触れるだけの口付けを何度も何度もしつこく繰り返される。
「……先生のバカ。中津川先生とちゅーしやがって」
どうやら案の定、先程のことが少なからずショックだったようだ。俺にとっちゃ犬に噛まれた以下の出来事だが。思い出したくもない。おぞましい。
「今回は俺も被害者だ」
「うそ。中津川先生美人だし、みんなにすげー人気だし、あんな人にキスされて嫌な奴なんかいないだろ」
「いる。ここに。俺は吐き気がするほど嫌だった」
「じゃあ俺とキスするのは?」
「は?」
「俺は先生とキスするの、嬉しい。幸せ。ドキドキする。先生は?」
アホか。そういうことをいちいち聞いてくるからガキだって言われるんだよ。
俺は目の前にある鼻にがぶりと噛みついた。
「いてぇ…っんぐ!」
そして軽くキスをする。
「アホ」
ドキドキなんてするはずがない。嬉しいとか幸せとか、そんな甘ったるい感情に逐一浸れるほど子どもじゃない。
だけど。
「勝手に不安になってんじゃねぇよ」
「先生が悪いんだろ!」
「ほら、そういうとこだそういうとこ」
「は?」
――俺のいないところで、勝手に不安になるなって言ってるんだ。ちゃんと汲み取れよ。
「……あんたはそうやってすぐ難しいこと言って煙に巻くからずるい」
「お、煙に巻くなんて言葉知ってんのか。九条のくせに」
「馬鹿にしてんだろ!!」
「本当に憎たらしいな、お前」
「あ!?」
俺はお前の鈍さが時々、いや常に憎たらしい。
何度も言ってんだろうが、特別だって。
「まぁいずれわかるから、いい子で待ってろ」
せめてわざわざ言葉にしないでいられるくらい、早く実感しやがれ。
prev / next