▼ 05
中津川は物凄い力で俺のネクタイを掴むと、それを自分の方へと引き寄せる。
「離せよ二重人格女」
「二重人格は貴方の方でしょう」
唇と唇が触れてしまいそうな距離まで顔を近づけてくるので、俺は隠そうともせず思いっきり眉を顰めた。気持ちが悪い。
「藤城和真……とうとうやってくれましたね」
「やってくれたもなにも、お前にいちいち許可をとる必要もないだろ」
俺の勝手だ。誰にも指図されない。これは俺が自分で決めたことだ。他の誰にも決められてたまるか。
「いつかこんな日がくるとは思っていましたが」
「いいから離れ……」
「許しませんって、何度も言いましたよね?」
いくら中津川相手だといっても、さすがに女に手をあげるわけにもいかない。
と、油断していたのが悪かった。
「!!」
「「えっ」」
九条と市之宮の驚く声が重なる。だが一番驚いているのは恐らく俺だ。
まさか、そんな、ありえない。
――何故俺の唇に中津川の唇が?
「お、おい、司、なんで」
「……俺に聞かれたってわかんないよ。徹平の方が先生たちのことは知ってるでしょ」
「いや、知ってるけどわかんねぇ……」
それは俺の台詞だ。
すぐ近くに中津川の伏せられた目が見える。ぞわぞわと全身に鳥肌が立っていくのがわかった。
真っ直ぐに引かれたアイラインと、長い睫毛。きめの細かい肌。確かに主観的な感想を抜きにすれば、所謂美人という枠に当てはまるのかもしれない。俺自身は全くそうは思わないけれど。
そんなことを考えるあたり、俺は随分混乱しているようだった。
「……」
わけがわからないでいるうちに、中津川はゆっくりと離れていく。
「……ふ、ふふ……」
そして俺のネクタイを掴んだまま、不気味な笑い声を辺りに響かせた。
「おい、何を……」
「間接キスです」
誰と、というのは言われなくてもわかった。
「お前……」
――こいつ……やってくれやがった。
九条と間接キスがしたいがために、俺と。ぞっと背筋に冷たいものが走る。
「うっ」
中津川が口元を押さえた。
「気持ち悪い……」
ふざけんな。
「その言葉そっくりそのまま返すぞこのクソアマ」
「大きな声を出さないでいただけますか?吐きますよ」
「てめぇが仕掛けてきたんだろうが!さっさと離せ!」
ようやく掴んでいた手が離れていく。
「貴方ばかりいい思いをしているんですから、これくらいの見返りは覚悟していただきたいものです。私は一度もしたことがないのに」
「何が見返りだ。したいなら本人にすればいいだろ」
「そんなことできるわけないでしょう!?私は彼を傷つけたいわけじゃないんですもの!」
中津川はハンカチを取り出すと、自らの唇を丁寧に拭った。俺も手の甲で口元を擦る。気持ちが悪くてたまらない。
「私もダメージを受けている分、諸刃の剣とも言えますが……いい気味です」
「何がいい気味だ。信じらんねぇ」
そんな俺たちを余所に、九条と市之宮はいつの間にか逃げるように隣り合っていた。
「……司」
「ん?」
「もろはのけん?って何?」
「得もあるけど損もあるってこと」
「……なんで中津川先生は先生にちゅーしたんだよ」
九条はともかく、市之宮はなんとなく事情を察したようである。まだ状況を飲み込めないでいる九条に順を追って説明しようとしている。
「中津川先生は徹平のことが好きなんでしょ」
「うん、まぁ、なんかそんな話をされたことはあるけど」
忘れてやるなよ。
「でも徹平が好きなのは藤城先生だ。しかも二人は付き合い始めたなんて言う」
「うん」
「中津川先生はどうしても徹平を諦められない。徹平の嫌がることもしたくない」
「うん」
「そこで多分、中津川先生は考えた。藤城先生とキスをすれば、せめて徹平と間接キスしたことにはなるだろ?」
「間接キス……」
「自分の好きな人を奪った憎き藤城先生にはダメージを与えられるし、徹平に直接的に害を与えるわけではないし、一石二鳥だ。ただし自分も大嫌いな相手とキスをする分、ダメージを受ける。それで諸刃の剣ってこと」
「なるほど……」
なるほど、じゃねぇんだよ糞餓鬼ども。どいつもこいつも九条九条ってうるさいんだよ。勝手な真似ばっかりしやがって。俺はそいつの代わりじゃない。
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