▼ アリスとクロエ3
黒江と攻防とも呼べるやり取りをし始めて、早数ヶ月が経った。相変わらず黒江の態度は頑なだが、ゆっくりと、しかし確実に前に進んでいるとは思う。
「黒江、起きて。もう昼だ」
昨晩から入れていたメッセージの返事がないと思って来てみたら、案の定これだ。本を顔の上に置いたまま、研究室の長椅子に寝そべっている黒江に声をかける。ちらりと見えた本の中身は全て英文だった。黒江の頭が良いというのは噂だけではない。
「ちゃんと家に帰ってから寝ろ」
「……有栖か……」
机の上にはエナジードリンクの缶と、栄養ドリンクの瓶が何本も置かれてあった。銘柄毎にきっちりと分別して立ててあるところが黒江らしい。
寝ぼけ眼を擦っている黒江の前にしゃがみ込む。
「黒江」
「何」
「こっち向いて」
軽くキスをしても、黒江は珍しく大人しいままだった。
「……」
それどころか、口付けやすいように自ら顔を傾けてくる。寝ぼけていることはわかっていたが、仮にも好意を持っている相手を前にして、ここで止められるほど俺は理性的な人間ではなかった。
「……っ、ふ」
絡ませた舌は拙く控えめで、だけど逃げることはない。口の隙間から漏れる吐息混じりの声が、一層興奮を煽る。
「……っ」
しばらくそうして互いの唇を好き勝手に貪っていると、黒江の身体が一度小さく跳ねた。そして強い力で背中を叩かれた。とうとう覚醒してしまったらしい。もう少し寝ぼけていてくれても良かったのに。
「この……っ」
唇を離した瞬間、殴られることはわかっていたのですぐに身をかわす。黒江が舌打ちをしながら濡れた口元を拭った。
「くそ……油断も隙もない……」
「自分から舌絡めてきたくせに?」
「間違えたんだ!!」
「誰と?」
「誰だっていいだろ」
黒江は起き上がって伸びをすると、デスクの上のパソコンを立ち上げた。起き抜けの身体に鞭を打つ気らしい。
「まだ帰らないの?」
「メールチェックだけして帰る」
「じゃあ俺も帰る」
「授業に出ろ」
「今日は無いよ。お前に会いに来ただけ」
「……」
俺の言葉を無視し、黒江はパソコンの前でスマホをぱちぱちと弄っている。
俺を好きだと言いながら、黒江の態度がこうなのは、俺に対する好意と同時に劣等感があるからだ。
セックスなんて、回数をこなせばうまくなるのに。たった一度の失敗で挫折してしまったのは、黒江が打たれ弱いから。それまでが完璧すぎたせいなのだと思う。失敗なんて、今まで一度も経験してこなかったのだろう。大きな失敗は勿論、些細な失敗すらきっと黒江は知らない。知らなかったが故に失敗し、大切にしていた彼女に俺と浮気された。
「……」
ぐう、と黒江の腹が突如音を立てた。
「……」
「……」
「……腹減ってるのか」
「……昨日の昼からこのエナドリしか飲んでないからな」
「つくろうか」
「何を」
「黒江の食べたいもの」
「……どこで」
「俺の家か黒江の家か、黒江が嫌じゃない方」
「……」
どっちも嫌だ、とでも言うのかと思いきや、黒江は少し逡巡した後「僕の家で」と
答えをくれた。
*
あんなに頑なだった黒江が、こんなにもあっさりと自らの懐に招き入れてくれるなんて、どういう風の吹き回しか。考えるだけ無駄というものだ。彼のことだから、恐らく深いことは考えていない。腹は減った。だが食べに行くのも買いに行くのもめんどくさい。つくってくれるという奴がいるなら有難くあやかろう。俺の家に来るのが嫌だ。なら自分の家にするしかない。全て消去法だ。
黒江の家は、とてもじゃないが一人暮らしの規模の部屋ではなかった。2LDKはある。黒江が金持ちであるというのも噂だけではないようだ。
「……美味しい」
「それはどうも」
冷蔵庫にあった適当な食材で味噌汁と、卵焼きとをつくって提供すると、黒江はあっという間にそれをたいらげてしまった。
「黒江、寝るの?」
「んー……」
食後、ソファに寝そべった黒江は、じっと黙って目を閉じている。こうして見ると、本当に顔のいい奴だ。男くさくなくて、綺麗で、女受けのしそうな顔。
──隙だらけだって、何故わからない?
ソファに膝をつき、覆い被さるようにキスをする。
「ん……」
黒江は眠たいながらも意識はあるようで、俺の胸を突っぱねて抵抗してきた。
「やめろ、馬鹿」
「やめない」
黒江の家で、二人きりで、こんなに無防備に寝たりして、わざととしか思えない。
「わかってて俺のこと連れてきたんだろ」
「……」
「逃すわけない」
「んぐ……っ」
顔を両手で掴んで再び口付ける。そのとき、ごとりと大きな音がして、咄嗟にそちらを向いた。
「あ……っ」
唇が離れた途端黒江が大きな声を出す。
「……っ、見るな……!!」
「……」
床に転がっていたのは、男性器を模したアダルトグッズだった。ソファの脇に置いてあったサイドラックから落ちてきたらしい。黒江がバタついたときに脚でも当たったのだろう。
「……」
「……何も言うなよ」
「……」
「拾うな!!」
──ああ、成程。
拾い上げたそれを目の前にして、思い当たる一つの結論。
「……準備って、これか」
「……」
──もう少し、準備が終わるまで。
それが黒江が俺を拒むときの常套句だった。浮気というものが残す傷跡を知っている彼に限って、仮にも好意を寄せている人間──つまり俺──を裏切り、他の男と寝ているなんてことは有り得ない。きっと心の準備がどうのという話なんだろうと思ってはいたが、成程合点がいった。
「いいから返せ」
黒江は真っ赤な顔で僕を睨みつけている。少しでも揶揄おうものなら蹴落とされて終わりだろう。俺は黒江と一歩先に進みたい。だから、間違えてはいけない。間違える気も無い。
「準備、まだ終わらないのか」
「聞くな」
「俺のためなんだろ」
「だから、聞くなって」
「今俺がどれだけ嬉しいかわかる?」
「わからない」
「じゃあ、わからせる」
「待……っ」
止めようとする黒江の唇を塞ぎ、持てる限りの力を尽くして愛撫する。
「……っ、ん、……」
「黒江、好きだよ」
黒江は俺の言葉に息を呑んだ。それから、覚悟を決めたかのように小さく口を開く。それがまた堪らなかった。無理矢理の行為じゃない。黒江だって、先を望んでいるのだ。
「は……ッ、ぁ……う……」
くち、と絡み合った舌が水っぽい音を立てた。飲み込めない唾液が口の端を濡らす。
「んん……ッ」
キスをしながら手を服の中に差し入れ、直接肌に触れると、黒江は俺の胸に手を突っぱねてきた。
「黒江」
「ごめん」
「……怖い?」
「違う」
「うん?」
「……お前に触られるのが怖い」
「やっぱり怖いんじゃないか」
「違う。お前がおかしいから」
「おかしい?」
「無理だ」
「無理って」
「触らないでする方法はないのか」
「そんなものあるわけないだろ」
「……」
「俺は黒江に触りたいよ。もうずっと」
「……」
「……触られると気持ちいいから、怖い?」
「……」
無言。肯定の証。
キスをして押し倒しても、黒江はもう抵抗しなかった。
*
「……ッ、ぁ……〜〜〜っ、ぁ、あ……!!」
中に埋めた指をきゅうきゅうと締め付けながら、黒江は何度目かわからない絶頂を迎えた。まだ恥は残っているのか、声を必死に噛み殺してはいるが、ふとした瞬間に漏れる嬌声が段々と大きくなってきている。
「イくの何回目?」
「……っるさい……」
後ろから抱きかかえるような体勢で、俺の指はしっかりと黒江のそこに入っている。
「お前が、変な触り方するから……っ」
「変じゃない」
「……ッ、ん……!!」
「ほら、俺の触り方、覚えて」
幾分か柔らかくなったそこに、ゆっくりと指を出し入れさせた。くぷ、くぷ、と体液が音を立てて糸を引くのが見える。
「こうやって触ってあげるんだよ」
「……っ、……ッ、ぁ……」
「焦れったいくらいゆっくりで。反応を見ながら、気持ちいい場所を探り当てて」
真っ赤になった耳を後ろから舐めてみると、腕の中の身体が更に強張ったのがわかった。
「はぁ……ッ、ん」
「耳好き?」
「……っ」
「あと、ここも好きだろ」
「や……ぁ……ッ!!」
指の腹で乳首を押しつぶす。黒江の口から上擦った声が漏れた。
「自分で弄ったことある?」
「聞くな……!!」
「中にあの玩具挿れながら、ここも同時に指で弄った?」
「お前、本当に、うるさい……っ」
黒江は孔を弄る俺の腕に爪を立てて抗議してくる。痛い。だが、その痛みを心地いいと思えるほどには、俺は黒江が好きだった。
「可愛い、黒江」
黒江が鼻を啜った。
「……っ、も……やだ……ぁっ、おかしく、なる……ッ」
泣いている。プライドの高いことこの上ない黒江が、ぐずぐずになって癇癪を起こすのは、とても可愛い。
「ん……っく、ちょ、っと、待……ッ」
中を指で小刻みに擦りながら、時折乳首を弄る。耳の後ろから首筋にかけて、赤くなった肌に唇を這わせた。
「……っ、……ッ、有栖……!」
またイく、と呟いたかと思えば、黒江の性器からはどろどろと白濁が吐き出される。
「は……っ、ぁ……っ、あ……」
荒い息を吐いて、黒江は身を震わせていた。そこから指を引き抜くと、小さな悲鳴じみた嬌声が上がる。
「……っ」
「大丈夫。俺しか聞いてない」
それを恥ずかしがるように背けた頬に口付けた。唇から伝わる皮膚の温度は、酷く熱かった。
「いい?」
「……いいも何も、俺の答えなんか聞いてくれないくせに……っ!!」
黒江の瞳が俺を見上げる。蕩けて潤んだ色男の目は心臓に悪い。
ゴムの袋を開けて装着した後、黒江の脚を抱え込んで再度押し倒すと、黒江は一瞬怯んだような顔をした。
「怖いのか」
「怖くない」
嘘だ。怖くないやつはそんな表情を浮かべたりしない。だけど、こちらも止めてやる気はない。
少し腰を押し出して、先端をゆっくり挿入していく。散々弄り倒したおかげか、そこは柔らかく開いて俺を受け入れていく。
「……っ、ぁ」
黒江は俺の腕をきつく掴み、挿入の感覚に耐えているようだった。苦痛というわけでは無さそうだが、気持ちいいかどうかまではわからない。一気に奥まで入れてしまいたい衝動を堪え、慎重に最奥を目指す。
「ひ……っ、ぃ……」
ある一点を通った瞬間、黒江の口から悲鳴が漏れた。よく見れば、全身に鳥肌が立っている。
「……ここ?」
「ちがう、馬鹿、やめ……ッ」
一旦奥を目指すのを止めて、その一点を叩くように数回出し入れしてみる。
「あ、ぁ……っ、ん……ッ、やぁ……っ!」
明らかに声色が違う。指では届かなかったのだろう。ここが黒江の所謂「Gスポット」だ。
「うぁ……ッん、んっ、はぁっ、やだ、やだ、そこ……っ、ぁあ……ッ、あっ、ん」
とん、とん、と出し入れしながら切っ先を押し付ける。必死になって逃げようとする腰を掴み、執拗に何度も何度も。
「い、いく……ッ、イくっ、っぁあ、やめ……っ」
「やめない」
やめろと言いながら、黒江は俺の動きを追いかけるかのように腰を押し付けてきていた。それに応えるため、また少し攻め方を変えながら次第に抽送を早めていく。
「あっ、あっ、っ、……っ!!……ぁあ……ッ!」
黒江の白い身体が仰け反って、魚のようにびくびくと震えた。中が強く締まり、その後不規則に襞がうねり始める。
「……ッ、……っ、っ……!!」
声もなく悶えている黒江の性器から精液は出ていない。初めてのアナルセックスで中イキとは、「準備」の甲斐があったものだ。
「黒江、可愛い」
「はぁ……っ、は……、ちょ、っと、待って……」
暫くの間、黒江の絶頂が過ぎるのを待つ。紅潮した頬と、開きっぱなしの唇から覗く赤い舌がとても可愛い。吸い寄せられるように口付けた。
「ん、う……待っ……ぁ、……んん……っ」
背けようとした顔を無理やり掴み、夢中になって口内を貪る。
「……ん、ん……、ん」
絡めとった舌を丁寧に愛撫し、放してはまた吸って。黒江は気持ちよさそうな声を漏らしたかと思えば、不意に胸を突っぱねて拒んできた。
「や……ッ、なんで……っ、いやだ……ッ」
中に埋めたままのものが徐々に締め付けられていく。うねりながらまとわりついてくる内側の感触を味わうため、ゆっくりと抽送を繰り返した。
ずるずると抜けそうなくらいまで腰を引くと、孔の縁が捲れあがるのがひどくいやらしい。
「ぁ、う……〜〜〜〜ッ!!」
そこにまた張り詰めたモノを押し込んだ。胸に突っぱねられていた黒江の手が、力なく下がってくる。
「……っ」
きつくすぼまった腸壁に刺激され、思わず息が漏れた。
「……有栖……」
「……ん?」
黒江の瞳がこちらに視線を注いでいたので、見つめ返す。
「い、いい……?」
何が、と聞き返すのは野暮というものだろう。
気持ちいいか、と尋ねている。黒江が、俺に。
「いいよ」
良くないわけが無い。
「好きな奴を抱いてるんだ」
肉体的な部分は勿論、精神的な満足感が並ではない。
「……そういうことは言わなくていい」
「言って欲しくて聞いたんだろ」
「ちが……あ……ッ」
また引き抜こうと腰を後ろにやると、黒江が咎めるように腕を掴んできた。手のひらまでしっとりと汗ばんでいる。
「ぁ、あ……っ、やだ、それいやだぁ……ッ!!」
「いやだじゃない。見て、ここ。黒江が俺のに吸い付いてくる」
「違う、ちがう、勝手に」
「勝手に欲しがる方がエロい……っだろ」
「〜〜〜〜〜〜〜…………ッ!!!!」
先端で腹側の肉壁を強く擦り奥まで挿入すると、黒江は小さく悲鳴をあげて吐精した。ぴんと伸ばされた爪先が宙を蹴る。
「……っ、は、ぁ、はぁ……」
「さっきの分まで出た?」
「知らな……っ」
掴んだ腰がびくびくと震えて止まらない。溢れる精液が白い腹を濡らす。
「……っ、ん、ん……っ、……ッ」
黒江は何度も身を捩り、押し寄せてくる快感を必死に堪えているようだった。
「ぁ、りす……っ」
黒江が小さな絶頂を繰り返す度、中に埋めたままのものが刺激されるものだから、こちらもたまったものではない。
「も……無理……、これ、抜け……っ」
「無理じゃない。抜かない」
まさかここで終わりなんて、そんな馬鹿な話があるか。
「……っ」
強い口調で却下すると、黒江は未だ余韻の残る瞳で俺を睨む。
「う……嘘じゃないか」
「嘘?」
「悦びを教えてもらったとか、天国みたいだったとか、嘘だ……っ」
「……いや、それは俺が言ったわけじゃないから」
「お前に抱かれた人たちに同情する」
「どうして」
「こんなの地獄だ……っ」
地獄とは酷い言い様だ。そんなことを言われたのは初めてだった。
「僕は今日のことを一生忘れない。忘れられない」
「……」
「この先誰とセックスをしても、満足なんてできない。お前に抱かれた記憶を越えられない」
「……えぇと、ありがとう……?」
褒めてない、と黒江は噛み付くように言った。
「ひたすら貪るみたいに求められて、駄目だって言っても許してくれなくて、なんて愛されてるんだって、勝手に嬉しくなる」
彼のその言葉には棘があった。まるで、俺が本当は誰も愛してないみたいな、そういう言い方だ。
好きだと言ったじゃないか。どうして伝わらない。
自分の気持ちは自分が一番知っている。こちらの気持ちを想像して決めつけて、勝手なのは黒江の方だ。
「……待て、違う」
苛ついた気持ちを察したのか、黒江は開きかけていた俺の口を手のひらで覆った。
「同情していると言ったのは」
黒江の声は震えていた。
「もう二度と味わえないからって意味で」
ただ、それは泣いているのとは違う、強い声だった。
「……わかってるだろ」
「……何を?」
「僕を好きなら、僕を裏切るな」
「当たり前だ」
そんなことをして、黒江の信用を失う方が怖い。かつて彼の恋人だった彼女がそうしたように。
「だから地獄だって言ったんだ。お前に抱かれた人達は、僕がいる限り、もう一生その悦びを味わえない」
「……」
「……僕は」
黒江の瞳が潤んで、ゆらゆらと揺れた。
彼の気持ちは知っている。知っているから手を伸ばした。
「僕は有栖を手放したくない。誰にも渡したくない」
なのに俺は、黒江のその言葉にどうしようもないほど動揺した。
「有栖が好きなんだ」
どうしようもないほど、嬉しかった。
*
それから俺は、すっぱりと女遊びをやめた。が、黒江はことあるごとに疑いの視線を向けてくる。彼は俺に、信用に足りるかどうかは僕と付き合う付き合わない以前の問題だ、と言った。
「どういう意味?」
「お前はセックス依存症だから」
「否定はしないけど」
「ほら」
「黒江がその分相手してくれればいい」
「できないから困ってる」
小さく溜息を吐く黒江の手には、やっぱりエナジードリンクが握られている。
「それやめろ。身体に悪いから」
「誰のせいだと思ってるんだ」
黒江は大きな欠伸を一つして、俺を睨む。
「お前がねちっこく何度も何度も人に無体を働いてくれたおかげで、寝不足なんだよ」
「もっとってねだってきたくせに?」
「ああいうときは僕の言うことを聞くな。無視しろ」
「じゃあ聞くけど、黒江は元カノとセックスしてるとき、あんな風に言われて止められた?興奮しただろ?」
ぼっと音がしそうなくらい、急激にその頬が赤く染まった。
「……言われたんだな」
面白くない反応だ。
「うるさい。どうでもいいだろそんなこと」
「それで盛り上がったことがあるわけだ」
「だから、僕と彼女の話は関係ない」
「彼女じゃなくて元、彼女だろ」
「……」
黒江が目を瞬いて僕を見る。頭の先から爪先まで隅々と。そして言った。
「お前、妬いてるのか」
「そうかも」
「かもって何だよ」
「妬いたことないから」
「最低だな」
「喜ぶところじゃないのか」
「自惚れるのも大概にしておけよ」
「そりゃ自惚れるだろ」
黒江が、あの黒江が、俺を受け入れるために身体を拓いてくれたのだ。長い時間をかけて、一人で「準備」だなんて、随分健気なことをしてくれた。
「次はいつ言ってくれる」
「……何を」
「好きだって」
黒江は小煩い虫を見るような目でこちらを見る。どう考えても好きな奴に向ける視線ではない。
「言わない」
「どうして」
「あのな」
黒江が音を立てて缶を置いた。中身はまだたっぷり入っているのか、ごとりと質量のある音がする。
「僕は有栖とは違う」
「何が?」
「慣れてない」
「はぁ」
「だから!こういうことには慣れてないと言っている!」
「知ってるよ」
「だったらむやみやたらにねだるな」
何度目かの息を吐く黒江の前にしゃがみこんで、下からその顔を見上げた。この角度から見ても、同じ男としては少し羨ましいくらいの美形だ。
「……なんだ」
その美形が、俺を不思議そうに見つめる。光をいっぱいに吸い込んだ瞳が煌めいて見えるのは、錯覚なのかそうでないのか。
「たまにでいいから、俺を恋人として扱って欲しい」
「……たまにでいいのか」
「いきなり関係を変えろなんて言っても、お前の性格じゃ難しいだろ」
「……」
まずは手を繋ぐところから、と言い放った彼の姿は記憶に新しい。そもそも、俺も黒江も男と付き合ったことはない。ことを急いてうまくいかなくなるよりは、ゆっくり歩調を合わせた方がいい。身体を繋げてしまった後で言うのも説得力はないが。
「……僕は」
「うん」
「……」
「……」
黒江がなにか大事なことを言おうとしているのはわかる。急かそうとはせず、じっとその続きを待った。
「お前と」
「うん」
「ちゃんと、恋人になりたいとは思ってる」
「……」
未だにちゃんとした恋人にすらなれていなかったことに驚愕するが、努めて表情を崩さないようにした。つくづく彼の頭の中はわからない。流石にお手上げだ。
「黒江の気持ちはわかった。俺はどうしたらいい?」
「……どうしたらいいんだろう」
黒江が本当に困ったような声で問うてくる。答えがわからないのは、経験値云々の話よりも彼の性格か。
だったら、俺が言うべきだ。黒江の手を握る。
「黒江……俺と」
「有栖」
「ん?」
「僕と付き合ってほしい」
「え?」
言葉を発する前、彼の口から出てきたのは、俺がまさに言わんとしていたことだった。
まさか言ってくれるとは思わなかった。目を瞬く俺に、黒江が畳み掛ける。
「返事はいらない」
「……どうして?」
たった今、恋人になりたいと言ったのはそっちじゃないか。
「いい。いらない。今必要ない」
「いらなくないだろ。ちゃんと言うよ」
「うるさいな」
「聞けって」
「うるさい」
「俺と付き合って」
「なんで僕と同じこと言うんだよ」
「同じじゃない。俺は返事がいらないなんて言わない。ちゃんとした言葉が欲しいから言ってる」
「……」
「黒江」
握った手を引き寄せて、指先に口付けた。我ながら気障だと思うし、必死すぎるとも思う。
「……お前が」
「うん」
「お前が先に僕を好きになったんだからな」
「うん。そうだ」
「僕の気持ちよりも、お前の気持ちの方が重いし」
「うん」
「……」
黒江の顔が歪む。
「……嘘。違う」
表情も声も、今にも泣き出してしまいそうだった。
「僕の方が先だ」
「……そう?」
「お前の僕に対する気持ちより、僕のお前に対する気持ちの方が重い」
「わからない。比べるものでもないし」
怒っているのか、泣いているのか。どうしてそんな顔をするのかと考えて、一つの答えに辿り着く。
──不安、なんだな。
自分が俺の求めることに応えられるか。応えられなかったとき、俺が離れていくんじゃないか。
彼女に言われたことは、黒江に余程大きな傷をつけているらしい。そしてその傷は、俺にとっては何より都合のいいものだった。
「俺は確かに、三度の飯よりはセックスが好きだけど」
「……」
「だからと言って、相手に同じものを要求するつもりはない。そんなのつまらないし」
「つまらないって……」
「黒江は下手でいいんだよ。一生下手なままでいろ」
「は?」
「俺相手に技巧なんて必要ない。俺が全部するんだから」
「……そういうわけにはいかないだろ」
「怖い?」
黒江が息を詰めて口を噤んだ。図星だったからだ。
黒江を頑なにさせているのは、男としての矜恃だ。それはいい。全く構わない。
「俺にされるがままで、自分が何もできなくなるのがそんなに怖い?」
「……」
「俺はそれでもいい。むしろそうであって欲しい」
「……僕は嫌だ」
「うん。でも諦めて」
「諦めようとしてるから、最後くらい駄々こねさせろ」
「わかってる」
顔を傾けて近づけると、黒江は一瞬ひるんだものの黙って目を閉じた。受け入れようという、精一杯の意思表示だろう。そのまま口付ける。
「……何」
「かわいいなぁと思って」
「見るな」
「返事は?」
「……今?」
「今」
黒江は長い長い溜息を吐いた後、観念したように片方の手で目を覆った。
「……付き合う」
「言ったな」
「……」
勝ち誇った顔をする俺とは裏腹に、黒江の表情は不満げなものになる。おい有栖、と名前を呼ばれた。
「何?」
まさか撤回されるわけではないだろうが、一応身構える。
「お前が僕を選んだんじゃない。僕がお前を選んだんだ。それだけ覚えてろ」
──どうやらそれが、彼なりの帰着点のようだった。
「……黒江は男前だな」
「今更気づくな。気づいてから好きになれ」
「知らないことが多い方が、これから先楽しくていいだろ。もっと好きになれる」
「お……っ前は」
「何?」
恥ずかしい奴だな、と黒江が顔を赤らめた。
「……有栖?」
「……」
「まさか、おい、ちょっとこっち向け」
──俺もそう思う。