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▼ アリスとクロエ

  クロエ。その名前を耳にしない日はなかった。
  クロエが誰それと付き合っているだの、気難しいと名高いとある教授に気に入られているだの、彼のゼミに入ることが確定したので将来は安泰だ、だの。その他下世話な噂諸々。どれも本人の自由なのだし、わざわざ当人のいない場で話すようなことかと思うようなものばかりだが、それは彼がそれだけ人の目を集めるような人物だということなのだろう。
  名前を聞くだけで肝心の本人の姿を見たことはないので、そのクロエとやらは本当は幻なのではないかと考えたこともある。
  こんなにも人の話題に上がるような奴ならば、きっと目立つことこの上ないだろう。クロエという名前からして、もしかすると外国の血が入っているのかもしれない。それなのに、俺は一度もクロエを認識したことがなかった。そりゃあ幻だと疑うのも道理ってものだ。
  そんなことをふと同期の友人との会話の中で俎上に載せてみたところ、友人は面白がって、ならば今からクロエに会わせてやると言った。別に会わなくてもいい、と断るも、まぁまぁと言いくるめられあれよあれよという間に俺はようやくクロエと会う機会を手に入れた。
「クロエ」
  クロエは食堂にいた。食堂で当たり前のようにうどんを啜っていた。他の学生と同じく、食券を購入し、パートタイムで働いている食堂のおばさんにうどんをよそってもらい、他の学生と同じく、一人で席に座って静かに腹ごしらえをしていた。
  友人が声をかけると、クロエは顔をあげて俺を見た。その瞬間、俺は全てを理解した。
「お前、二度と僕の前に姿を見せないんじゃなかったのか」
  随分と流暢に言葉を話す。当たり前だ。クロエは日本人だった。クロエではなく、黒江だった。名前ではなく、苗字だった。
  黒江を見たことがなかったわけじゃない。むしろ、俺は黒江をよく知っていた。何故ならその昔、昔と言っても大学に入学したばかりの頃だから、ほんの一年と少し前くらいの頃。俺は黒江の彼女を寝取ったことがあったからだ。
  寝取ったと言うと語弊がある。俺は彼女が俺と黒江を股にかけていたという事実を知らなかったのだから、俺の過失は限りなくゼロに近いと言わせて欲しい。
  俺はきちんと黒江に謝罪した。黒江は「二度と顔も見たくない」と言ったので、それを当然のことだと受け入れた。それ以来黒江とは会っていなかった。俺は意図的に黒江を避けた。避け続けた。それが結果、クロエを見たことがないという誤った認識に繋がったわけだ。
  俺はクロエを見たことがなかったんじゃない。クロエが黒江だと知らなかっただけだ。
「クロエって、黒江のことだったのか」
  俺がそう言うと、友人も黒江も怪訝な顔で俺を見た。何を言っているんだ、という顔だった。当たり前だ。俺の勝手な勘違いを二人は知らない。ごめん、悪かった、大した用ではないのでまたいつか、と言って踵を返そうとする俺を、黒江が引き止める。
「待て。座れ」
「……」
  断る理由もなく、俺は友人と共に黒江の向かいの席に腰を下ろした。
  黒江はうどんを啜り続けた(きつねうどんだった)。食べ終わるまで一言も発さずに。
「で、二人揃って何の用?」
  食べ終えたあと、間髪入れずに黒江が問う。
「いや、有栖が黒江に会いたいって言うから」
  黒江の鋭い視線を受け、友人は即座に俺を売った。俺はここに来るのをきちんと断ったはずだし、そもそも会いたいとまでは言ってない。
「そう。じゃあちょうど良かった。僕もお前に会いたいと思ってたところだ」
  黒江は食べ終えた食器類をトレーの中に几帳面にまとめると、それを持って立ち上がった。俺と友人は立ち上がった黒江を見上げる。
「有栖」
「はい」
  黒江に名前を呼ばれたのはいつぶりだろうか。もしかすると、初めてのことかもしれない。咄嗟に出たのは随分と従順な返事だった。
「この後は?」
「いや、特に何も」
「じゃあ僕に付き合え」
「わかった」
  状況を飲み込めずぽかんとした顔をしている友人を置いて、俺と黒江は連れ立って外へ出た。こうして隣を歩くのも初めてだった。
  黒江は確かに、人の目を集めるような奴だ。まず第一に、見た目がいい。顔がいい。身長が高い。本屋に並んでいる雑誌の表紙に黒江が載っていたとしても、誰も驚く人はいない。むしろそれが当然だと思うだろう。
  次に、金持ちだった。確か父親がどこかの企業の社長で、母親は元女優。これは噂に過ぎないので確かめたわけではないが、本人が否定しているわけでもないので、俺達はそれを真実として受けとめることとしている。
  加えて最後に、黒江はずば抜けて頭が良かった。冒頭に彼がとある教授のお気に入りであることは述べたが、それは黒江がとにかく優秀だったからだ。
  完璧という言葉を見事に体現しているかのような黒江が、何故俺という平々凡々な人間と二股をかけられたか。その答えは簡単だ。
「有栖」
  黒江は使っていない空き教室に足を踏み入れると、こちらを振り返って俺の名前を呼んだ。
「あのこと、誰にも言ってないだろうな」
「あのことって」
「とぼけるな。あの女が僕とお前とを天秤にかけた末に言い放った言葉だ」
「ああ……」
「言うなよ!!!」
「言わないけど」
  黒江の彼女は、俺が寝取った彼女は、大学内でも有名だった。ミスコンにだって出場するような可愛い女の子だった。
  ──類くんって童貞?
  そんな可愛い女の子の口からそんな言葉を聞かされた黒江の心情は、とてもじゃないが推し量れない。というか量りたくない。
「……あの女、絶対に許さない」
  そう。黒江は、黒江類は、セックスが壊滅的に下手なのである。
「大体お前も悪いんだ!お前のセックスが良すぎるのが悪い!」
「そんなこと言われても」
「良すぎるんだよ!!この淫乱!!」
  淫乱、などという言葉で罵られたのは初めてだ。別に俺は淫乱なわけではない。
「お前の話は嫌でも耳に入ってくる……天国みたいだったとか、女の悦びを教えて貰ったとか、また抱かれたいとか、そんな下世話な話ばかり」
「どうも」
「褒めてない!!!手近で食いすぎだ!!!恥を知れ!!!」
  黒江はヒステリックにそう言って俺の顔を指差した。恥を知れ、などという言葉を向けられたのも初めてだ。そんなことを実際に言うやつがいるとも思わなかった。
「あの女のトラウマで僕はあれ以来行為ができなくなったというのに、お前はほいほい女抱きまくって……」
「できなくなった?EDってこと?」
「違う!!!そこまでじゃない!!!」
「ごめん」
  黒江は俺が何を言っても腹が立つようだ。キーキーと途切れることなく喚いている。うるさい。
  うるさいので、その口を塞いだ。
「!!」
  塞いだついでに舌を入れてみる。黒江はびくりと身体を強ばらせた。
「ふ……っ、う、ん、んぐ」
  ちゅ、ちゅ、と角度を変えて口付け、口内を愛撫する。黒江の強ばった身体から次第に力が抜けていくのがわかったので、タイミングを見計らって唇を放した。
「黒江、うるさい」
「……なんで、今」
「なんとなく。口塞ごうと思って」
「手とかで塞げ!!!」
「びっくりした方が黙るかと」
「……っ」
   ひゅ、と黒江の手が空を切った。乾いた音とともに頬に鋭い痛みが走る。
「最低だ……っ、この、クズ野郎……!!」
  黒江は泣いていた。顔を真っ赤にして泣いていた。
「お前はどれだけ僕をコケにしたら気が済むんだよ……っ」
「してない」
「してるんだよ!!死ねクズ!!」
  育ちは良いはずなのに、口が悪い。だが彼の言うことは最もだ。
「黒江」
「話しかけんなゴミ」
「お前が俺をここまで連れてきたんだろ」
「もういい。僕の前に二度と現れんな」
「そのつもりだったよ。でもやめる」
「はぁ?」
「俺に言いたいことあったんじゃないのか」
「……」
  黒江は袖口で涙を拭くと、赤い目で俺を睨んだ。
「お前の方こそわざわざ人伝いにこれに会いに来たりして、何か言いたいことがあるんじゃないのか」
「あるよ」
「言え」
「クロエを俺のものにしてみたい」
「は?」
  クロエ、クロエ、クロエ。それはもう、毎日毎日クロエの名を聞かされてきた俺にとって、刷り込みみたいなものだった。
  これだけ多くの人に好かれるクロエが、俺一人のものになったらどんな気持ちだろう。そんな考えを抱くようになるのに、そう時間はかからなかった。
「クロエが黒江だったのは想定外だったけど」
「クロ……何?意味がわからない」
「俺は言った。次はお前」
  ぐっと黒江が押し黙る。
  本当は、彼の言いたいことなんてもうとっくにわかっている。が、彼の口から聞いてみたい。
「……」
「……」
「……」
「……黒江」
  するりと指を滑らせ手を握ると、黒江はそれを振り払った。
「わかった!!わかったから僕に触るな!!」
「本当にわかってる?」
「わかってる!!」
「じゃあ本当にわかってるか聞く。俺は今お前になんて言った?」
「お、お前が僕を好き、って話だろ……」
「そう」
  黒江はそれから、聞こえるか聞こえないかの声で「僕も」と呟いた。
「僕も、何?」
  今すぐにでも手を出してしまいたい衝動を堪え、黒江の顔を覗き込む。
「……僕もお前と同じだって言ってるんだ」
「同じって何?」
「……す、好き」
「どうして?」
「質問ばかりうるさいな。なんでもいいだろ」
「よくない」
「あんなに毎日毎日お前の名前を聞いてたら、嫌でも気になるもんだ」
「毎日はないだろ」
「毎日だ。毎日毎日、お前に抱かれたって女の話が聞こえる」
「それで、お前も抱かれたくなったってこと?じゃあ俺と同じ刷り込……」
  もう一回、今度は反対側の頬を殴られた。
「痛い」
「脳みそが下半身に直結してるのか?僕がそう簡単にお前に抱かれてやるわけないだろ」
「じゃあ俺が抱かれる側?」
「よくもそんなおぞましことが言えるな。お前みたいな不細工が抱けるか」
  やっぱり抱かれたいってことじゃないか。俺は間違ったことは言ってない。あと不細工は酷い。
「いいか。僕はそこらの女みたいに安くないんだ」
「はぁ」
「真面目に聞け。……だから」
  黒江が俺の両手に指を絡ませる。所謂恋人繋ぎである。
「だから、まずは手を繋ぐところから」
  ──こいつ、天然記念物か?



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