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▼ 水槽の魚

ある日、ふと兄さんと母が話しているのを聞いた。兄さんは「水族館に行ってみたい」とこぼしていた。

兄さんが自分から何かをしたい、どこかに行きたい、と願望を口にするなんて余程のことだ。今までほとんど聞いたことがない。何気なく口にした体だったが、本心では物凄く行きたいのだろう。

…水族館、か。



「いい?絶対に手離しちゃ駄目だよ。一人で行動するのも駄目。気分が悪くなったらすぐに言うこと」
「大丈夫」

こくこくと素直に頷き、彼は俺の手をしっかり握った。なんだか小さな子どものようでとても可愛い。

本当に大丈夫かな。一日中、しかも人の多い水族館に彼を連れて行くなんて、やっぱり危険すぎるんじゃないのかな。自分から誘ってみたとはいえ早くも後悔の気持ちが押し寄せて来ている。

…いや、でも…。

「隆幸、今日行く水族館にスナメリはいるのか?」
「うん。ホームページで調べてみたけど、スナメリのコーナーは結構人気なんだって」
「そうか」

あまり表情豊かでない彼の顔が、今はとても嬉しそうだ。そんなに嬉しいのなら、まぁいいか。俺が守ればいいだけの話だし。

「これから電車に乗るけど、酔ったり気分が優れなかったりしたらちゃんと俺に言って」
「うん。電車、久しぶりに乗る」

隣に他人が座れないよう、兄さんを一番端に座らせる。俺はそのすぐ隣だ。

「楽しみだな」
「うん」
「クラゲも見たい」
「うん。たくさん兄さんの好きなもの見ようね」
「隆幸は?」
「俺は…」

俺は、兄さんを見ていられればそれでいい。目に映るのは兄さんだけでいい。兄さんのことなら、きっと一日中見ていたって飽きないだろう。

そう言うと、兄さんは俺なんか見ても面白くないぞ、とちょっとだけ笑った。



男二人で手を繋いでいる光景というのはどうも目立つらしく、館内に入るまではじろじろと見られているのが分かった。でもそんな周りの視線なんかどうでもいい。この手を離すことの方がありえない。

幸い水族館の中は暗く、他の客もそれぞれの世界を満喫したり、水槽に見入っていたりすることが多いおかげで気にすることなく楽しめそうだ。

「思ってたよりずっと暗いんだな」
「転ばないでね」
「あぁ」

彼の瞳はもう水槽に釘付けだ。子どものようにべったり張り付き、水中を漂う魚を食い入るように見つめている。

「これはなんて読む?」
「セキツイ」
「じゃあこれ」
「ウロコ、かな」
「ふうん…魚って普段まな板の上でしか見ないから、こうして泳いでいると別の生き物みたいだ」
「太刀魚もサンマもサバもアジも、みんないるね。いつも食べてるやつ」
「太刀魚は想像以上の長さだった。あとピカピカしてて眩しかった」

そんな他愛のない会話をしながら、様々なコーナーを歩いて回った。

兄さんが、あの兄さんが、家ではない別の場所で俺と一緒にいる。何だか不思議な光景だ。

もっと前、少なくともまだ俺たちが幼かった頃は家族でいろんな場所に出かけたことくらいはあるけれど。こんな風に二人で、大人になった兄さんの隣を歩くことができるなんて予想もしていなかった。

…勿論、今この穏やかな時間でさえも不安に付き纏われていることに変わりはない。家にいるときとはわけが違う。

家はいい。あの閉鎖的な空間はとても居心地がいいし、誰の存在も気にする必要がない。

でもこうしてどこか別の場所で過ごすのも、思っていたよりは楽しいと感じる。

「楽しいね」
「うん」
「気分悪いとかない?」
「平気。次は何の水槽なんだ?」

彼が見たがっていたクラゲとスナメリのコーナーも終わり、最後に待っていたのは巨大水槽だ。

「えっと…あ、ここで最後みたいだよ」

館内マップを見ながら返事をする。

うわぁ、と隣で声がした。兄さんの声だ。

まるで溜息を吐くような、小さくてか細い声だった。

「すごい」
「圧巻だね」
「すごく綺麗だ」
「うん、綺麗」
「こんなに大きな水槽、どうやって作るんだろう」
「この水族館の売りみたいだよ。巨大水槽」
「そうか」
「うん」
「…そこに座るとこあるから、休憩しようか。座りながら見てられるよ」

ずっと立っているのも疲れるだろうと思い、彼の手を引いた。設置された椅子に二人で座る。

長時間歩いていたせいか、足先からじわりと疲労が広がっていくような気がした。俺でもこうなんだから、きっと兄さんはもっと疲れているんじゃないのかな。足、平気かな。

心配になって彼の方を向いてみるが、彼は何も言うことなく、ただじっと目の前の大きな水槽を見つめている。

「…」
「…」

青い光に照らされながら、静かな水の中を揺蕩う魚たち。

小さい魚、色のついた魚、泳ぐのが速い魚、群れを成している魚。様々な種類の生き物がそこにいた。

名前を知っているわけじゃない。何の魚かも分からない。だけどそれで良かった。

「…でも」

しばしの沈黙のあと、彼がぽつりと呟く。

「うん」
「こんなに大きな水槽でも、魚にとっては狭すぎるんだろうな」
「え…」

兄さんはそれ以上の言葉を発さず、再び静かに水槽を見つめた。俺はそんな兄さんの横顔を見つめた。

水の青が彼の肌に映りこみ、ただでさえ白い顔を一層際立たせている。息を呑むほど綺麗な光景だった。まるで絵画のようだ。

だけど何故か、ひどく不安になった。それ以上見ていたくなくて、視線を水槽へと戻す。

――どんなに大きな水槽を用意しても、魚にとっては狭すぎる。

兄さんがこぼしたその一言は、兄さん自身の気持ちを表わしているのかもしれない、と思った。

彼を思う気持ちがどれだけ大きかったとしても、がんじがらめにして、囲って、閉じ込めることを、彼は窮屈に感じてしまっているのかもしれない。

水槽の中が魚本来の居場所でないように、家の中で俺だけのものにしておくことが、本当にかれにとって本来あるべき姿なのだろうか。答えは否である。

だって、今日兄さんはこんなにも楽しそうにしていたじゃないか。外の世界に触れて、普段とは違う景色を見て、笑っていたじゃないか。

分かっている。俺が間違っていることくらい。

でも、どうしようもないじゃないか。俺は兄さんを愛しているんだ。他のやり方があるっていうなら、誰かそれを教えてくれよ。

「兄さ…」

苦しい。痛い。お願いだから俺を拒絶しないでほしい。ただ一言、馬鹿だなって、それだけでいいから。そんな思いで隣を見ると、何故かそこに兄さんの姿はなかった。

なんで。どうして。さっきまで、今の今まで隣にいたよね。繋いでいた手は。彼の体温が、しっかりとこの手の中にあったはずなのに。

「…え?」

…俺が、目を逸らしたからだ。

身体中が急速に冷えていく。暑くなんてないのに汗が噴き出す。

「兄さん…?」

嘘だ。嘘だ。兄さんが俺の傍からいなくなってしまうなんてありえない。あってはならない。

押し寄せてくる恐怖が指先を震わせた。目の前が真っ暗で、何も考えられない。

「兄さん、兄さん、兄さん…!!」

立ち上がって辺りを見回し、狂ったように彼のことを呼んだ。周りの客が驚いてこちらを見るが、構わず走り出す。

「兄さん、どこ…!?」

どこにいるの。手を離さないでって言ったじゃない。一人で行動しないでって。なのにどうして。

水族館に行きたいって言ったのは、こんな風に俺から逃げるためだった?自由になりたかったから?一生俺の傍にいてくれるっていうのは嘘?愛してるって言ってくれたのも、全部全部無かったことにするの?

――水槽の中より、海の方がいい?

魚が水槽を泳ぐのと、海の中を泳ぐのとじゃ大違いだ。

何もかもを与えられて静かに漂うだけの人生と、危険に身をさらしながらも自由に泳ぐ人生と。どっちがいいかなんてそんなこと誰にも分からない。

ただその魚が、どちらを望むかというだけの話だ。

兄さんは、海を選びたいと思ったのだろうか。

「幸広…っ」

どうにもならなくなって、その場にしゃがみ込んだ。

嫌だ。こんなの、嫌だ。こんな別れは、嫌だよ兄さん。

お願いだから、置いて行かないで。俺を一人にしないで。

兄さんしかいないんだ。俺には兄さんだけなんだ。兄さんが俺の全てなんだ。

――俺は、兄さんがいなきゃ息すらできないんだ。

「…たか…っゆき、たかゆき…」

後ろから声が聞こえる。

「隆幸…、だ、だいじょぶ、か…」

苦しそうな声だ。ひゅうひゅうと空気の抜ける音がする。

「…たか、ゆき、おい…隆幸…っ?」
「にい、さん…?」

伏せていた顔をゆっくり上げると、そこには心配そうな表情を浮かべた兄さんの姿があった。

「きゅ、きゅうに、走り出すから…っ、はぁ、おどろいた…」
「え…?」
「もっと近くで、見たかったから、水槽の前に立ってたんだけど…お前、気づかなくて…っ」
「水槽の、前?」

兄さんが何度も頷く。

「ごめん、一応、ちょっと見てくるなって声かけた、つもりだった…でも、聞こえてなかったみたい、だな…」

…違う。聞こえてなかったのは、兄さんのせいじゃない。

俺が、つまらない考え事に気をとられてぼんやりしていたからだ。

「お前が、俺のこと、何度も呼んでるの、聞こえて…慌てて、追っかけてきた」
「…っごめん、ごめん、兄さん…!」

手を伸ばしてその身体を抱きしめる。

「ごめん、苦しいよね…ゆっくり息吸って、吐いて…俺の腕、掴んでて」

馬鹿か俺は。守るって決めたのに、俺のせいで兄さんの身体に負担をかけてしまっているじゃないか。

浅い呼吸を繰り返す彼の背中をさすりながら、何度も何度も謝った。

「へい、き…久々走ったから、ちょっと疲れただけだ…」
「ごめん。ごめん。本当にごめん…最低だ、俺…」
「俺のことは、いい」

ぎゅう、と背中に手が回る。

「大丈夫か。怖かったか」
「…」

小さな子どもに話しかけるような声色で問いかけられる。繰り返し頷いた。

怖かった。怖かったよ、兄さん。

世界にたった一人、置いてけぼりにされたみたいな気持ちだった。

「ごめん。でもこれだけは、覚えておいて。俺はお前を、絶対に一人にはしない」
「兄さん…」
「俺が魚なら、お前は水槽じゃなくて酸素だから。そこのとこ間違えてもらったら、困る…」

…俺が、酸素?

「どんなに窮屈な水槽に入れられたって、構わない。俺は、酸素さえあれば生きられる」

兄さんは、俺の不安の原因をしっかりと感じ取っていたようだった。

そしてその不安を煽るようなことを言った自分を、後悔していた。

「離れることはありえないんだよ。そもそもそんな選択肢が存在しないんだ。だって絶対に不可能なんだから」

生きるために必要な酸素。それを生物と切り離すことは、絶対に出来ない。その生き物が生きている限り。

ほら、と兄さんが笑う。

「さっきまで苦しかったのに、お前のおかげでもう息ができる。やっぱり隆幸は俺の酸素だ」
「でも、苦しくなったのも俺のせいで…」
「いいよ」
「え?」
「隆幸がくれるものなら、何でも嬉しい。苦しくても痛くても嬉しい」

――あぁ、魚は俺の方だ。

俺が兄さんを包み込んでいたんじゃない。

大きく優しく包み込んでいてくれたのは、俺じゃなくて兄さんの方だった。

「兄さん」
「うん」
「兄さん、兄さん」
「ん」
「俺、兄さんの酸素になれて嬉しい」
「もうずっと前からそうだ」
「そうなの」
「うん」
「じゃあ俺が魚になったら、兄さんは酸素になってくれる?」
「勿論」
「俺のこと、窮屈な水槽で愛してくれる?」
「隆幸がそれを望むなら」
「そっか」
「うん」
「あと、最後に一つだけ」

今日、楽しかった?

そう問うと、兄さんはまた「うん」と頷き今日一番の笑顔を浮かべる。

どうしようもなく愛しくなって、たまらなくなって、腕の中の小さな身体を抱きしめることしか出来なかった。

「帰ろうか。家に」
「うん。帰ろう」
「お腹空いたね」
「今日の晩御飯は、太刀魚の塩焼きにしよう」
「ふふ」

俺も楽しかったよ、兄さん。

end.




みけさんリクエストで、「水族館デートで、途中はぐれてアワアワしながらも終始ラブラブしてる2人」でした。
初めておうち以外での二人を書きました。難しかったけれど楽しかったです。水族館いいですよね。私もクラゲを見ているのが一番好きです。
あとこんな客が実際に居たらものすごく迷惑だと思いました。人の目をもう少し気にしろ間宮兄弟。

楽しんでいただければ幸いです。リクエストありがとうございました!


[ topmokuji ]



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