▼ マニアA
「はぁ?なんで僕がわざわざ相手役になってやんなきゃいけないんだよ。こっちはこっちで忙しいんだけど」
これ、一応俺の恋人。
「いやむしろお前が適任だろ」
「だからなんで」
台本に走らせていたペンは止めないまま、夏生は迷惑そうにそう言った。
「告白シーンだから」
「へ…」
「どうせなら好きな奴とやった方が感覚掴みやすいだろ」
ぴたりと動きを止め、ようやくページから顔を上げる夏生の頬はうっすら赤く染まっている。笑いそうになるのを堪え、隣の席に腰を下ろした。
わかりやすいことこの上ないよなぁ、こいつ。
「とりあえず台詞合わせだけでいいから、頼むわ」
「でも僕、演技とかできないし…」
同じ部活に所属しているといっても、夏生と俺は役割が全く違う。俺は演じる側で、夏生は演出側だ。恐らく今こいつが書き込んでいるのも、今度の劇の演出に関するメモだろう。
「別にお前に期待してないからいいよ。棒読みでも」
「は?頼むならもう少し殊勝な態度で…」
「いいからほら、ページ開けろ」
向かいの席に腰を下ろし、該当するページを開く。
「どうか、私の話を聞いてください」
「…えぇ、どうぞ」
早速そのシーンを演じ始める俺に、夏生は淡々と相手役の台詞を返してくれた。恥ずかしさが拭えないのか、少しぶっきらぼうな口調になっているのが面白い。
――そういえば、告白のときもこんな感じだったっけ。
夏生に告白されたのは、中学二年生、俺が初めて主役をもらった日のことだった。
『お前の一番のファンは僕だから』
『は?ファン?』
部活終わり、帰り際。夏生は俺に向かってそんなことを言った。
夏生と俺はそれまで最低限の会話しか交わしたことがないくらいで、むしろどことなく避けられているような印象を抱いていたから、恐らくこいつは俺のことが嫌いなんだろうな、まぁどうやったって気が合わない奴はいるよな、ぐらいの軽い認識だった。
俺を嫌っているはずの同級生が、俺のファン。向けられた言葉を理解するのに少々の時間を要したのは、仕方のないことだと思う。
『お、お前を一番好きなのは僕だから、だから…』
『…だから?』
『主役、本当に、うれしい。おめでとう』
なんだそれ、とか。結局何が言いたいんだ、とか。お前俺のこと嫌いだったんじゃないの、とか。
尋ねたいことは沢山あったけれど、目の前で恥ずかしそうに俯く夏生の姿を見ていたら、わざわざ聞かなくたって全部わかってしまった。
『あ、好きって言ったのはそういう意味じゃなくて…いや、そういう意味でもあるんだけど、ごめん、いきなり…』
『そういう意味って何』
『…』
夏生の白い肌は、首元から耳の端まで真っ赤だった。堅く引き結ばれた唇も不機嫌そうな声もどうやら怒っているわけではなくて、単に緊張しているだけなのだとそのとき初めて気がついた。
『…好きなんだ、初めて会ったときからずっと』
『…』
『お前が気持ち悪いなら、やめるから、その…』
なんだ、嫌われてたんじゃなかったのか。
『…別にやめなくていいんじゃない』
『えっ』
――まるで全身全霊で好きだと言われているみたいで、正直ちょっと浮かれたっていうのは、内緒。
まさかこいつとこんな風になるなんて思いもしなかったけど、あのとき告白を断らなかった自分を褒めてやりたいとは思う。
「私は今、言わなければなりません。伝えなければいけない気持ちがあるのです」
つらつらと昔のことを思い浮かべつつ、台本に印刷された文章を読み上げる。感情を込めて、はっきりと聞こえるように。
「貴方のことを、心から愛しています」
「…」
しん、と辺りが静まり返る。
おい、黙るな。ちゃんと台詞返せよ。視線だけでそう促した。
「わ、わ、私も、お、同じ、気持ち…です」
しどろもどろになりながらも、なおも律儀に付き合ってくれるところがなんともこいつらしい。
そんなので練習になるかよ、アホ。ちゃんと真面目にやれっつの。
――まぁ、単に愛してるって台詞言いたかっただけっていう俺のほうがアホか。
「本当に?」
ガタンと音を立てて立ち上がり、椅子に座ったままの夏生の顎を指で掴み上を向かせる。
「ちょ、ちょっ、ちょっと」
「もう一度言ってください。貴方自身の言葉で」
「えっ、待って…練習って、本当にここまでするの…っ」
「言って」
身をかがめて顔を近づけると、夏生は焦ったように距離をとろうと仰け反った。ムッとして眉間に皺を寄せる。なんで避けるんだよ。
「や、やだ…やめ…」
「やじゃない。練習付き合うって言っただろ。ちゃんとやれ」
「離せってば、いやだ」
「好きって言うだけ」
「…」
最早演劇の練習でもなんでもなくなっている俺の要求に対し、夏生の顔には今にも泣き出しそうな表情が浮かんだ。
こいつが俺のことをどのくらい好きかっていうのは、もちろんわざわざ言われなくたって知っている。
今まで部でやった公演は全て録画して保存していることとか、俺が着た衣装を歴代全部持っていることとか、こいつの携帯の待ち受けは俺(隠し撮り)で、写真フォルダも俺(隠し撮り)で埋まってるとか。
本人は必死で隠そうとしているみたいだが、同じ部の友人から面白おかしく伝えられたり、そもそも夏生自身が隠し事できないタイプだしで当然バレバレだ。っていうかどうしてバレていないと思えるのか。
――そういうアホなとこが、結構ツボなんだけど。
「夏」
「な、何」
「俺のこと好きなら、夏からキスして」
よくもまぁこれ程自信たっぷりな台詞を吐けるな、と我ながら感心する。
俺のこと好きならキスして、なんてこと、相手が自分を好きなことに確信を持っていない限り絶対に言えない。
こんな台詞を口にしておいてなんだが俺はナルシストではない。むしろ自他ともに認める平々凡々な人間だ。顔が特別かっこいいわけでもないし、かといって不細工でもない。成績も普通。運動も人並み。
そんな俺が唯一胸を張っていられるのが、舞台の上で。巧拙でいえばそりゃ俺はまだまだ未熟なんだろうけど、それでも演技をしている自分のことは声を大にして好きだと言える。
それは俺が演劇を好きだからだ。どんな役でもいい。小さな役だって構わない。演じることが楽しくてたまらないのだ。演技が好きで努力しているから、俺は俺に自信を持っている。
そして、夏生が好きになってくれた俺は、「演じることに誇りを持っている俺」である。
「い、一回しか、しない」
だから俺は、こいつが俺のことを好きな気持ちを疑わない。「俺が好きな俺」のことをちゃんと見ていてくれたのは、こいつが最初だったから。
「うん」
瞼を閉じて待っていると、しばらくしてから唇が柔らかく押し当てられた。もう何度も交わしたはずの口付けも、夏生からしてくれるものというだけで高揚感が全く違う。
「…これで、いい?」
「ん」
もうちょっと濃いのしてくれても良かったけどと笑う俺に、夏生は馬鹿じゃないのとまた顔を赤くした。
「っていうかこれ最早台詞合わせじゃなくなってるんじゃ…」
「だってお前にも言ったことないのに、劇とはいえ他の奴に先に愛してるなんて言いたくないし」
「そ、そんな理由で…っ」
「嬉しいだろ?」
「…本当にその自意識過剰うざい。どうにかして」
「はいはい」
じゃれるみたいに首元に唇を這わせると、夏生の身体が途端に緊張するのがわかる。だけど抵抗はされない。そのことに気を良くした俺は、今度は自分からキスをした。
「ん…っ」
いつもみたいに口を閉ざされる前に、素早く滑り込ませた舌で舌を絡めとる。
「は…んっ、んん!んぅ…、ん」
顔を背けられないように片手で後頭部を押さえつけると、逃げられないと悟ったのか、おずおずと控えめに向こうからも応えてくれた。
「んん、ぅ…んは、っ、あ」
開いた唇の隙間から小さな声が漏れ聞こえる。つくったような声じゃなく、自然にこぼれ落ちてしまうといった感じのこいつのこの声を、俺はかなり気に入ってる。
「ふぁ、あ、かん、かんじ」
くしゃりと髪の毛を柔らかく引っ張られ、瞳を開けた。すっかり蕩けた顔の夏生が、うっとりとこっちを見ている。
「ん…?」
返事をする自分の声が甘い。気持ちの良い場所を離したくなくて、唇はくっつけたままだ。
「これも、れんしゅう…?」
――アホ。そんなわけねーだろ。高校の演劇でキスシーンなんて無いっつの。
「練習だったら、どうすんの…?」
「んっ」
軽く下唇を吸いながら尋ねると、夏生はまたぴくりと身体を震わせた。多分「僕を練習台にするな」とか「もうやめろ」とかそういう反応が返ってくるのだろう。いつものことだ。勿論それが照れ隠しだということはわかっているので特に不満はない。
「夏生?」
夏生の手がブレザーの布地を掴む。怒らせたかと顔を覗き込もうとする俺の耳に、小さな声が響いた。
「…だったら、もっと、練習しなきゃ、だろ」
――ん?
「僕相手なら、いっぱい、していいし…」
「…は?」
もっと練習?いっぱいしていい?
…何を?
「いや…キスシーンとか演らないし練習でもないけど…」
混乱して素直に答えてしまう俺を、夏生が茹蛸のような顔で睨んでくる。
「知ってるよそんなことっ!!わかれよ!!」
わかれよ、って。
「…もしかして誘ってくれてんの?」
「ちがう!!」
「ちがわないだろ」
ようやく言われた言葉を理解した俺は、声を上げて笑いながらその身体をすっぽり抱きしめた。
「いやだ!離せ!」
「もっかい言って」
「言わない!」
かわいいって、まさにこいつのためにある形容詞なんじゃないだろうか。そんな馬鹿なことを思う。
「夏は俺といっぱいキスしたいわけね」
「だから!!ちがうって言ってんでしょ!!」
「はいはい。否定してもバレバレだから。俺のこと一番好きなのはお前だもんな」
「!!!」
告白された時のフレーズをそのまま口にしてやると、覚えていたのかとばかりに口を開けて絶句された。
「俺も好きだよ」
「えっ」
「夏生のこと、一番好きなのも俺だって言ってんの」
「えっ、えっ…!?」
「なにびっくりしてんだ。今更だろ」
「だって、今の、台詞…じゃないよね…?」
「台詞だったらもっとかっこよく言えてるっつーの」
「…」
「おい。なんか反応しろよ。嬉しくないわけ?」
ん?と尋ねて額にキスをする。
「う、嬉しくない…わけじゃ、ない…」
「なんだそれ」
素直じゃねーなぁ、全く。
言葉とは裏腹に強くしがみついてくる夏生の姿に、俺はまた笑った。
――もうしばらく、気づかないフリしててやるよ。俺のこと大好きなのを必死で隠そうとしてるの、結構かわいいから。