シック・ラバー | ナノ


▼ 09

「瑞貴、ふみくん」

今度は母さんが口を開く。

「ごめんなさい。私が一番、二人にひどいことをしてた。腫れ物に触るみたいな真似を」
「違いますよ」

ひふみは頭を下げる母さんに少し困ったように笑った。

「おばさんはもっとずっと早くに気が付いていたんですよね。でも、何も言わないでいてくれた」

母さん自身も、未乃莉も、それを「腫れものに触るみたい」だと言った。けれどひふみは、そうじゃないと言う。

「時間がかかってでも理解しようとしてくれていたんですよね。腫れ物に触るっていうのとは違って、それは」

それは。

「見守ってくれて、ありがとうございます」
「ふみくん……」

ひふみの言葉を聞いた母さんの声は震えていた。

――以前のひふみだったら、きっとこんなことは言わなかっただろう。

後ろ向きで、一人で抱え込んで、なんでも考えすぎて。

辛い気持ちをひた隠しにして、それでいいと本気で思っているような奴だった。

だから、ひふみが今みたいな言葉を言えるようになったのが嬉しい。

それが俺と一緒にいた影響なら、もっと嬉しい。

俺と一緒にいることで、ひふみが良い方に変われたのなら、こんな嬉しいことはない。

「……ひふみ」
「ん?」
「このまま」

じゃあ次は、俺の番だ。

「このままの勢いで、お前んとこ行きたい」
「いいよ。さっき連絡いれたし」

いつの間に。

「じゃあ、今度は俺がひふみのとこ行ってくるから」

鼻をすすりながら立ち上がると、正面に座っていた三人が三人とも「えっ」という顔をした。

「瑞貴、あの、こんな夜に橘さんのとこに行くのか」
「せめて明日になってからでも……」
「兄ちゃん、ちゃんと練習した?シミュレーションした?」

……揃いも揃って失礼だ。

ひふみはともかく、俺はあんまりこういうことに関して信頼を得ていないらしい。確かに、話し合いだの細かい駆け引きだのは苦手だが。

「こういうのは勢いも大事やろ。今行かんと」

ひふみが俺への気持ちをここで示してくれたように、俺もひふみへの気持ちをきちんと形にしなければならない。

それが例え突っぱねられようと、一人だけ逃げるわけにはいかない。



「良かったねぇ、日富美」
「うん。良かった。ありがとう瑞貴くん」

おじさんとおばさんの発言に、俺とひふみは「へ」と間の抜けた声を同時に発した。

「日富美が瑞貴くんを特別に想ってたこと、私もお父さんもずっと知ってたから」
「ず、ずっとって、いつから……」

ひふみが動揺を隠せない様子で尋ねる。

「高校生のときかな。あなた、いきなり東京に行くなんて言うから、私驚いて、瑞貴くんと一緒の大学には行かないのって聞いたの覚えてる?」
「覚えて……ない、あんまり」
「そうしたら途端に死にそうな顔して、この世の終わりみたいな顔して、そうだよって一言だけ呟いたの」
「……覚えてない」
「そのときは日富美の決めたことだからってあまり言わなかったけど……そんなに辛いなら一緒にいればいいのに、ってずっと思ってた。ねぇお父さん」
「うん」

おばさんの言葉におじさんが頷いて、ひふみを見た。

「辛い気持ちのままで生きていくために、お前は生まれたんじゃないよ」
「そう。あんな顔させるために産んだんじゃないの」

思わずひふみの手を握った。さっき、ひふみが俺の手を握ってくれたように。たったそれだけのことでどれだけ安心するか、俺は知っているから。

「お前は人の顔色を気にして自分を疎かにしがちな奴だけど、瑞貴くんとのことは自分で決めたんだろ?」
「……うん」
「なら、いい。日富美の人生だ。日富美が幸せなら、それでいいよ。あんな辛い顔するよりずっといい」

穏やかな声で話すおじさんの言葉を聞いて、俺はまた鼻の奥がつんとするのを感じる。今日は涙腺が壊れてしまっているみたいだ。

死にそうな顔って。この世の終わりみたいな顔って。

お前、どんだけ俺のこと好きだったんだよ。バカ。本当バカ。

今までひふみが何も言わなかったのは、全部俺のためだ。大事なことはいつだってはぐらかして、全て一人で決めてしまうのも、俺のためだ。

確かに、あの頃の俺はひふみを受け入れられなかったかもしれない。何も変わらないままの俺じゃ、ひふみの想いには応えられなかったかもしれない。

そんな俺を変えてくれたのは、ひふみの行動だった。

待ってろよって、絶対驚かせてやるからなって、ずっと一緒のままだったら絶対に思わなかっただろう。

だからこれからは、俺のために全部言ってほしい。胸の中にあるわだかまり全て、ぶちまけてほしい。

なぁひふみ、今の俺は、そんなお前のこと、全部受け止める自信あるよ。

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