未だかつて覚えのないくらい幸福な気持ちに浸されて、バーナビーは穏やかな眠りから覚めた。ふわふわとした繭にくるまれて空の夢をみる蚕のようだ。案ずることなど何もなく、ただ一心に太陽の愛を受ける。差し込む朝の光はすべてを祝福し、これ以上なく美しい日が始まろうとしていた。
 頬のすぐ下に温かな腕があって、なだらかな曲線を追うと隣で裸の胸が息づいている。  ぎゅっ、と心臓が縮むのを知覚して、次の瞬間全身に向けて熱い血潮が送り出される。世界で一番いとしい寝息を聞いて、泣きだしたいような幸福を感じた。
 この腕は昨夜バーナビーを抱いた。キスをして愛を紡ぎ、一晩中離さなかった。思い返して、改めて胸が熱くなる。爪先から髪の毛の一本一本まで、生まれ変わったような気にさせられる朝だった。
 一人泣いた夜はもう遠い。

(こてつ、さん)

 熱を交わす間彼に促されて、初めて舌に乗せた名を再び辿ってみる。素面ではやはり馴染まなくて気恥かしい。その名を呼ぶのはもっとずっと後になるだろうと、転がした舌の感覚を刻みつけながら大切に胸の奥へ仕舞った。彼もきっと、もうバーナビーを正しく呼んだりはしないだろう。それでいい。夢うつつで聞いた声を、バーナビーが覚えていればそれで。
 眠る虎徹を起こさぬようゆっくりと頭を持ち上げる。自分がいた個所がしっかりと赤くなっているのを見てその肌を辿るが、虎徹は僅かに身じろぐだけで目を覚ますことはなかった。普段饒舌な相手が黙って眠る姿はどこか可笑しい。ときおりむずがるように口許を動かし、まばらに伸びた無精髭をそよがせた。まるで大きな子どもだ。
 口を開かないでいると案外に端正な顔立ちをしている。年を重ねた分だけくたびれた感はあったが、それでも十分に見目好いと言える貌だった。相応の評価を受けないのは自業自得なので、今更どうということもなかったが。
 身を起こすべく背を逸らすと流石に節々が軋んで、顔を歪めながら一旦シーツに伏せる。乾いた肌に触れるリネンが心地良い。慣れた匂いに虎徹のものが混じって、胸の奥が甘酸っぱく躍った。洗濯するのは惜しいが、かといってこの匂いに抱かれて一人眠ることは難しそうだ。今だって胸が疼いて仕方ないのに。
 早く目覚めた顔が見たい。バーナビーは虎徹の深い色をした双眸が好きだ。時に優しく、時に悪戯に輝きを放つ。
 起きたらどんな顔をするだろう、どんな顔をすればいいのだろう。浮かれ立った頭では答えなど出せずに、温かな体に擦り寄って頬をくっ付けた。
 汗ばんだ肌を重ねるのも心地好いが、乾いた肌はまた別の安堵を連れてくる。バーナビーは全身の引き攣れるような痛みに耐えながら上半身を擡げ、虎徹の上に乗り上げた。
 ちゅ、とその顎先に口付ける。裸の胸、鎖骨、喉仏、鼻の先。啄ばむように触れて、今は閉じられた唇の端を舐める。キスを強請る風なしぐさにも目を開けない相手がうらめしい。まるで自分だけが想っているようで、少しだけ寂しくなった。
 反応のない虎徹に悪戯心が込み上げ、自らのそれとは異なり固くコシのある黒髪に指を通す。 額を出すように掻き上げてみると、そこはかとない色気に恥ずかしくなってぐしゃぐしゃと髪を乱した。大人の男の顔、だ。逃げるように首筋に顔をうずめる。鼻腔に広がる匂いを肺一杯に吸い込んだところで、下敷きになった胸がくつくつと動いた。
「…なにすんだよー、」
「っ!?あなた、起きて…」
「おはよ、バニー」
 耐えきれず笑いながら悪戯に目を細める虎徹に、跳ね起きたバーナビーは赤面する。完全にしてやられたという表情で戦慄き、片や虎徹は狸寝入りの成功にニヤニヤと口許を弛めた。バーナビーが甘える所も照れる所も寂しがる所も、全て見ていたのだ。
「朝からいいもん見ちゃったなー、まさかバニーちゃんが自分からキ…」
「最低ですね本っ当!いい年して狸寝入りですか!」
「怒んなって」
「むぐ」
 吐きだそうとした精一杯の罵倒は調子のよい唇に飲み込まれてしまう。怒っているのだと主張するべきなのに、達者な舌はそれを許してはくれなかった。
「待っ…、はみがき、してきますから…」
「いーだろ、もうちょっと」
「ん…」
 ごつごつした手で顎を捕えられては逃げられない。そうする以外にないような自然さでバーナビーの唇を奪って、貪り始める。絆されてしまうなど不本意なのに、正直な体は抵抗をやめて大人しく腕に収まる。
 一方でこんなときばかり目聡い虎徹は、バーナビーが身を起こした瞬間の強張りを見抜いて労わるように腰を撫でた。熱に浮かされた頭でそれを認識して、目の縁が熱くなる。
「出社時刻までまだもうちょいある。起こしてやっから寝てろ、な?」
 髪を撫でながら囁く声はやさしい。昨晩の淫蕩さが嘘のように健全で、何の色もなかった。全てが白日のもとに晒されても、この人はこんなにも真っ直ぐだ。薬指の誓いを外すこともしない。ありのままの身で抱いてくれたことが、バーナビーは嬉しかった。


 シーツの波間にいざなわれ、つかの間の蜜月に耽る。
 妻子があっても、自分の存在が過去愛した人を越えることがなくとも、すべて受け入れられるような身に余る幸福だった。





(110605)



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