9話捏造
 
 
 
 重ねた年齢を感じさせる乾いた掌が、ゆっくりと頬に伸ばされる。これから触るぞ、と暗に言い聞かせるような、それでいて口で了承を得ようとはしない狡い彼の。頬にざらついた感触が滑り、厚い皮膚が触れたことを知る。真っ直ぐにこちらを射る黄昏の色が苦しい。目を逸らしてしまいたいのにそれも出来ず、ただ息を飲んでじっと耐える。いくら目を凝らしてもその先に彼の真意が透けることはないのに、愚直すぎるほど必死だった。
 僕はこの男のことを何も知らない。
 
 
 妻子がいる、というのはある程度予測された状況ではあった。古い友人らしいロック・バイソン以外にそれを知るものがいなかったのもそうだ。進んで他人の事に首を突っ込むくせに、自らの事は多く語らない。それが不自然でないように彼のキャラクターは完成されている。友好的に見せ掛けて明確な線引きがある、伸ばした手が空を切るような事実に気付くのは興味を抱いてしまってからなので後の祭りだ。元々ヒーロー間の関係がビジネスライクなものであったことも一因ではあるだろうが。
 コンビと言えども飛び入りの新人が知り得る情報などそう多くはないし、僕も同じく口を噤むしかなかった。硬直するブルーローズのように率直な反応をするものは少なかったけれど、各々思うところはあった筈だ。
「お子様たちが寝たところで飲み直すかー」
「あなたはずっと飲んでいたでしょうが」
「飯は作っただろ?」
「半分くらいは床が食べてましたね」
 夕食を終えて交代でシャワーも浴び、ドラゴンキッドと赤子が眠ったところでリビングに戻る。我が物顔のおじさんが一人掛けのリクライニングチェアを占領したまま、かっわいくねー、と子どものように口を尖らせた。しかし揺らしていたグラスの中身を呷る手付きは大人そのもので、なんだか頭が痛くなってしまう。振り払うよう視線を外すと、窓越しに光るネオンが瞼の裏を刺した。
 赤子の騒動でぎこちない空気は有耶無耶になったけれど、いざその子どもが寝静まると距離感を計りかねてしまう。彼が琥珀色のグラスを揺らすのを、視界の端でぼんやりと捉えた。
「悪かったな、無理言って」
 揶揄混じりだった会話とは全く異なる声音で、彼は唐突にそう言った。敢えて慇懃に振り返ると、穏やかな目をして笑う。わかっているぞ、と、宥めすかすような琥珀色と目が合ってしまう。変なところで勘の良いおじさんが、僕が他人を家に入れることをどう思うか、わからない筈がなかったのだ。
「助かった、サンキュ。」
「僕は、別に…」
「俺んちは酒瓶とか転がってるからさ、割れると危ねぇだろ」
 シートから背を離しこっちへこいと手招きするのに、操られるように歩み寄ると頭を撫でられた。彼が庇護対象として認識したものに対する無意識の行動、だ。頭ではわかる。ぐしゃぐしゃと無遠慮に掻きまわすのに、決して粗雑さを感じさせない手付きで、僕の髪を撫でる。長らくそんなことをされた覚えはなかったし、今の僕にそれをしようとする人間もいないだろう。けれど記憶に沈む四歳のまま時を止めた子どもが、嬉しい嬉しいと胸の内であどけなく跳ねていた。
 かっと頬が熱くなる。
「っ…!やめ、てください!」
 声にならない声を振り絞って払い除けると、全く気にも留めていない様子で笑われた。ははは、そりゃ悪かったなと何事もなかったようにグラスを空にする。
 確かに普段ならば何でもない遣り取りだ。もっと酷いことを、辛辣な言葉を、いくつも投げた。その度に困った顔をすることはあれど、いつだって彼は僕を見放さなかった。

 激昂するのは価値観の違い、主に”人の生死が絡んだ話題”のみだ。自分への言葉はどんなものであれのらりくらりとかわせるのに、この人は顔も知らぬ他人について驚くほど真摯だった。
 僕には彼がわからない。
「…んな顔すんなって」
 指摘を受けて初めて、自分が唇を噛み締めていたことに気づく。はっと取り澄まして顔を上げると、誤魔化すようにテーブルの上のボトルへ手を伸ばした。ワインキーパーを開け彼のグラスに注ぎ足す様子を、窺うように見られる。繊細な泡が底から立ち上っては弾け、水面で小気味良い音を立てた。
「一緒に飲もうぜ。な?」
 熱くなったままの頬が冷めず、おじさんがやさしい声で言う。助け船を出したつもりか単純に晩酌の相手が欲しかったのかはわからないが、注がれたグラスをかかげてサンキュー!と笑う彼はすっかりいつもの調子だった。

 いつもの調子だったように見えた、ので。

 油断していたのかも知れない。いつしか二人とも床に座り込んで、次々酒瓶を開けていた。食材と共に彼が買いこんできた缶ビールは気に入りの銘柄らしく、熱烈に勧められたが胸だか胃が膨れるばかりで碌に味などわからなかった。ホップの苦みか炭酸にか、痺れたような舌を休ませるべく薄く唇を開く。舌先を歯の間から覗かせると、外気はやけにひんやりとしていた。
 暫くそのままぼんやりとしていると、既に酒の回った筈の彼が饒舌な口を閉じて此方を見ている。もう殆んど朦朧として思考が回らなかったけれど、取り敢えずだらしなく緩んだ口許を改めた。おじさんは持っていた缶を置き、何事か考え込むように項垂れて頭をかく。
常々いらないことをよく喋る彼が口を噤むと、大抵はよくないことが起きる。
「…バニー」
 躊躇うように開いた唇から吐かれたのは忌々しくも耳に馴染んだ不本意な愛称なのに、普段のそれとは明らかにトーンが異なっていた。孕む熱、その奥に潜むものを知らない訳じゃない。ただ、自分と彼との関係にはとても似つかわしくないものだ。掠れたような声音にぞくりと背が震え、知らず眉根を寄せる。身体は冷えるどころか熱くなる一方だった。
 困惑しきっていたところに手が伸ばされて、恐る恐るそちらを見遣る。振り払う暇を、もっと言えば幾許かの考える時間さえ与える程に緩慢な動きなのに、なぜかそれを避けられなかった。食い入るように蜜飴のような目を見詰めて、動けずにいた。
 ゆっくりと頬を這う手は温かく、じんわりと染みて涙腺が緩む。どうして動けないんだ、どうして、触れられるだけでこんなにも胸が一杯になるんだろう。やわらかな間接照明に照らされた顔は尚も微笑み、かさついた親指が開かれた目の縁をなぞる。呼吸を忘れるような長い一瞬の後、視界に影を落として近付いてきた唇が震える睫毛に触れた。
 柔らかく目蓋を啄ばむくすぐったい感触に目を閉じると、ぽろりと涙が零れる。
 さざめく感情にどんな名前を付ければいいのか見当もつかないまま、縋るように力なく頬の手に触れた。今度は温かな手に指を組むようにしっかりと握り締められる。
 揺れる視界ではもう彼の表情を確認することはできなかったけれど、鍛えられた腕に抱き寄せられても抗えずにいた。他人の体温と鼓動がこんなにも心地良いだなんて、知りたくなかったのに。
 清潔な包帯に涙を染み込ませながら、頭頂部に触れるやさしい感触に身を震わせる。耳の裏や額に降ってくる唇を受け入れ、組んだ手の間で存在を主張する硬質な物質のために祈った。
 僕はこの人の過去を知らない。

 絡めた指が間違いでなければなんなのか。こんな安寧が許される筈もない、そういう生き方を選んできたつもりだった。ただ願って果たされないのなら、相応の対価を。個人的な生活は擲っての「顔出しヒーロー」だ。世間からの目も命を危険に晒す可能性も、すべて覚悟の上での。
 手に入らないものを願うような子供じみた欲求とは無縁の筈だった。
「…どうして……」
 呻く様に漏らした言葉は唇に飲まれて、もう意味を成さない。このまま流されていまいたいと思う程度には、檻のような腕の中は居心地がよかった。
 目を閉じた瞬間に気付いてしまう。知らないと認識することは、知りたいと願うことへの一歩であることを。

 髪を撫でる手はやさしくて、分類できない感情をありふれたわかりやすいものに錯覚する。
 遠い朝に傷付いた顔をせずいられるよう、目を閉じて幼い僕の手を取った。

 大丈夫だ、まだ戦える。一人でも。










(110529)


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