23話捏造
 
 
 
 不快な頭痛から急に解放されたように、視野の制限が急に取り払われたように、ぽんと無意識から意識下へと放り出されて僕はまばたきをする。目の前には見慣れた相棒、どこか呆けてはいるが見紛う筈もない。僕が隣に立つべき、たった一人の。
 周囲は茜色に包まれ、もうじき日没を迎えようとしていた。鳥が群れをなして対岸のビルの上を横切って行く。いとしい光景だ。時間帯ごとに刻々と変わるこの街の美しさも、人と過ごす夜の穏やかさも、彼が教えた。
 
 名を呼んだ瞬間ふいに抱きすくめられて、全身が歓喜に総毛立つ。それから、くたりと力が抜ける。随分と久し振りにその名を口にした気がする。意識しなくともきっとなめらかに滑り出てしまう程度には、舌に馴染んでいた筈の名だ。この頃白髪を気にしていた黒い髪を夕日に溶かしながら、泣きたくなるようなやさしい目が僕をみている。いとおしいと視線で伝える、胸が詰まりそうな彼の表情に名を呼ばずにはいられなかった。

「…こてつさん?」
 怪訝そうな僕の声音にも構わず、虎徹さんは蜂蜜色の目に涙を滲ませて大袈裟に喜んでみせた。靄が晴れるように意識にかかっていた数枚のフィルターが剥がれて、あまり認めたくない結論を眼前に突き付ける。踏ん張った軸足の倦怠感、蹴りを繰り出す衝撃にびりびりと痺れる下腿。身体を支配する馴染んだ感覚が何よりの答えだ。
 忘れる筈がないと思っていた名を忘れていたことに、底知れない恐怖を感じた。信頼していた後見人すらも両親の仇だったのだ。思い出せばきりがない。目の前で涙を流す相棒が思考を遮って、武骨なスーツの手が頭を抱きこんでくる。この温もりが傍になければどうにかなっていただろう。
 
 
 
 思えば彼の前ではよく泣いた。泣いたし、怒ったし、よく笑ったと思う。虎徹さんに出会うまでの人生では感情を表出することなど何の利益も齎さなかったし、心の揺れはただ面倒なだけの、言わばエラーだった。憎悪と焦燥以外のそれを極力封じ込めて生きてきたのは、そうするのが好都合だったからとも、そうせざるを得なかったからとも言える。
 彼に会って、押し付けがましいほどのやさしさや温もりに触れて、頼りなくふわふわと振れる自らの感情に初めは困惑してばかりだった。苛立ちや嬉しさや、いろいろなものが綯い交ぜになった感情の高ぶりは、酷く安易に僕の心を乱した。こんなに自らを律せないのは初めてのことだった。
 敵を倒したあと、市民を助けたあと、面倒な取材を終えたあと、事あるごとにその手は僕の髪を撫でた。身を焼くような憎悪以外にも、喜びが心を揺らすこともあるのだと、温かな手が教えた。
 彼との抱擁は心を揺らす。嬉しさに頬が緩む。照れ隠しに喚かなければとても立っていられないほどに。

 
 
「ちょっと、いい加減に…」
「バニー、」
 いっこうに解放されない両手をぱたぱたと動かしながら、泣き笑いでくしゃくしゃになった彼が顔を寄せてくるのに身を委ねた。目元のいとおしい皺も涙に濡れて光っている。フェイスは上げているものの片方がメットを装着したままでは一方的に唇を重ねるのは難しい。彼が傾けたのと反対に頭を倒し、その熱を確かめたいという欲求のままに唇を求める。
 触れるまでの一瞬、細められた黄金色に物欲しげな自分の顔が映って、より渇望が強くなった。こんなにも彼を欲している自らを客観的に認識して胸が早鐘を打つ。スーツ越しではその体温に触れられない。はやく彼に触れたい、触れて欲しい。
 食むように唇を合わせて、目頭が熱くなる。懐かしい感触が触れ合っては離れて、互いの前髪がくしゃくしゃに混ざる。舌を交えることのない啄むようなキスに親愛の情を感じて、背に回した腕に力を込めた。僕の後頭部を支えていた手が大きく円を描くように髪をかき混ぜて、一瞬息継ぎに離れた呼気の温かさにまた涙が滲む。不意打ちで目元を啄まれ、打たれた頬を唇が滑り、謝罪するように唇に戻ってくる。堪らずその唇を舐めた。
 乾いたそこを慰めるように濡らしてやると、負けじと角度を変えて彼が口付けてくる。肉厚の舌の侵入を許すかわりに自らのそれを擦り合わせて、鉄錆の味に気付いた。口端を舐めれば僅かに顔を歪める。その奥、頬の内側にも傷があるのだろう。また唇を離して、今度は僕の方からうっすらと腫れたそこを啄む。これでおあいこだ。
 
 
 
 無我夢中で求めたあとはなんだか気恥ずかしく、一歩後ずさって足元の小石を眺めた。舌に残る鉄錆の味が罪悪感と奇妙な満足感を連れてくる。
「へへ、ほんと…よかったー!バニーが思い出してくれて!」
「うう…」
「もーホントどうしようかと思ったぜ。」
 うりうりと脇腹をつついてくる手をいなしながら、改めて虎徹さんが自分の前で泣いた事実を確認する。自らの胸の内を滅多に明かしてくれなかった人が、涙を流すほどに心を揺らしてくれたのだと。僕に忘れられたことが彼の心に傷をつけた、そのことが不謹慎ながら酷く嬉しい。
 
 まだ薄ぼんやりとした記憶の中、必死に思い出してくれと言い募る彼の姿を反芻する。こんなにも切実に求められたことは嘗てない。彼はいつも、僕にそうするのと同じように、自分にも逃げ道を用意していた。それが今はどこにも見当たらなかった。

「虎徹さん」
「うん?」
「すみませんでした」
「いーって、もう。お前が思い出してくれたなら、それで」
 
 心の深い所へ染み入るようなやさしい声音に、離れた筈の体がぽかぽかと温まるのを感じる。懐かしさがいとしさと安堵を連れてくる。
 目と目を合わせて微笑むと、同じ温度の笑みが返ってきて頬が緩んだ。こんな幸せを、彼以外から受け取ることはきっとできない。
 
「もう、忘れないと思います」
「おー、そりゃ助かるぜ。もし次があったらおじさん悲しくってつれえよー」
 大袈裟においおいと泣き真似を始めては振り向きざま悪戯に笑う、これも場の空気を紛らわすための彼なりの気遣いだと知っている。
 最初はまったく理解できなくて、苛立ってばかりいた。けれどその裏には、いつだって誰かを思い遣る温かな心があったのだ。それに触れて、絆されてしまった。たったの五秒だ。二度と彼を忘れるなんてことはないだろう。
「…もう一度、」
「ん?」
僕が意識を取り戻してから、可愛げのない応酬にも楽しげに笑みを浮かべて見せる彼に、
「もう一度、恋をしたので。」



 マーベリックの元へ向かう前、手酷く裏切られ傷付いた心を抱えて孤独を感じていたのが嘘のように、力強い相棒の存在を感じる。隣にいるのが当たり前になっていた、愛すべきただ一人の。彼を失くしたなら今度こそ僕は僕でいられなくなる。
 口付け合った瞬間の熱気を霧散させたくせ、僕を見遣るまなざしは未だ温かなままだ。彼がこの先家族の元へ帰ってしまうとしても、一度は違う道を選ぼうとした彼がこんなにも心を乱すほどに僕の存在を内へ置いてくれるのなら、それでも構わないと今は思う。

 だって、離れても会いに行くことくらいは許してくれるだろう。
 確信をもってそう言えるのは、間違いなく夕陽のあたたかさを溶かしたようなあの黄金色のせいだ。
 
 
 
 ねえ、虎徹さん。気付いてますか。
 僕をみるあなたの目は、こんなにも。

 
 
 
(110904)



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