16話後捏造
 
 


 分厚い雲が空を覆い隠して、秋の冷たい雨を撒く。路地裏に打ち捨てられた虎徹は頬に冷たい感触を受けて、すんと鼻を鳴らした。降り注ぐそれは無数の悪意のようだ。ゴミ袋が受け止めた体はいつか相棒にキャッチされた時とは異なり、深いダメージを受けていた。犯人と押し問答した際に痛めつけられた上、数メートルの高さから受け身も取れず落下しては無事では済まない。浴びせられた電撃に体中の筋肉が軋み、組織が悲鳴を上げているのがわかる。蹴り飛ばされた顔面はじくじくと痛むし、いくつもの木片がジャケットの背に突き刺さって最早動くのもままならない。文字通り、身も心もボロボロだった。
 立ち込める雨の匂いがゴミの悪臭を強くし、虎徹は胸悪さに顔を顰める。もうどれだけこうしていただろう。全身を濡らす水滴が体温と体力を奪い、思考能力すらも覚束無くさせていった。
 意識を手放す前、宵闇に眩く光る相棒の姿を見た。ゴミ溜めから見上げた街頭テレビの中で、バーナビーは称賛を浴びていた。隣に虎徹がいなくても犯人は逮捕され、街の平和は守られ、危なげだった青年は背筋を伸ばしてしゃんと立っている。
 消えかけた能力に縋り付いてまで守りたいものとはなんだったのか。本当は全て、虎徹自身のエゴだったのかもしれない。
 なんのためにヒーローをやっているの、と問うた少女の声を思い出す。一切の躊躇なく答えることのできた、あの日の自分はどこへ行ったのだろう。他人の評価が欲しいわけではない。少女に告げた言葉に嘘はなかった。
 
 敢えて言うなら、それは。
 
「ああ、俺のファンは、もうお前だけになっちまったなあ…」
 
 目を閉じて重い腕を伸ばす。虚空を切る。
 その指が、触れる筈のない温もりを捉えた気がして、虎徹は口許を弛めた。
 もう会えない人の夢をみせるのはやさしさか憐みか。傷付いた心にとどめをさすのは、いつだって穏やかな顔をした愛する人だった。
 つらいときはいつも彼女がここにいないことが虎徹を打ちのめしたし、何もかもを投げ出したいときは彼女と過ごした日々が虎徹を支えてくれた。彼女は虎徹の全てだった。
 陽だまりの匂いがするやわらかなタオルと彼女の笑顔が待っていてくれるなら、この身を引きずってでも家に帰っただろう。沸かしておいてくれた湯で体を清めたあとは、うんと甘やかしてもらうつもりだ。空っぽの器からは何も注げないように、誰かにやさしくするためにはその原動力が必要だった。虎徹はやさしさを最愛の人と与え合って生きてきた。満ち足りた幸福な時間を、永遠に手にしたのだと思っていたのに。
 
 
 
 紫色に腫れた頬へ触れる指を感じて、虎徹は閉じていた瞼を上げる。本当は指先ひとつ動かすのすら億劫なのに、無視を決め込んだりしなかったのは仄かな期待を抱いていたからかもしれない。ぼやけた視界が像を結ぶにつれて、ゆっくりと意識が現実に戻される。当たり前に奇跡は起こらなくて、あるのは純粋な善意だけだ。虎徹を見つめる瞳はあなたを心配していますと如実に語っている。泣きそうな顔や躊躇いがちに触れた指先からも、流れ込んでくるようだ。
 彼女はこんな鈍色の世界にひとりだけ色を許されたような目の覚めるハニーブロンドを持ってはいないし、長い睫毛に縁どられた翡翠の瞳も持っていない。
 何かを諦めたような顔を、見られてはいなかっただろうか。虎徹の感傷は目の前の彼を傷付けるだけだ。わかっていた。
「探しましたよ」
 絞り出された声は耳障りよく響いたが、決定的に虎徹の夢想を打ち砕いた。そのことに寧ろ安堵して再び目を閉じる。
 ああ、この期に及んで俺は彼女を待ってたのか。笑ってしまうような事実を今更に痛感して、虎徹は唇の端を歪める。しかしそれは頬が引き攣れただけでうまくいかなかった。笑ったつもりの顔が辛そうに見えたのか、バーナビーは気遣うように虎徹の背を撫でる。盗み見た顔は眉根が寄せられ、いかにも痛々しげだ。お前がそんな顔をすることはない、そう言ってやりたいのに、喉が詰まってうまく声にならない。掠れた声で吐き出せたのは、悪いなという短い言葉だった。
 
 
 
 
 
 虎徹の体は熱発していた。とうとう現れなかった昨夜の出動後、胸騒ぎに急き立てられるまま彼を探し出したらこの有り様だ。呑気に取材を受けている場合ではなかった。バーナビーは常よりも色を失った唇を噛みしめる。
 アニエスに確認させたGPS情報から彼が数時間一箇所にとどまっていることを知り、位置情報を地図と照らし合わせた時点でぞっとした。彼がいたのは店やモーテルなどではない、ただの路地裏だった。血の気が引いた顔でメディックに連絡を取り、近くで待機させた。自らも車を飛ばす。祈るような気持ちは、彼に届いただろうか。
 
 雨の街で見付けた彼に、壊れ物を扱うかのような動きで触れる。頬で呼吸を確認し、脈をとり、その体温の高さに顔を歪める。痛々しく鬱血した頬に触れると、うっすらと虎徹が睫毛を震わせる。
 ぼんやりと開かれた瞳に、失望と諦念が広がってゆくのを目の当たりにして、バーナビーは声を失った。自分ではだめだった。こんな手酷く打ちのめされた彼に触れるのは、自分ではだめだったのだ。
 虎徹が求めているものを、バーナビーはわかっているつもりだ。それを与えてはやれなくとも、温かな湯と清潔なベッドくらいは提供できる。
 触れた指先を引っ込めてやらなかったのは、せめてもの仕返しだ。バーナビーとて虎徹を心配している。彼に心を砕き、その身が傷を負えば同じように痛みを受ける。そんなものはバーナビーのエゴにすぎなかったが、いま打ち果てられている彼に手を伸ばすことができるのは、きっと自分だけだとしおれそうになる心を奮い立たせた。
 
 簡易メディカルチェックを受けた彼の体には、致命傷はないようだった。打撲はあるが骨に異常はなし。点滴を一本だけ打って解放される。
 彼の家に帰してやるべきか迷って、バーナビーは自宅に彼を連れ帰った。単純に現在地から近いというのもあるが、今の虎徹を家族の思い出の中へ返すのは躊われたからだ。今日ばかりは、彼が囚われたままの美しい思い出たちと共に眠ることを妨げなければならない。たとえ虎徹自身がそれを望んだとしても。
 この上目覚めた彼が現実に一人うちひしがれるだなんて、バーナビーには耐えられなかった。
 
 ハンドレットパワー無しで大の男を一人連れ帰るのには苦労した。背負った体は発見したときよりかは熱も引き、穏やかな顔をしている。昏々と眠る彼をベッドに下ろし、一先ず生乾きの服を脱がせた。点滴を受けている間に体を包んだ毛布が粗方水分を吸ってはくれたが、不衛生であることに変わりはない。四肢を投げ出したままの彼を再び毛布で包んで、普段はあまり使うことのないバスタブへと湯を張る。投げ込んだ入浴剤がもくもくと泡を立てるのを眺めながら、目を覚ました虎徹に掛けるべき言葉を探していた。
 ここのところ思い詰めている節のあった彼に、どう接したものか。虎徹はバーナビーの抱えているものに土足で踏み込んでくるような真似はしなかった。かといって突き放すかといえばそうではなく、常に手を伸ばせば触れられる距離を保って傍にいてくれた。バーナビーが助けを必要としたときに、いつでも応えられるように。
 今のバーナビーにそれだけのキャパシティや柔軟性はなく、虎徹のようにうまくやれる自信もなかったけれど、何もできないとは思いたくなかった。

 バディを組んでから一年弱、虎徹の隣でいろんな世界をみた。やさしさとはどういうものか、おぼろげながら知ったような気がした。その行動が誰かを救わなくとも、想いは届くかも知れない。かつて非難した彼のお節介が、バーナビーの心を溶かした今だから言えることだ。
 風呂の準備をすっかり整えて、寝室の様子を見に窺う。枕元に立つと琥珀の目がバーナビーを捉えた。第一声に困っていたバーナビーはそうと悟られないように胸を撫で下ろして、笑ってみせる彼の隣に腰を下ろす。昨夜の詳細を聞き出したいところだったが、一先ずは風呂と食事が優先だ。
「悪かったな、バニー」
「いえ。風呂の準備ができましたが、どうしますか」
「んん〜…」
 痛そうだなぁ、と節々の傷に触れながら苦笑を浮かべる虎徹につられて、笑みを形作る。湯に浸かった方が打撲の回復は早い筈だ。彼も経験上知っているから、提案を退けたりはしないのだろう。
「ほら、いきますよ。虎徹さん」
 慎重に体を起こす彼に肩を貸しながら、やべー全裸だったわ、などとのたまう男を浴室まで運ぶ。ズボンの裾を捲って浴室に入ると、顔を顰める虎徹に少しずつ湯を掛け、温度に慣らし、傷口を洗い流した。
 当然のように介助するバーナビーに、はたと気付いて虎徹は肩を竦める。
「あー…バニーちゃん?俺一人で入れるぜ?」
「何言ってるんですか、まともに腕も動かせない癖に。頭を洗ってる間に湯が冷めちゃいますよ」
 バーナビーはシャワーヘッドを一旦壁にかけて、居心地悪そうな虎徹へ口調とは裏腹のやわらかな笑みを向けた。虎徹は促されるまま不自由な体を慎重に浴槽へ沈める。傷口への痛みが落ち着くと、ゆっくりと息を吐き出した。当たり前だが、疲れていたのだな、とここにきて漸く実感した。

 目を閉じる。温かな湯気と石鹸の香りが胸を満たす。たゆたう湯が四肢をじわりと温める。長い長い過去と、これからのことを考える。

 虎徹が黙って目を閉じている間、バーナビーは熱い湯でタオルを絞り、浴槽の縁へそれを置いた。虎徹の頭をゆっくりとそこへ導き、ちょうど首の下にタオルが当たるようにする。
 顔に湯がかからぬよう額へかざした手も、髪を梳く指も、美容室の受け売りでしかない。殆ど見よう見まねだ。誰かの頭を洗った経験などないバーナビーの手つきは不慣れだったが、真摯だった。
 亡き妻の細い指を思い出す。虎徹の髪を撫で、涙を拭い、手を握った彼女は、尊い宝を残して逝った。それを守ることだけが虎徹の生き甲斐だった。

 無心にシャンプーを泡立てていたバーナビーは、虎徹の目尻から伝う水滴に気付く。表情は穏やかだった。湯が跳ねたのだと言われれば、そうなのかも知れない、と納得するくらいには。けれどバーナビーはそれを指摘したりしないし、拭うべき指を持っているのが自分ではないこともわきまえている。何より今自分の手は泡だらけだ。
 ヒーローになれたとしても、他の誰かにはなれない。こと人の存在において、代用がきくものはないのだ。バーナビーの中で亡くした両親に代わるパーツは存在しないし、埋めたいとも思わない。そう思えたのも、虎徹がいたからだった。
 傷はいつか塞がるし、涙も涸れる。忘れたくないと願っていても、痛みは薄れてしまう。残るのは温かな記憶だ。どうしようもないことはたくさんあるけれど、全く笑えなくなるわけではなかった。

 はやく、はやく、彼の痛みが癒えるように。きっと今の虎徹も、バーナビーと同じように泣ける場所が見つからないのだ。そこに触れないかわりに、やさしくすることを許して欲しい。
 指と彼にまとわりつく泡を洗い流して、濡れた頭を抱きしめる。
 自分よりずっと長くこの世界を歩いてきた人を、すべての悲しいことから遠ざけてしまいたくて腕の中へ閉じ込める。
「無理はいけませんよ。」
 バーナビーの言葉を受けて、虎徹はやっと表情を崩した。
 そうだな、と返ってきた声は、微かに震えていた。



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