14話/病みばに
 
 

 背中にびっしょりと汗をかいて飛び起きた。胸を強く圧迫されたような息苦しさも慣れたものだ。二十年間見続けた悪夢から解放されたのは束の間で、隣にあの人がいなければそれは結局変わらない。多少内容が異なるだけで、どちらにしろ見る夢は俺から生きるすべを奪うような絶望でしかなかった。
 浅い呼吸を整え、自分の掌を握っては開き確認する。振り出しに戻ってやしないか。ヒーローとしてデビューする前、あの人に出会う前、俺が希望というものを抱く前に。知っているなら簡単だ、思い出すことはそう難しくない。憎悪を燃やして生きてきたのだから、ここにないものを想い続けるのには慣れている。
 虎徹さん。たったひとつの、そして、俺が無くしたすべて。
 
 生温いベッドを抜け出して浴室へ向かう。汗を吸った不快なインナーを洗濯機に放り、熱いシャワーで悪夢の残渣を流した。湯気が浴室を白く塗りつぶして、ざわついた胸が少しずつ鎮まるのを待つ。蒸気が狭窄した気道を温め、いくらか呼吸がしやすくなった。肌を滑る湯が心地いい。髪を梳くあの人の手はこれと同じか、それよりももっと心地よかった。これを幸福と呼ぶのだろうと、無意識に感じるくらいには。
 シンクに置き去りにされたカップを軽く洗い、コーヒーを淹れる。昨夜ホットミルクを飲んだ後にすぐ洗わなかったのは、あの人のものぐさが移ってしまったのかも知れない。それでも俺は使った食器をテーブルに置き去りにするなんてことはしないし、床に埃を溜めこむこともない。自分は彼とは違う。違う、人間だ。
 あの人の存在に慣れるたび、あの人という個体を理解するたび、それが当たり前になってしまって受け流している部分の多さに辟易する。彼がどういう人間だったか、よく認識しておかなければならない。俺の理想で塗り固められて、彼という人間を見失ってしまう前に。 
 
 彼が言うならすべてイエスだ。少なくとも今の俺にとっては。
 それが間違いであったことに、なぜ気付かなかったのだろう。
 
 
 
 いつものようにランニングマシーンの上を走りながら、隣で寝そべる相棒を見遣る。手足を投げ出して宙を見る様はわりとよく見る光景だが、ここ数日はその顔に覇気がない。かと思えば急に思い立って腹筋を始めたりするし、一言でいえば挙動不審だった。
 電子音があらかじめセットしておいたプログラムを終了したことを告げると、タオルで汗をぬぐいながらマシンを降りる。
「どうしたんです、めずらしい」
「うおっ?いや、おじさんも鍛えておかねぇとな〜と思ってな…」
 浮き気味だった彼の両足を押さえるようにベンチへ乗り上げ、腹筋に勤しむ相手をサポートする。しかし見下ろした視線はかち合わず、彼は俺の斜め後ろあたりに視線を彷徨わせてから居心地悪そうに瞼を閉じた。そのまま数分間腹筋を続け、100をカウントしたところで再びくたりと仰臥する。力を入れていた手を離すと、足首の筋が力強く躍動する感触がまだ掌に残っているのを感じた。
「はー疲れた。サンキュな」
「いえ…上がるなら一緒に食事でもどうですか」
「ん、あ〜〜…」
 弛緩して息を整えているところに足元から退かないまま声をかけると、煮え切らない返事が返ってきた。ここのところいつもそうだ。こちらから誘ってもかわされるばかりで、たまに社食やランチに行く程度。完全に避けられているわけではないため嫌われているとも考えにくく、対処法が見つからない。
「悪い、やっぱパス。また今度な」
 今度はきっぱりとそう言い切られ、得体の知れない不安に苛まれながらゆっくりと体を退ける。どんな顔をしているのか自覚はなかったが、ごめんなと言いながら髪を掻き回す虎徹さんが眉を下げていたので、そこそこ酷い顔をしていたのだろう。
「だいじょうぶです、また今度」
 彼に受けたのと同じ言葉を機械的に返して、どこかほっとしたような顔を盗み見る。そうして、これで間違っていなかったのだと安堵する。彼を困らせることなどあってはならない。
 じゃあ次はどうしたらいい?
 
 
 
 悶々とした思いで帰社し、一人残ったデスクワークを片付ける。明日に回しても差し障りのない内容ではあったが、帰宅したところですることもない。それにもし、もし明日彼の気が晴れて食事に行けることになったら。自分の手が空いていなければ溜まっているであろう彼の仕事を半分引き受けることができないし、そうしたら予定が流れてしまうかもしれない。そこまで考えて、浅ましい自らの思考回路に嘆息する。褒めてもらいたいのではない、ただ一緒にいたいのだ。何かを期待していることに変わりはないし、ここ数日の様子ではそれが果たされる望みは限りなく薄い。それでも待ち望んでしまう自分が恨めしく、備品の薄いコーヒーを啜りながらそっと唇を噛む。
 
 目の前のことに没頭している間は彼のことを忘れられた。今までもそうだった。身を焼くような憎悪も無念も、やるべきことに集中することでやり過ごしてきたのだ。徹夜でウロボロスの情報を集めたこともあったし、ジェイクを倒した後もそれは変わらなかった。黙秘を続けるクリームの元へ足を運んだことは一度や二度ではない。少しでも手掛かりになるものが残されていないか調べ尽くし、夜通しモニターに向かい…──そんな時、少しは休憩しろよと俺を現実に引き戻してくれるのは、いつだってあの優しい手だった。張り詰めた気をほぐして、他にも大切なものがあるだろうと教えてくれる。食事や、睡眠や、生きるために必要なことを、彼は時々叱り付けながら思い出させてくれた。
 俺は何も返せていない。それどころか、急に塞ぎ込んでしまった彼への距離の詰め方すらわからないでいる。
 彼が何に心を閉ざし、何に傷付いていてどうしたらそれを癒せるのか。
 優しくする術を教えてくれたのはあの人だったから、他にどういう方法があるのかわからない。ただ馬鹿みたいに食事に誘って、断られてもひたすら傍にいた。それしかできなかった。

 キーを叩く音とファンの回る音しかしなかったオフィスに、突如扉の開く音が聞こえてドアへ目を遣る。現れたのは直属の上司だった。どこか落ち着かない様子で室内を見まわし、軽く息をついている。
「ロイズさん」
「お疲れ様。タイガーくんは一緒じゃないの?」
「ええ。今日はもう帰ったはずです」
「そう。ちょっと話があったんだけどね。…まあいいや、明日にするよ」
 自分たちの評価が上がってからは社の業績も上がり嬉々としていた彼が、今日は浮かない表情をしているのが気になった。踵を返そうとするのを引き留め、それとなく内容を伺う。ロイズさんは少しだけ首を傾け、考えるように目を伏せる。
「どういったご用件ですか?なんなら僕から明日の朝にでも伝えておきますが」
「いや…ちょっとね。本当に君には何も言っていないのか」
 ぽつりと落とされた呟きに鋭く胸を突かれた。嫌な予感が胸中を満たして、じりじりと冷汗がこみあげる。それ以上食い下がる間もなく見知ったスーツの背は扉の向こうへ消えてしまい、吐き気すらこみ上げるのを感じながら乱暴に携帯を取った。デスクの上に放り出されていたそれはひんやりと冷たく、俺を突き放すかのように掌に馴染もうとしない。
 発信履歴の一番上にかけた携帯は呼び出し音が鳴りやまず、痺れを切らして腕の通信端末を立ち上げた。顔を見るのは多少躊躇われたが、最早そんなことを言っていられる場合ではなかった。
「虎徹さん、僕です」
 やっとの思いで繋がった画面に、みっともなく声が震えた。もしかしたら半分泣いていたのかも知れない。目にした姿は焦がれた相手のそれで、恋しさと不安が綯い交ぜになって軽く恐慌をきたしていた。
「こんな時間にどうした、バニー」
「あなた、ロイズさんに…!」
「んー?なんか、聞いたか?」
 彼はのんびりとした口調を装いつつ、それでいてはっきりと核心を遠ざける。濁した物言いが歯痒くてたまらない。
「聞いてません、なにも。ロイズさんからも…あなたからも」
 縋るように女々しい言葉を吐いて、そんな権限があるわけでもないのになぜ自分に打ち明けてくれなかったのかと相手を詰る。自分がそれに見合う、信頼を寄せてもらえるだけの言動をとれていたかを棚に上げて。
「あー…」
「聞かせて下さい。あなた、ここ数日上の空だったじゃないですか。どうしたんですか」
 困ったような声に尚も食い下がると、漸く彼が重い口を開く。触れてほしくないのだということは重々わかってはいたが、もう見ないふりはできなかった。
「ごめんな。俺…引退するかもしれねー。最近能力が不安定でさ。まだ話し合い中だから、正直どうなるかわかんねーんだわ。」
 少しの逡巡の後、包み隠さず話してくれた彼の言葉は、求めていた真実にも関わらず正面から受け止めるのが困難なほどに重く心を押しつぶした。今彼は何と言った?嘘だろうやめてくれ。息を吸い込んだ喉がひゅっと嫌な音を立てて、地面が歪むような眩暈に立っていられず膝を付く。
 引退。もう一度反芻して、耳元でサッと血の気が引くのがわかった。
「どうして…」
「お前にははっきりしてから話そうと思ってたんだけど…」
「…っそんなこと…!」
 この期に及んでやさしげな声を出す彼に息が詰まる。喉の奥が締め付けられて、苦しくてしょうがない。もう何がなんだかわからなくて、めちゃくちゃに零れる涙にも構わず画面の向こうへ呼びかけた。
「虎徹さん、こてつさ…っこてつさん!」
 今までこれほど切実に彼の名を呼んだことがあっただろうか。
 触れたい。抱き締めてほしい。どこにも行かないと言い聞かせて髪を撫でてほしい。両親のように俺を置いていったりしないと、安心させてほしかった。
「会いたい…会いたいです…っ!」
「…ごめんな。今日はもう遅いし、また明日な」
 しかしそれすらも、ひどく困ったような、やさしい声音できっぱりと拒絶される。
 
 伸ばした手が払われる可能性なんて考えたこともなかった。こと虎徹さんに限って、そんなことがある筈がないと。とんだ思い上がりだ。彼は聖人君子ではない、悩みも傷付きもする一人の人間だったのに。
 予兆はそれまでにもあった筈で、都合の悪いことを認識しようとせず目を逸らし続けたのは俺の方だ。これは、そのなれの果て。
 
 申し訳なさそうに琥珀の目を一瞬伏せ、一方的に通信を切られる。求めて拒絶されることがこんなにつらいとは思わなかった。デスクの傍らに独り座り込んだまま、頬を伝う涙の止め方もわからずに途方に暮れる。今日はもう、涙を拭って髪を撫でてくれるやさしい指も、腕を引いて帰宅を促してくれる大きな手もやってこないのだ。もしかしたら永遠に。
 俺はひとりで立ち上がるしかなかった。
 
 
 
 喉がからからに乾いて、潤すための水がほしい。それは彼から与えられるものでなければ駄目で、他のものでは到底この渇きを癒すことはできない。彼の顔を見ながらとる食事以外に味なんてものはないし、彼のいないベッドはひんやりと冷えて悪夢をもたらす。彼のいない世界というものがうまく思い描けない程度には、俺の中身は虎徹さんで塗りつぶされていた。
 
 毎朝浸される喪失の予感に、俺がどれだけ怯えているかあなたは知らないでしょう。
 もしあなたが繋いだ手の離し方を教えようとしているなら、そんなものはいらないからこの手首ごと切り落として欲しい。
 痛みごとあなたがいた証を抱いて生きていけるのであれば、それで満足なのだから。




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