バニデレ
 
 
 随分と早く目が覚めた。外は夜明けの静謐さに満たされ、これから騒がしい一日が始まるとは思えないようなしんとした街並みが続いていた。隣に横たわる温もりは未だ規則正しい寝息を繰り返し、自分だけが時を止めた世界で動き出してしまったかのような錯覚を受ける。
 タンクトップの肩にいくつも浮かぶ古傷を夜明けの光が照らし、誘われるようにそこを指先で辿った。つるつるとした其処はもう彼に痛みをもたらしたりはしないのに、どうしてか悲しくなってバーナビーは眉根を寄せる。想い合い同じ褥で眠っても、自分たちの間には触れられない過去が多すぎるように感じた。
 
 朝陽が降り注ぐまではまだ遠い。気持ち良さそうに眠る虎徹を横目に妙にすっきりと目覚めてしまったバーナビーは、迷った挙句に居心地の良い温もりの傍を離れて洗面所に向かう。
 鏡に映った自分は随分と小ざっぱりした顔をしていた。憑き物が落ちた、とでも言うのか。あの惨劇、自らのルーツを捨てるわけではない。今までもこれからも、自分の為すべきことはひとつだ。しかし、今はもっと肩の力を抜いて楽に立っていられる。楽しいことも嬉しいことも、寂しさ以上にたくさん知った。それが誰の所為であるのか、わからない筈はない。
 
 トゥースペーストの清涼なミント味が鼻に抜け、ますます爽やかに目覚めてしまったバーナビーは濯いだ口許をタオルで拭いながら時計に目を遣る。午前四時、起床には大分早いが起きれないこともあるまい。昨夜は日付が変わるよりも大分早くベッドへ入った。酩酊した虎徹は子どものように寝付きがよく、じゃれ付く隙もないまま寝息を立てていた。今朝は少しくらいの我儘も許されるだろう。
 
 寝室に戻り、先程抜け出したままの形でそこにあるシーツに腰を下ろした。人の形に膨らんだ布団が呼吸に沿って上下する。穏やかな寝顔の横に手を付き、スプリングを沈ませながらその頬にキスを落とした。
「おじさん、起きて」
 静寂を崩すことへの遠慮はあれど、囁きというには大きなボリュームで声を掛ける。睡眠から急に覚醒を強いられ、眉間に深い皺を刻みながら虎徹は腕を目の上に乗せる。
「ん…なんじ…」
「四時です」
「そうか…あと五ふ…あ?」
「四時です」
「老人か。おまえ老人か」
 急にはっきりとした声で切り返す様子に面白い人だな、と半ば感心するも、虎徹は腕をずらし憮然としてバーナビーを睨んできた。睡眠時間を理不尽に取り上げられたことへの抗議なのだろう。多少の申し訳なさはあったが、昨夜から一人で放置された恨みは深い。寄せられたままの眉間にもう一つキスを落とす。
「なんでそんな早起きなんだ?釣りにでもいくのか?」
 駄目押しのように押し付けられる柔らかな感触に毒気を抜かれ、虎徹は渋々といった様子で抗議の目線を外すと大きな欠伸を漏らした。伸びた髭も相俟ってその様は冴えない中年そのものだったが、情けない姿すらもどこか愛おしくてふっと笑みが浮かぶ。
「いきませんよ、おじさんじゃあるまいし。…でも海は見たいです」
 バーナビーの言葉に一人でいってこい、と返すつもりでいたが、何の気なしに覗いた翠の目があまりにも澄んでいたので、何も言えず口を噤んだ。
 出会った頃からは想像もつかないくらい、穏やかな顔をすることが多くなった。仕事用の笑顔とは違うあどけない彼の魅力を知るのは、今のところ自分だけだと虎徹は自負している。
「どうせ運転するのは僕なんだ。隣で寝ててもいいですから顔洗ってきて下さい」
 チャンスとばかりに虎徹の体を布団の上から叩き、身支度を促す。夜明けの海はさぞかし綺麗だろう。昇る朝日を眺めてから出勤すれば、仕事も捗るに違いない。どこかうきうきとしたバーナビーの声音に負け、虎徹は体を伸ばしてから起き上がる。
 もう何年も前、こうして休日の朝に眩しいほどの笑顔で起こされたことを思い出した。眠い目を擦り妻子と出掛けた幸せな日々を、誰かの隣で懐かしむ日が来るとは思っていなかった。
 
 無意識に指輪を撫でる。それから、柔らかな髪を抱き寄せてキスをする。
 
 バーナビーは一瞬顔を歪めたけれど、それを打ち消すように首筋へ額を擦り付けた。唇を重ねる刹那、垣間見た虎徹の表情は慈愛に満ちて優しかった。
 
 
 
 
 
 
 
 初夏と言えども朝方の空気はひんやりとして心地よく、世界は水色に満たされていた。サイドカーで風を受ける虎徹はまだ眠そうではあったけれど、もう一度眠る気はないらしい。よく整備された住宅街を抜けいくつかの橋を渡り、遠くに海を臨む頃にはそれなりに心地よさそうな顔をしていた。
 風を切り道路を走ると、肌や髪や眼球からも外気を取り込み、生まれ変わったような気にさせられる。ネオン輝く夜のシュテルンビルトを走ったことは多々あれど、人々が起きだす前の街をこっそりと二人で駆けるのも悪くないと思った。
「バニー、おじさん腹が減ったわ」
「もうすぐ海ですから、魚でも貝でもお好きなものをどうぞ。取り放題ですよ」
「なんで街にいながらサバイバルしなきゃなんねーの…しかも朝っぱらから」
「言うのが遅いんですよ。コンビニエンスストアならもうさっきのが最後です」
 海に近付くにつれ便利な店よりかは個人商店やレストランが多くなってくる。喫茶店のモーニングもあと二時間は開かないだろう。流れる景色は美しかったが腹を満たしてはくれない。虎徹は切なげに鳴く腹を掌で撫で擦った。
「ロッカーの備蓄食料が遠いぜ…今度からバイクにもなんか積んどこう。な」
「絶対に御免です。シート汚したら斎藤さんに殺されますよ」
「だーいじょぶだって、メカニックがメンテしてくれてんだし」
「人の仕事を増やさないで下さい、恥ずかしい」
 へいへーい、と唇を尖らせながら両腕を頭の後ろで組む。海岸沿いに出た瞬間視界が開け、空も海も、空気さえもが水色の世界へ滑り込んだ。水平線を臨む絶景に思わず言葉をなくす。弾ける白波は穏やかで、寄せては返すその様もゆりかごのようにやさしい。
 
 適当なパーキングに車体を寄せ、体内を振動させるようなエンジンを切るとバーナビーは跨っていたシートからコンクリートへ足を下ろした。続いて虎徹もサイドカーから降りる。潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、肺の隅々まで清廉な空気が満ちる感覚を受けた。
「うおー、きもちーなー」
「少し歩くと海浜公園があるんです」
「ん、そっか」
 いきましょう、と言われなくてもそれが誘いの言葉であるとわかる程度には、虎徹はバーナビーとの時間を重ねていた。わかりやすい言葉がなくとも、何かをねだるときの顔は年相応かそれ以上に幼くてかわいい。愛しいと思うのが憐憫からか情愛からか、未だに測り兼ねる所はあるが、もう気にしないと決めていた。甘やかしたいと思うのだから、その根源などわからなくていい。彼がこれまでの人生で負った傷を癒せるくらい、やさしさや幸せを知ってほしいと願う。それをもたらすのが自分でも、そうじゃなくても。
 
 舗装された道を少し歩くと、人工的に整備された砂浜が見えてくる。石段を降りると浜と海が臨める、それ以外には何もない公園だった。粒子の細かいやわらかな砂が風の形に沿って石段を流れ、繰り返す波の音と共に消えていく。高い空はだんだんと明度を増して、昇り始めた太陽と一緒に一日を始める準備をしていた。刺すような光が目に痛くてバーナビーは眼鏡を外す。
 
 揺れる髪が金色に輝き、眩い光の中で眸だけが新緑の色をしている。まるで何か別の生き物のように神々しくて、虎徹は思わず手を伸ばした。くしゃりと髪を撫でるとその綺麗な生き物は目を細め、宝石のような翠を隠してしまう。指先に触れる感触は生きた人間のそれだ。彼は目の前にいる。いま、虎徹と同じ時間を生きている。
「なんですか」
「いや、別に」
 人間だ。いい歳をした大人の男だ。たったひとつ、情愛のしぐさを受けたくらいで心を満たされたような顔をする、どうしようもない男だ。それをいとおしいと思う自分もまた、どうしようもない。
 風に煽られたハンチングを守るふりをして、みっともなく緩んだ顔を隠す。バーナビーは訝しげに首を傾げる。金も地位も能力も十分にあるこの男が、愛に飢えたこどもに見えるなんて、たちの悪い病気だ。
「何か喋って下さい、ここは静かすぎる」
「そういうところに来たかったんだろ」
 雑音は何もない。街の喧騒は時に心地よいが、それが常になってしまうと煩わしくもある。風と波の音、海鳥の声だけが聞こえる、こんな世界があることを忘れていた。時折耳をくすぐる相手の声は心地良い。
「ええ、…そうでした」
 
 虎徹と過ごすようになってから、バーナビーは素の自分がどんな顔で笑い、どんな声で話すのかを知った。これまでの二十年で利害の絡まない関係というのは存在し得なかったし、プライベートでさえ元メイドや育ての親が相手では遠慮が混じる。自分を曝け出しても変わらず傍にいてくれる人がいることを知ったとき、脳天を殴られるような衝撃を受けた。それまでなんとも思わずにこなしてきたことが急に辛くなってしまって、これは不味いことをした、とも。
 
 風に膨らむシャツの裾を掴む。虎徹がバーナビーの目を見て、心得たようにその手を繋ぐ。気恥ずかしくて視線を逸らした。
 どうしてわかってしまうんだろう。わからないことはたくさんあるのに、わかってほしいとバーナビーが思うことを、虎徹はすんなり掬い上げてくれる。こちら側までは来れまいと引いた線を、いつだって軽々と飛び越えてしまう。大きな手も憎たらしい笑顔も、すべてがバーナビーの世界を変えた。
 変えてしまった。
 
「…なんのつもりですか」
「んー?」
「手…」
「なんだろうなァ」
 ここで繋ぎたかったんだろう、と言われたら、迷いなく離していた。それすら全てわかっていてはぐらかしたのかと勘繰ってしまう。他に誰もいない、素の自分でいられる空間だからこそ、こんなことを許している。
「こんな風に誰かと海を歩いたの、はじめてです」
「そっか」
 靴を白く汚しながら波打ち際を歩く。すっかり日は昇り、じきに人々も活動を始めるだろう。繋いだ手をそっと離してバーナビーは微笑んだ。
 虎徹は何も言わない。バーナビーに出会うずっと前、こうして誰かの手を取り歩いたことも、今それを思い出していたことも。バーナビーはただ、虎徹が自分の初めての経験を知っておいてくれればいいと思っていたけれど、当の本人はそうもいかないらしい。困ったような顔で頬を掻いている。
「そろそろ行きましょうか」
「もういいのか?」
「空腹のおじさんが仕事をしなかったら困るでしょう」
「食ったら今度は眠くなりそーだな」
「ワイルドタイガー負傷のため今日の出動は僕のみで、ってロイズさんに伝えておきます」
「待ってなんで俺負傷するの」
 ざりざりと靴裏に砂の感触を残し、元来た石段を一歩ずつ上る。潮風が名残惜しくもあったが、そろそろ市街地へ戻らねばならない。その頃には会社付近のハンバーガーショップが開く筈だ。コーヒーとジャンクフードを片付けてからでも始業には間に合うだろう。日を受けて暖まったシートに跨りながら、バーナビーは緩く笑む。
 
「いきますよ、おじさん」
「へいへい」
 来た時と同じようにどっかりとシートに腰を落ち着け、虎徹は思い出したようにバーナビーを振り仰いだ。
「今日はお前、よく笑うのな」
 改めて受けた指摘にきょとんと目を瞬かせ、今朝からの一連の流れを反芻してみる。自分がどんな顔をしていたか全く自覚はなく、彼が言うならばそうなのだろう、と妙に素直にそれを受け止めていた。誤魔化すように眼鏡をかけなおす。
「…一日分使い果たしましたね」
「限度があんのかよ!」
 噴き出して笑う虎徹につられ、クレジットカードか!と続いた突っ込みにも頬を弛めてしまう。くだらない。ばかばかしくて、最高にしあわせだ。
「いや、クレジットじゃ困るな。今のお前の楽しいことは、どっかに貯蓄してあった分じゃねぇ。だからいっぱい笑えよ」
 
 たまにこうして、親のような顔をする。まっすぐ前を向いた虎徹が軽口にも真剣に注釈を入れるのを横目で窺って、泣きたくなる。記憶になくてもどこか人を懐かしくさせる、海の魔法か。
 自分がこんなふうに無条件に愛されていると実感するとき、バーナビーは身の置き所のない感覚にどうしたらいいかわからなくなる。胸がいっぱいで、叫びだしたいような気分だった。
「いちいち恥ずかしいんですよ、あなたは」 
 眩い朝陽に阻まれて虎徹からは表情を窺えなかったが、震える語尾のせいでどんな顔をしているか大体わかった。やっと甘えることを覚えた相棒の願いをひとつ叶えた気でいたけれど、早朝のデートは虎徹にも幸福を齎したらしい。
 大切なひとが笑っているのはいいことだ。守るべき街は今日も美しく、相棒は上機嫌。眠気すらも吹き飛ぶような、よい一日が始められそうだった。
 
 
 きらめく海岸通りを抜けて、起き出した街並みの中へバイクは急ぐ。徐々に増える人の目にバーナビーはいつもの仮面を取り戻したけれど、その瞳は今朝の海のように、穏やかに凪いでいた。





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