無糖

 欲しくてたまらないものが常に手の届く位置にあるというのはとても残酷なことだ。いつでも触れられるように見えるのに、手を伸ばした途端するりとすり抜ける。まるで初めからそんなものなどなかったかのように、簡単にその身を隠してしまう。今になって思えば、望むことすら愚かであると暗に示唆されていたのかもしれない。
 
 仕事上のパートナーを“そういう”目で見るようになったのはいつからだろう。発端はもはや定かでない。気付けばその声やまなざしに酷く欲情し、他の誰でもない彼の体温を求めるようになっていた。こちらの思惑などまるで知らない彼は、フランクに肩を組むことも短く頭を撫でることも躊躇わず、その慣れない距離に僕を動揺させた。気さくなキャラクターゆえの単なるスキンシップだとわかっているのに、触れられるたび胸が痛くてしょうがなかった。
 
 この感情は永遠に一方通行だ。
 わかっているのに、報われない思いが憐れで、掬い上げてやりたくなった。叶わぬ夢を見たくなった。
 あまりにも彼が期待をさせるので。
 
 
 
 ベッドに連れ込むのは案外容易かった。ただでさえお人好しな上に頼られるとノーと言えない。逆に心配になるくらい扱いやすくて笑ってしまう。
 最近眠れないんです、といつもより神妙に切り出せば、目論見通り矢のようなおせっかいが飛んできた。食事を共にして一晩傍にいてもらう、それだけのことだ。断る理由もないだろう。互いの境遇を思えばなおさらだ。
 だからあなたは僕みたいなのに付け込まれるんだ、と忠告してやりたかったがもう遅い。シャワーを浴びてちょっといい酒を飲ませて、駄目押しのようにしおらしく添い寝を頼めば簡単に寝室までついてきた。心なしか上機嫌ですらある。
「バニーちゃんにこんなかわいい所があるなんてなぁ〜」
 茶化すような声はやけに明るい。勿論これが本音ではないこともわかる。明らかに様子のおかしい僕への、彼なりの気遣いだ。ここで僕が反発すれば、彼がそれをいなして終わる。いつもの掛け合いだ。明日からも僕は気まずい思いをすることなく彼と向き合えるだろう。
 しかしそれは叶わない。僕がここで彼の好意を踏み躙るからだ。
「素直なのがお好みならいくらでも。」
 明らかにその顔が凍り付くのを見届けて、外した眼鏡をそっとサイドボードに置いた。これ以上彼の表情を見ていられる自信がなかった。ガラス一枚隔てないだけで、随分と世界がおぼろげに感じる。
 ぼやけた視界の中心に彼を映して、熱のこもった眼差しを向けた。まぎれもない欲情だ。彼にもわかるだろう、僕がこんなにも切実に求めていたのが、単なる体温ではないことを。
「ちょ、バニー…」
「…おじさん」
 するりと彼の首に腕を回して、小説の中の娼婦みたいにしなだれかかる。彼女たちのように褥での経験が豊富なわけでもなく、どうしたらいいか迷って馬鹿みたいに側頭部へ頬を寄せた。
 聞こえたのは溜息だった。
 
「……、もうやめとけ、な」
 ぽん、と後頭部を撫でられた瞬間胸が抉られた。頭を冷やせ、離れろと物言わぬ掌が語る。常になく低い声に体が強張り、心が折れそうになるがここで屈するわけにはいかない。
 冬、惨劇の日が近付くたび、この恋しさはどんどんと膨れ上がっていった。寂しくて悲しくてたまらず、感情はやがて暴走を始めた。このままでは胸がバラバラになって千切れてしまいそうだった。
 抱きしめてほしい。キスしてほしい。その温かな腕に抱いてほしい。
 けっして求めてはいけない筈の存在が恋しくてたまらない。これ以上気が狂う前に、どうにかして胸の穴を埋めたかった。
 隣で笑ってくれるだけでは、とっくに足りなくなっていたのだ。
 
「お願いです、あなたは何もしなくていい。じっとしているだけでいいですから…」
 囁くように耳朶へ懇願を落として、そこへちゅっと口付けた。一瞬竦んだ肩はおそらく生理的な反応だ。困惑の色は未だ色濃く、首筋を唇で辿り鎖骨を指でなぞっても後はなんの反応もなかった。
 鼓動の音がうるさい。耳元でどくどくと鳴るそれと自らの息遣いだけを鮮明に感じながら、鍛えられた筋肉に口付けを落とす。途中、シーツに置かれていた手が僕の肩に触れた。引きはがしても突き飛ばしてもおかしくないのに、どちらも選びかねるといった風にただ添えられていた。置かれた手には性的さなど微塵もなく、ただ戸惑いだけが伝わってくる。それでも十分と思える程、この身は彼の体温に飢えていた。
 
「っおい、」
 下衣を寛げて固い茂みをまさぐる。頭髪と同じく黒々とした陰毛が物珍しくて、掌でそっと掬い上げた性器に口付けながらしげしげとそれを眺めた。自らと同じ器官になぜこんなにも興奮するのかはわからないが、適度な湿りと弾力を持った感触がいとおしく、滑らすように唇で触れる。直接的な刺激を与えてもそれが僕と同じように昂ぶることはなく、終始力なく項垂れていた。
「ン…」
 ぱく、と先端を咥え込む。温かくつるりとした先端を舐めると、いよいよ切迫した彼が僕の頭を引き剥がしにかかる。ちゅ、と一旦性器から口を離して、見えない顔を見上げた。滑稽なほどに必死だった。
 
「奥さんのことでも、考えてて下さい」
「…ッ!」
 
 自分が何を口走ったかもわからないまま、パン、と頬を張られる。全身から血の気が引いた。
 
 向けられたのははっきりとわかる嫌悪。底冷えのする目は、裸眼ですら射竦められた瞬間に浮ついた心を糾弾する。悪いのは僕だ。この人の一番大切な部分を、美しい思い出を、醜い劣情で汚した。
 平手だったのはせめてもの同情かも知れない。僕がここまでみっともなく欲をさらけ出しても、彼は平静そのものだった。怒りですら彼の心を乱すことはできなかった。
 
 終わりだ、と絶望する僕の頭に大きな手が降ってくる。
 
「…おやすみ、バニーちゃん」
 声音はもう普段のそれと変わりなく、語尾にほんの少しの憐憫が混じる。掌は優しく温かく、手酷く僕を突き放した。
 ドアが開き、室内の灯りを一瞬だけ逃がしてまた閉まる。体温も想いも残らない、がらんどうの部屋に僕だけが残される。
 
 あの人は明日も僕に話しかけてくるだろう。完全になかったものとして日常を送り、その中でいつものおせっかいや冗談をぶつけてくるのだろう。これだけ醜く足掻いても爪痕ひとつ残せない僕は、あの人の思惑通り、何事もなかったかのように振る舞うしかないのだ。
 やるせなさにこみ上げてきたのは、涙よりも胃液だった。
 
 
 
もう二度と届かない、伝わらない。この汚い欲望の裏に、まっさらな憧憬や敬愛があったことも、彼に救われていた事実も。
 
両親、温かな家、たったひとりの理解者。僕が望むものは絶対に手に入らない。
今日も明日も僕は一人で眠り、手の届かない彼の隣で生きていく。生きていくしか、なかった。

 
 
 匂いすら残らないシーツに顔をうずめ、消えそうな声で呟く。
 
「こんな筈じゃなかった」
 
 断罪を乞うても拾ってくれる人はとうにいない。
 






(110613)



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