先ほどまでの快晴が嘘のように、空には赤黒い雲が立ち込めていた。
海馬君のビルに、じーちゃんと千春がいる―――そう告げた遊戯に、城之内たちはさっと顔色を変えた。思い出されるのは、昨日店に訪れた海馬の様子。
あの様子からして、嫌な予感しかしない。遊戯たちはすぐに店から飛び出し、海馬コーポレーション本社ビルへと走った。
「(じーちゃん…千春…!)」
どくどくと心臓がうるさいのは、走っているせいだけではない。
だって、こんなにも長い距離を一度も休まず走っているのに、体は、指先は、こんなにも冷たい。
遊戯の脳裏に、昨日海馬が帰った時の千春の表情がよぎった。
「…だいじょぶだよ、遊戯兄。ちょっとぼーっとしてただけだから」
そう言って微笑んだ千春の笑顔に蔭りがあったことに、あの時気付いていたのに。
心配してくれてありがとう、と頬に触れた手に擦り寄ってきた千春を、何故あの時もっと気にかけてやらなかったのだろう。
「(きっと千春は、何かを感じてたんだ)」
不安げに揺れていた橙の瞳に、気付いていたのに。
息を切らせながら、海馬コーポレーションのビルへと飛び込む。
中は不気味なほどにがらんとしていて、エレベーターに向かう遊戯たちを足止めするものは何もなかった。
それが、余計に不安を煽る。
「千春…無事でいて…!」
カタカタと震える手を組みながら祈るように呟く杏子に、遊戯もぎゅっと強く目を閉じた。
チン、とエレベーターが最上階に到着し、扉が開く。
――――瞬間目に飛び込んできたのは、冷たい床に力なく倒れ伏す双六の姿だった。
「じーちゃんッ!!」
ひゅっと息を呑んだ遊戯は、はじかれたようにエレベーターから飛び出して双六に駆け寄る。
「じーちゃん!しっかりして、じーちゃん!!」
体に触れて大声で呼びかければ、双六の瞳がうっすらと開く。
生きてる。そのことに一瞬ほっと安堵した遊戯だったが、その脂汗にまみれた祖父の顔を見て、目を見開いた。
「ゆ…遊戯…ごめんよ…あの少年にカードの心を教えようと思って戦ったんじゃが………うぅ……」
「じーちゃん!」
苦しそうに息をつき、切れ切れに言葉をつむぐ双六の姿に涙が浮かぶ。
どうして、じーちゃんがこんな目に。
体が震える。そんな遊戯に、双六は弱弱しく震える手を伸ばし、遊戯の袖を掴んだ。
「遊戯…ワシは…ワシのことはいい…千春を、千春を…っ」
「千春…!?」
そこで、はっと息を呑む。
そうだ。ここには、双六だけではなく千春もつれてこられたはず―――
「…ッしつ、こい!!!」
そのとき、だった。
甲高い、悲鳴に似た叫び声が聴こえたのは。
遊戯がばっと顔を上げる。
「離、して…ッ!」
「チッ!往生際が悪いぞ、小娘!」
「悪くてッ!いい!」
部屋の奥の、さらに奥へと続く扉の前に、二つの人影が見える。
一つは長身の男のもので、もう一つは―――小柄な少女のものだった。
判断するまでもなく、わかる。わかってしまう。
――――遊戯をここへ呼び出した海馬と、千春だった。
二人はこちらに気付いた様子はなく、物凄い剣幕で海馬が千春に掴みかかっている。いや、何かを、奪おうとしてて…抵抗、してる?
サッと血の気が引いた。
「ッ千春!!!」
「! 遊戯兄…!」
何が、起こってるの。
そんな思いで彼女の名を叫べば、千春がハッとしたように息をのみ、こちらを振り向く。
その一瞬の隙を、海馬が見逃すはずもなくて。
「邪魔だ!!!」
「きゃうっ!」
「千春!」
千春を投げ飛ばした。
宙を舞った千春の小さな体が床に勢いよく叩きつけられ、遊戯達のすぐ傍まで転がってくる。遊戯は息をのみ、すぐさま駆け寄ると千春の体を抱き起こす。
ちり、と胸の千年パズルが微かな熱を持った気がした。
「千春!千春、大丈夫!?」
「ゆ、ぎ…兄………」
痛みで顔を歪めながらも、千春は遊戯の名前を呼び、震える手を海馬の方へ向ける。
「ごめ…なさ………お…じいちゃ………カードが……」
「カード…!?」
一体何があったの?
そう問おうとして開いた口は、けれど高圧的な態度で自分たちを見下してくる海馬君によってすぐに閉じられることになった。
「ふぅん。少し遅かったようだな、遊戯」
「海馬君…!!」
組み合っていたせいで少し乱れた制服を直しながら、海馬は薄っぺらい笑みを浮かべている。
けほ、と咳をするのでも辛そうな千春を抱きしめ、遊戯はぎっと海馬を睨んだ。
「何てことを…!」
「遊戯、千春!」
ばたばたと、杏子達が駆け寄ってくる。
「杏子姉…」と喋ろうとして背中の痛みに顔を歪めた千春の手を、杏子は泣きそうな顔で握りしめた。
「千春っ…痛かったよね、怖かったよね…!もう大丈夫だからね…!」
「海馬ァ、テメェ…!こんなチビにまで手ェ上げやがって!」
ちりちり、ちりちりと胸の千年パズルがか細く震えている。感じた熱は収まるどころか、ますます増しているようにも感じた。
――――怒ってる。
何が怒っているのか、どうしてそう思ったのかは分からない。
けど、漠然とわかった。怒ってる。すごくすごく、怒ってる。
ボクの奥底に眠る『 』が――――――
千春を抱く腕に、力がこもった。
「じーさんたちに何しやがった!!」
「なんてことない、デュエルをしただけさ。お互い一番大切なカードを賭けてね。ただ、ボクが開発したバーチャルシミュレーターの刺激がちょっと強すぎたかもな」
「バーチャルシミュレーター…?」
「…っ」
ぐ、と千春が悔しそうに唇をかみ締める。
杏子が瞳を吊り上げて、海馬を睨みつけた。
「卑怯な手を使ったんじゃないの!?」
「まさか!その証拠に手に入れた、このカード…」
「!」
す、と海馬が取り出したのは、双六の青眼の白龍だった。
それを見た瞬間、千春の顔色が変わる。
「正々堂々デュエルで勝って手に入れたというのに、そこのチビが駄々をこねてね。まったく、子供とは往生際が悪くていけないな!」
「…っ!」
「あれは…じーちゃんの青眼の白龍…!?ッ、千春!?」
青眼の白龍を見た瞬間、千春が遊戯の腕の中から抜け出そうと暴れだした。
その手は、眼差しは、海馬の手の中にある青眼の白龍へと向けられている。
「それを返して!おじーちゃんの、心のカード!!」
「千春!」
「貴方にそれを傷つける資格なんて…!」
「資格?」
ふ、と海馬が笑う。
そしてちらりと千春を、手の中のカードを見て――――
「!! やめっ―――」
――――ビリッ…
「このカードは既にボクのものだ。故にこのカードをどう扱おうと、ボクの勝手!」
笑いながら、青眼の白龍を真っ二つに破り捨てた。
千春が目を見開き、ひらひらと舞うカードの破片を見つめている。
千春だけではない。この場にいる全員が、呆然とその光景を眺めていた。
「じーちゃんの…大切なカードを…!!」
「デッキに入れられるカードは三枚まで。四枚目は敵になるかもしれないからね」
「…ごめ、なさ…遊戯兄…おじーちゃ…………」
「千春!」
「カード、守れなかっ………」
ゲホゲホッ!と、千春が激しく咳き込む。
先ほど吹き飛ばされたときに、打ち所が悪かったのかもしれない。目じりに涙をためて痛みに耐えるその姿は、痛々しかった。
そうまでして、あのカードを守ろうとしていたのか。
「わ…ワシの青眼の白龍が…っ!」
「じーちゃん!!しっかり!!!」
なんてことを…!遊戯の瞳にも涙がにじむ。
腕に抱いた千春をさらに強く抱きしめ、海馬を睨みつけた。
「遊戯…」
「! じーちゃん…!」
「こ、これを…」
震える手で双六が遊戯に差し出したもの―――それは、デッキだった。
「これは彼とのデュエルで使ったカードデッキじゃ…負けはしたが魂のカードじゃ……お前ならあの少年に勝てる…本当の、カードの心を………」
双六は、遊戯に己の魂をこめたデッキを託そうとしていた。
そんな彼らに、海馬は面白いと笑う。
「じーさんの敵討ちってわけか。受けてたってやってもいいぞ」
「……ゆ、ぎ……に……い…」
「遊戯…!」
「…ッ」
千春の、双六のか細い声に歯を食いしばる。
悔しい。悔しい悔しい悔しい。胸の中にあった不安は怒りへと変わり、遊戯は体を震わせた。
託されたデッキを取って、本当は今すぐにでも海馬を打ち倒したい。
けれど、目の前で、腕の中で弱っていく二人をこのままにはしておけない。
どうすればいい?どうすれば…―――
思わず顔を俯かせたとき、ぼんやりと自分を見上げている橙の瞳と目が合った。
「……ゆーぎにい、」
そのとき、千春が、ふわりと微笑んだ。
「千春…?」
「…だいじょーぶだよ、遊戯兄……だいじょーぶだから、たたかって…?」
「え……」
「そうだぜ、遊戯!!」
千春の言った言葉が、一瞬理解できなくて。
けれどすぐに背中から聞こえてきた声に、はっと我に返る。
振り向けば、真剣な表情をした城之内たちが、遊戯を見つめていた。
「二人のことはオレたちに任せろ!お前は…じーさんの言うとおりあいつに本当のデュエルって奴を教えてやるんだ…!!」
「闘って、遊戯!」
「みんな……」
「喧嘩ばっかやってたオレを変えてくれたのは遊戯、お前だ。お前なら出来るって!」
力強い城之内の言葉。
遊戯はそんな彼をじっと見上げていたが、やがて覚悟を決めて一つ、強く頷き、双六の手からデッキを受け取った。
「じーちゃん」
「頼んだぞ、遊戯…!」
託されたデッキ。
そこに込められている想いをしっかりと握り締め、遊戯はゆっくりと頷いた。
「さあ皆、手を出して!」
突然、杏子が右手にペンを持ち、真剣な顔でそう言った。
不思議そうに首をかしげながら、遊戯たちは彼女の言葉通り杏子の前に手を差し出す。
杏子が、遊戯に抱かれたままの千春を見た。
「ほら、千春もよ」
「………わたし、も…?」
千春が驚いたように目を見開く。
杏子は微笑み、千春の小さな手を引いて彼女を輪の中に加えた。
そして、右手に持ったペンのキャップを外し、それを遊戯たちの手の甲へと滑らせていく。
「…ほら!あたしたちの友情の印!」
―――完成したのは、五人の手の甲で笑う笑顔の絵だった。
なんだこれ、と不思議そうに首を傾げる城之内に、杏子は頼もしい笑顔で言う。
「マジックのインクなんてすぐに消えちゃうけど、あたし達の心の中で、この輪は決して消えたりしない!」
千春は、まるで信じられないものを見るような顔で、自分の手の甲に走った黒い線を見つめていた。
杏子の心を、想いを理解し、城之内たちもなるほどと頷く。
「…ありがとう、杏子!」
遊戯の言葉に、杏子は目を細めて微笑んだ。
「よし、杏子携帯持ってたよな?じゃあじいさんと千春は病院に…」
「…まっ、て」
「え?」
本田に促され、救急車を呼ぶために携帯電話を取り出した杏子にの手を、小さな手が止めた。
それは紛れもなく千春で、少女はまっすぐに杏子を見上げている。
「わたし、ここにいたい」
「…え!?」
「な、何言ってるの、千春!」
「そうだぜ、お前ひどい怪我なんだぞ!?」
その小さな乾いた唇から零れ落ちた言葉は、遊戯たちを驚愕させるものだった。
ここにいたい。
確かに、彼女はそう言った。
城之内の言葉通り、千春は今、自分の力で立てないほど消耗している。
一刻も早い治療が必要なのは、彼女も同じだ。
だが、千春は頑として首を横に振る。
「遊戯兄の…そばに、いたいの」
「え…」
「わたし…青眼の白龍、守れなくて…おじーちゃんがあのカード…すごく大切にしてたの、知ってたのに…!」
大きな瞳に涙が浮かぶ。
千春は遊戯が駆けつけたとき、何度も何度もごめんなさいと謝っていた。
とられちゃってごめんなさい、守れなくてごめんなさい…。
傍にいたのに。傍にいたのに、手の届くところにいたのに、守れなかった。
その心境は、想像に難くない。千春の負った傷を見れば、彼女がどれだけ必死だったかは痛いほど伝わる。けれど―――
「…わかった」
「城之内…!?」
「オレがここに残って、こいつの傍にいる。それならいいだろ」
「いいだろって…!」
――――そんな千春の心に応えたのは、城之内だった。
城之内の言葉に驚き、反論する杏子を手で制し、彼は遊戯に抱かれた千春の手を取る。
「…こいつがここまで望んでんだ。こんなボロボロになってまで。応えてやるのが、仲間だろ」
「な、かま…?」
「そうだ、仲間だ。お前は、オレ達の仲間なんだ、千春」
なかま、と驚いたように呟く千春の頭をそっと撫でてやり、城之内は遊戯を見る。
「こんなちっこい体で、海馬のヤローに噛み付いてまで、こいつが必死に守ろうとしたもんだ………遊戯…絶対…負けるなよ……………!」
「…うん!」