…気付かれたね。いやまぁ気付かれますよね、あんだけ派手に悲鳴上げたりばっしゃんと水跳ねさせたりしたら、そりゃあまぁ普通は気付きますよね!
私と少年は言葉を失ったまま、恐る恐る女性の方を振り向いた。
幻想的な夜の街で訪れた、水の上の邂逅。…なんていったら聞こえはいいが、今の私たちを包むのはそんな美しい空気ではない。少なくともこちらは心臓バクバクだ。どうしよう、どうすればいい?
私が内心冷や汗ダラダラで何を言おうか考えていると、怪しまれては不味いと思ったのだろうか。少年が女性に向かって口を開こうとした。
「あのっ…」
が、女性は彼の言葉が始まったと同時に、立てた人差し指をその薄い桜色の唇にぴたりと当てる。
子供がよくやる、「しーっ」という仕草だ。
「危害は加えない。静かにしていれば…な」
…つまり彼女に私達をどうこうするつもりはなく、自分の邪魔をしなければ見逃してやると、そういう事なのだろうか。
私は黙ったまま、じっと彼女を見つめた。彼女はそんな私達を気に止める様子も見せず、くるりと背を向ける。
「その先は研究所だよね…?君は一体――――」
おそらく、何をする気なの、と言おうとしたのだろう。しかし少年が怪訝そうにそう尋ねた、刹那。
背を向けたままの女性が真横に伸ばした左手に、青い術式が浮かび上がる。その瞬間、“何か”がギュワッと集まるような気配を感じて――――
「もがっ…!?」
「なっ…!」
隣に立っていた少年が、瞬く間に水球の中へと閉じ込められた。
「静かにしてほしいと頼んだつもりだったのだけれど…」
「え、ちょ…しょ、少年ー!」
何が起こったかわからずに、水の中で口を押さえもがく少年。
私は慌ててその水球に触れた。どぷん、と両手が水に沈む。
流石にこの仕打ちは酷くないですかおねえさんっ!!
水の中で少年の手をガシリと掴んだ、次の瞬間。
――――パァン…!
「…へ?」
「げほっ、ゴホゴホッ!!」
突然、水球が弾けとんだ。激しく咳き込む少年。私は蹲った彼の傍に膝を突き、自分の手のひらを凝視する。
これ、は…。
「今のは…うん?どうした、ウンディーネ?」
突然水球が消えたことは、あの女の人にも予想外のことらしく、何かを見定めるようにこちらを見つめてきた。
ふわ、と女の人の顔の横に青い光が灯る。ちら、と女の人はその光を一瞥したが、やがてすぐ視線をこちらへ戻した。
その射るような視線に、私はハッと顔を上げた。
「…静かにするか?そこの君も」
ふわ、と女性がかざした手のひらの上には、再び青い光が浮かんでいる。
おそらく、まだ騒ぐと言うのなら、再び閉じ込めるぞと言う脅しか。少年が慌てて口を押さえるが、さっき閉じ込められたときに水を飲んだのだろう。苦しそうに、必死に咳を押さえようとしていた。
「…咳は…まあ、大目に見よう。君たちはそこで何をしていた?」
「げほ、げほっ…ぼ、僕たちは…ッ」
私はそっと、少年の唇に自分の人差し指を当てた。
苦しいなら、喋らなくても良いよ。微笑み、私は女性に向き直る。
「風で、彼の書類が飛んじゃったの。だから、それを取りに来ただけ」
「…そうか」
説明すると、女性は私を一瞥し、そのままくるりと背を向け、鉄格子に近づいていった。…明らかにあれ、ここから入ろうとしてるよね。
格好だけじゃなく行動まで大胆なのねお姉さん!
「何するつもり…?すぐに警備員が来るよ」
「なので急いでいる。君たちは早く帰るといい。不審者として捕まってしまう前にな」
それだけを言うと、女性はひらりと身を翻し、地下水路の中へと入っていってしまった。
残された私と少年は、どうすることも出来ずにその場に立ち尽くす。
「行っちゃったね」
「…うん」
「どうする?あの人の言うとおり、戻る?」
ちなみに今なら戻れるだろうなー、とちらりと足元を見て思う。
ツン、と爪先で陣を突けば、それは水の波紋のように揺らいだ。…時間なさそう。
チラッと少年を見れば、まだ悩んでいる様子だった。
「悩むくらいなら、行ってみれば?」
「え?」
そう言ってニッと笑い、私は少年の横を駆け抜けて地下水路へと飛び込んだ。
「あ!ちょっと、キミ!?」
驚いたような少年の声に、私は鉄格子の向こう側でパッと振り向く。
「ほら、決めるなら急いで!時間は待っちゃくれないぜ?」
「え?―――――うわぁっ!!?」
ぼちゃん。
私がそう言った瞬間、タイミングよく少年の足元の陣が消え去り、少年の体が重力にしたがって水の中へと落ちた。
おおう、間一髪!
私はちょっと苦笑して、まだ残っている陣の上に足を乗せる。
「ほら!」
ばちゃばちゃと溺れている彼に向かって、手を差し出す。
彼は必死にもがき、私の手を握った。
足に力を入れ、少年を陣の上へと引っ張り上げる。そのまま、早々に安全な地下水路の中へと二人揃って転がり込んだ。
「げほ、げホッ…うえ…また水飲んじゃっ……」
「ま、元々びしょびしょだったしいいんじゃない?」
「うう……」
地面に蹲り、咽る彼の背中をなでてやりながら、あたしは笑う。恨みがましそうな彼の視線には気付かないフリでごまかしておくとして。
「で、どーする少年?今ならまだ、後戻りできるけど」
「……キミは…どうするの…?」
「私?面白そうだから行くけど」
「お、面白そう!?」
「うん」
あっさり頷くと、少年はパカッと口を開けたまま固まってしまった。
あはは、その反応懐かしいなぁ。確か前にも似たような状況で似たようなことを言った。そしたら、皆そんな感じの反応するんだもん、そんな理由で!?って。思わず笑っちゃったよね。
―――まあ、きっと“あの子”だけは、そう言っても呆れたように溜息ついて「馬鹿じゃないの、そんなくだらない理由で自分から死にに行くつもり?アンタって本当変だよね」って言うんだろうけど。
ちょっと昔の思い出が頭をよぎって、僅かに眼を伏せる。
でもすぐに、元のように笑顔を浮かべた。
「で、君はどーする?もし帰るって言うなら帰りなよ。その代わり、今日見たことは忘れて、ね。余計な嫌疑、かけられたくないでしょ?」
「…………」
少年の顔がゆがんだ。
少年は私から視線を外し、じっと地下水路の奥を見つめた。
「………僕も行くよ」
「…いいの?」
「うん。元々僕…人を探して、ここに来たから」
そういった少年の瞳には、まだ少しの迷いが見えた。
でも。一応決心はついたらしい。私は頷き、すっくと立ち上がった。
それから、少年に向かって手を差し出す。
「じゃ、ひとまず一緒に行動しようよ。一人で行くより、二人で行ったほうが心強いし」
主に私が。
「あ、言い忘れてたけど、私トキワっていうの。よろしく」
少し遅い、自己紹介になりましたが。
そんな私の手と顔を、少年は交互に見つめる。
そして、ゆっくりと、私が差し出した手に、彼が手を重ねて、微笑んだ。
「ジュード。ジュード・マティス。それが僕の名前だよ。えっと…よろしくね、トキワ」
握り返された少年の手を引いて彼を引っ張りあげながら、私はそっと笑みを深めた。
ジュード―――ジュード・マティスか。
その名前を聞き、私は確かに確信した。
―――――拝啓、現実世界の皆さん及び、かつての仲間たち。
私は今、異世界にいるようです――――――
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