あのまま抱いてくれればいいと思った。
けれど、それはやはり叶わなかった。
確かに気分的にアルコールの影響を受けてはいたが、正常な意識はあった。それでも酔ったフリをした。
送って行くと言われたが、断った。あっちも突然のことに頭がついていかなかったのか、俺が断るとあっさりと引き下がってくれた。
家に帰ると言って出てきたものの、アラジンがいるあの空間に、素直に帰る気にはなれなかった。
だからというか、家とは反対方向に歩を進め、適当にぶらつくことにした。
夜間の時間帯も賑やかなそこは、色とりどりの嫌にギラギラした明かりが道を照らしていて、宵闇を一切感じさせない。
途中、携帯が鳴った。アラジンから電話。
多分連絡も無しに帰らない俺を心配してのことなんだろうけど、お互いもう18なんだし、いい加減ウザいと思う。
俺はその電話に出ることなく、携帯の電源を落とした。そうしてため息を吐きながら携帯をポケットに仕舞った直後、誰かに肩を叩かれた。
「ねえ、君…」
中年の声に、俺の心臓が一瞬跳ねた。制服で、しかも酒も入ってるから、警察だとしたらやばい。しかし実際振り向いてみれば、そこにいたのはごく普通のサラリーマン風の中年男で、到底警察には見えなかった。
「何だよおっさん。」
舌打ち交じりに、乗せられた手を払う。相手の目を睨んで、説教なら間に合ってるからと言いかけた口を閉じた。
その目は、そんなマトモなことを言おうとしている大人の目じゃなかった。口元も少しニヤついてるし、これは所謂ナンパだな。当然ソッチ目的の。
それが分かった途端、俺の胸の内に湧いてきたのは嫌悪感でなどはなく、喜びにも似た感情だった。
なんだ、やっぱ俺も、男落とせる位の色気持ってんじゃん。
「…いーよ?どーせ暇だしな。言っとくけど、俺高いから。」
誘う様に目を細めて言えば、相手は鼻から大きく息を吐いてニヤニヤと笑った。
「話が早くて助かるよ。」
似ても似つかない、見知らぬ男の身体からは、あいつと同じ煙草の匂いがした。
*
不幸中の幸いっつーの?つかそもそも不幸でもねえんだけど、とりあえずは、だ。俺に声をかけて来たおっさんは常習犯らしく、コーユーコトに慣れてるみたいだった。だからというか、まあ俺も気持ちよかった。
「……シンドバッド。」
姿を重ねずにいられるわけがなかった。
自分より体格のいい相手に組み敷かれたあの感覚、背中に回された腕に締め付けられるあの圧迫感。汗の匂いに混じった煙草の匂い。
「ホント……どうしようもねえ奴。」
女々しいったらねえな、我ながら気持ち悪ぃつの。
雫が頬に落ちる。
涙じゃない。雨だ。
降り出しから粒の大きかった雨はそのまま止むことなく、天気は完全に雨になった。雨脚が強くなっても、俺は傘をさす気にはなれなかった。だから家まで歩いて帰った。走ることも、早足になることもしなかった。
喉が痛い。違う、泣いてなんかない、だってこれは雨だ。
時間の感覚が無かった。
ただ日付は確実に変わっているはずだから、アラジンはもう寝ていると思う。
正直今は顔を合わせたくないどころか、存在を認識することさえ嫌だから丁度いい。
……と思っていたのだが。
「ジュダル君!!」
なんで玄関開けた瞬間そこにいるんだよ…。
「びしょ濡れじゃないか!!どうしてそのまま帰ってきたんだい!?それに、どうして連絡くれなかったの!!」
「ガキじゃねえんだ、別にいいだろ。」
「でもメールくらいくれたって、」
「っせーなあ!!黙れよ!!」
沸き上がる感情のままに声を荒げれば、アラジンはビクリと肩を震わせた。
俺はその怯えたような瞳と目が合った瞬間、怒鳴ってしまってしまったことを酷く後悔した。
ごめん、お前は何も悪くないんだ、だからそんな顔すんなよ…。
心は喉に詰まり、そのまま針になって、俺の喉を刺した。
「俺なんかに、構うな…。」
傷だらけの喉で紡ぐには、それが精一杯の言葉だった。
俺はアラジンから目を逸らし、早足で自室へと逃げ込んだ。
扉を閉め、何をするでもなく立ち尽くす。
髪から雫が滴り落ちていく。肌に張り付いた服も水を垂らし、靴下を伝ってじわじわと床を湿らせ、やがて俺を中心に小さな水溜りが形成されていく。
鞄を、投げるように床に置いた。
ポケットにつっこんだままだった、数枚の万札を取り出す。
適当に押し込まれ、水気を吸ってすっかりしわくちゃになったそれは、見た目惨めな紙くず同然だった。
これが俺の価値か、なんて。無表情のままそれをゴミの様に床に放り投げると、濡れた紙が床に落ちた音がした。
ドアに背を預け、ずるずると床に座り込む。水溜りの面積は一向に広がっていくばかりだ。
寒い。自分の体温が下がっていくのが分かる。
「ジュダル君、風邪引いちゃうよ……。」
「んだよ…構うなっつってんだろ……。」
ドア越しの背中から、アラジンの辛そうな声が聞こえた。
扉を挟んでの背中合わせ。膝を抱えたあいつの姿が脳裏に浮かんだ。
なんだよ、なんでお前がそんなに苦しそうなんだよ、泣きてえのはこっちだっての、もうわけわかんねえよ……。
なんで、お前が……。
「……悪かった。」
喉が熱い。鼻の奥が熱い。眼が熱い。
「ごめん、アラジン。」
自然と声が出た。
なのに頭の中は、俺は何に対して謝ってんだろうって疑問が渦巻いていた。
「……心配してた。」
「ああ。」
「ジュダル君になにかあったらどうしようって、怖かった。」
「……ああ。」
なあ、お前の心配する「なにか」って何?
命を脅かすような危機?俺が血を流すようなこと?
それなら心配ねえけど、俺は既に頭の螺子が外れてる状態で、もう元には戻れないくらいには壊れてんだけど。
それでも俺は、お前から見たら"無事"な状態か?
「なあ…本当に?」
疑っているわけじゃない、ただ確信が欲しかった。
本当に、俺を、心配してくれていた?
「当たり前じゃないか。」
ああ、ほら。お前の答えは絶対に俺を裏切らない。
「たった一人の、大切な家族だもの…。」
その言葉が、声が、驚くくらいに俺の心にストンと落ちて。安心感っつーか、そんな温かい感情が、心臓を中心に全身に広がっていくような気がした。
疲れてたのかもしんねえ。
自分でも気付かないくらいに、酷く。
だからその温かさに目を細めた瞬間、俺は意識を手放した。
*
「……さむっ。」
肉体的さ寒さに目を覚ませば、制服を着た身体はぐっしょりと濡れていた。
あー、そういやあのまま寝ちまったんだっけな。
「気持ち悪…。」
皮膚がふやけて手の平にはしわが出てるし、なんか頭も痒い。
今更言ったところで遅いのだが、着替えずにいたことを後悔した。
立ち上がろうとしたら、一瞬だが、腰に鈍い痛みが走った。
うっわ最悪、昨日のこと思い出しちまったじゃねーかよ…。
目を覚ましたんだから朝なのだろうと思ったが、カーテンの隙間から差し込む光などは一切無く、携帯で時刻を確認すれば、時刻は朝の5時を過ぎたところだった。
「…そりゃ暗えよな。」
そう呟いて、ため息をついた。
とりあえずシャワーを浴びようと、今度こそ立ち上がった。とにかくこの肌に張り付いた衣類を早く脱ぎたくて仕方がなかったので、着替えは持たずにバスタオルだけを手に取る。
ドアに手をかけて廊下に出ると、そこには驚きの光景があった。
「……アラジン?」
ドアの隣の壁に背を預け、膝を抱えた体勢で眠ったアラジンがそこにいた。
まさか、こいつずっとここにいたのか?
「…何やってんだ、バカ。」
俺の声は、何故だか少し嬉しそうだった。
廊下に膝をついて顔を覗き込めば、目元が少し腫れているのが分かった。
「なあ、泣いてたのか?」
問いかけながら、アラジンの頭を撫でる。
久しく触れていなかった、蒼い髪のサラサラとした感触が心地良い。
眠りが深いのか、アラジンは俺の問いには答えてはくれない。
でもまあ、それでもよかった。どうせ答えは分かってる。
改めて見れば、俺ほどじゃないが、こいつも随分と綺麗な顔をしていると思う。
長い睫も、桜色の唇も、白磁の肌も。穢れを知らないって、正にこいつのことだと、そう思わせる程に、アラジンは"綺麗"だ。
髪の色や顔立ち、性格は勿論、俺達の決定的な違いはコレだと思う。
兄弟って、普通どこかしらは似るもんだろ。双子のくせにここまで違うのかと、なんだか少し残念な気持ちになる。
ひとつでいいから、アラジンと同じが欲しかった。
贅沢を言えば、あの澄んだ輝きは出せなくとも、瞳の色は青がよかった。
それが駄目なら、赤と蒼を半分ずつ分け合いたかった。
頭を撫でていた手を滑らせ、頬を撫でる。
そしてそのまま目尻をなぞるように、親指を動かした。
ああ、やっぱり馬鹿は俺か。
沸きあがってはいけない衝動に駆られ、俺はまた自分を嘲笑った。
それでも歯止めはきかなくて、アラジンの頬を、まるで傷物を扱うかのように両手で優しく包み、ゆっくりと上を向かせる。
「…………。」
相手の意識がないのをいいことに、俺は実の兄貴と唇を重ねた。
大丈夫、これはキスじゃない。ただ唇と唇が触れただけ。
お前はまだ、綺麗なままだから……。
「……愛してる。」
言ってみただけ。大丈夫、まだ戻れる。
*
シャワーのお湯が、冷え切った身体の熱を取り戻す。熱くて、気持ち良いい。
立っているのが辛いほどに身体がだるかったので、膝をついて髪を洗う。身体にぶつかるお湯の音が、どこか遠くに聞こえていた。
制服、どーすっかな。今からじゃ洗濯しても遅えよな。いや、ドライヤー使えば乾くか?
ぼんやりとそんなことを考えながら、お湯を止める。だるい、眠い。しかもなんか頭痛え。
「…………。」
あ、これは本格的にヤバいかもしんねえ。
ぼやける視界に、俺は自らの体調不良を自覚した。
風呂から上がると、俺が置いていたバスタオルの上に着替えが置いてあった。多分、アラジンだ。起きたのか。
「……母親かっての。」
綺麗に畳まれたスウェットに腕を通し、俺は風呂場を後にする。
喉が渇いたと、身体が冷たい飲み物を欲していたので、冷蔵庫の中にあるスポーツ飲料を取りに行こうと思った。
しかし思いの他身体が重く、俺は一旦体重を壁に預けた。
「大丈夫かい?」
俯いていた顔を上げれば、アラジンが眉を潜めて俺を見ていた。
不思議と俺は、あんなことをした後でもちゃんとアラジンの目を見ることが出来た。
アラジンは俺の心配、というより、なんだかアラジン自身が辛いといった表情をしていた。
でも結局、原因は俺が弱ってることなんだろうけど。
自意識過剰?違う、絶対の事実だ。
「…へーき。」
身体を壁に預けたまま、無理に少し笑ってみせた。
「髪…拭かないとだめだよ。」
アラジンは俺に近寄ると、持っていたタオルで俺の頭を包んだ。
「……なあ、喉渇いた。」
小さく呟けば、「うん。」と、同じくらい小さな声で返された。リビングまで連れて行ってほしいと頼めば、再び「うん。」と了承の返事を得た。
アラジンは俺の頭にタオルを被せたまま、ふらつく俺の片腕を自身の首の後ろに回し、肩を貸した。
「座ってていいよ?持ってくる。」
優しい声だった。
俺はおとなしくソファーに座り、髪を拭くこともせずただアラジンを見ていた。その横顔からは既に辛そうな表情は消えていて、俺はなんだか安心した。
手渡された冷たい飲み物を一気に飲み干す。乾いた喉が潤されていくのが分かった。
「一杯でいいのかい?」
「いー。つか、眠ぃ。」
ありがとうなんて素直な言葉、出るはずがなかった。
「だめだよ、髪、濡れたままじゃないか。」
「いいっつの、めんどくせえし。」
俺が動こうとしないのを見ると、アラジンは呆れたように小さく息を吐いた。
そうして「ちょっと待っててね。」と言って立ち去り、戻って来たその手には櫛とドライヤーがあった。
「何?乾かしてくれんの?」
わざと期待を込めた目で微笑めば、アラジンは「だってしょうがないじゃないか。」なんて言って苦笑した。
髪を触られるのは好きだ。但し俺が好意を抱いている奴限定で。
ドライヤーの音は煩くて頭に響くけど、それを上回るくらいに、アラジンに触れられるのは心地が好かった。
「なあアラジン、昨日さぁ…。」
話を切り出したのは、俺だった。
独り言の様に落とされた言葉だったが、ドライヤーの風が止んだタイミングで言ったため、アラジンにもしっかりと聞こえているはずだ。
しかし口に出したのはいいが、そこから先の言葉が出てくることはなかった。
自分でも、何を言おうとしたのか分からなかったからだ。
失敗した。今更やっぱなんでもねえなんて言えねえよな……。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、アラジンは口を開いた。
「いいよ、何も聞かない。」
振り向けば、アラジンが笑っていた。
シンドバッドを好きになったこと、身体を売ったこと、アラジンと唇を重ねたこと。
全てを許されたような気がした。
分かってる、こいつは何も知らないだけ。
だから、こんなにも綺麗に笑えるんだって。ちゃんと頭では理解してる。
なのに、いつもそうだ。
いつもいつも、俺はこの笑顔を自分の都合の良い様に解釈しては、勝手に赦された気になる。
「あっそ……じゃあ、言わねぇ。」
次に追求されたって、絶対に言わない。例え何年、何十年経った後でもだ。
「うん、聞かない。」
そうやって耳を塞いで、目を閉じて。
どうか澄んだその眼には、綺麗なままの俺を映していて。
俺はずっと、お前の為に、嘘を吐き続けると誓うから。
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