――――その日、俺は家にはいなかった。


何がきっかけで知り合ったのかは忘れたが、近寄って来た女に「今日親家にいないから…。」と”誘われた“ので、そいつの家に泊まった帰りだった。

元々好意を抱いていたわけじゃなかった。早い話が身体目的で抱いてやった。だからヤッた後に冷たくあたって、朝飯も断ってさっさと家路についても、罪悪感なんて微塵も湧かなかった。
出来れば早いとこ帰って、アラジンには夜のうちに帰っていたと思わせたかったし、正直そこまで親しくない他人の家なんて居心地悪ぃだけだしな。


「……何してんだ、俺。」


土曜の朝、広すぎる空、独りでアスファルトの上を歩く自分。
正直、虚しかった。
この手で、指で、舌で、唇で。俺は昨日何をしていた?好きでもねえ女にキスをして抱いて、それまで高ぶっていた熱を吐き出して、そしたら急に冷めて、全部嫌になった。馬鹿みてえだと思った。ああ、俺今すっげー病んでるわ。

こーゆー時頭の中に浮かぶのは決まってあいつらの顔だしよ。


「シンドバッド…。」


本当は、あいつに抱かれたい。俺が性欲処理のために女にしてきたことって、多分俺自身がシンドバッドにされたいと思ってることなんだと思う。


「はぁ……。」


こんなことを考える度に、アラジンに対しての罪悪感が肥大する。……ケーキでも買ってってやるか。あいつ甘いもん好きだし。なんて、そんなのただの自己満足なんだけど。

『ありがとう、ジュダル君!』

アラジンがそう言って俺に笑顔を向けた瞬間、俺は救われた気持ちになる。
ああ、笑ってる。何も気付かれていない、疑われてない。こいつはまだ純粋に俺を好いてくれている、と。

ったくホントガキみてえ。ケーキひとつであんな笑うなんて。
その笑顔を想像して口元が少し緩んだことに、俺は気付いてはいなかった。


「あ。」

「?」


コンビニに入って、ついでに自分の飲み物も買おうとコーナーに立ち寄ったのが悪かった。
俺はそこでわざわざ休日に会う必要のない教師と出くわして、目が合った。思わず声を出してしまった以上、無視しようにも出来ない状況だ。


「…はよぅございます。」

「……え!?ああ、お早うございます。」


にこりと微笑んだそいつは、なんか知らねえけど少し驚いた様子で慌てて挨拶を返した。でも次の瞬間にはいつも通りの落ち着きを取り戻していて、細めの身体と色素の薄い髪が、爽やかで仕事のデキる男として人気なジャーファルがそこにいた。
…じゃねえ、ジャーファル先生だわ、先生。


「センセーって、この近くに住んでんスか?」

「ああ、いいえ。そういうわけではないんですけど…少し用があったので、偶々。」



ジャーファルの手には紅茶のペットボトルと缶コーヒーがあった。その缶コーヒーの銘柄が、シンドバッドがよく飲んでるのと一緒だったから。そういやあいつの家もこの近くだったなあということを思い出した。


「へー…そーなんですか。」


正直社交辞令の会話なんて退屈だし、そもそも学校以外でこいつと話すなんて気まずくて仕方ねーし、俺は早いとこ切り上げてしまいたかった。多分、あっちも同じようなこと考えてっだろうし。

しかし俺が棚に並んだ飲料水のボトル缶に手を伸ばしたその瞬間、ふわりとあの香りが鼻を擽った。

あれ、こいつって喫煙者だっけ……?


「……あの。」

「はい?」

「ジャーファルセンセーって、煙草吸いましたっけ?」

「いいえ?吸いませんけど……どうしてですか?」

「いや、なんでも。…じゃ、俺はこれで。」


そう言ってさっさと会計を済ませ、俺は逃げるようにしてその場を後にした。

後ろめたいことなんか何もねえのに、偶然、そうだったってだけなのに。


「…………。」


意識しすぎだ、考え過ぎだと、誰か笑ってくれたらよかった。けれど現実、笑ってくれる人間なんざ自分以外いるわけがなくて。それは所詮自嘲なんていう酷く無様なものでしかなかった。


「あれ?ジュダル君帰ってたんだね。おはよう。」


ん、おはよ。ケーキあっから、今日中に食っとけよ。


「本当かい!?ふふ、ありがとうジュダル君!!」


…………おう。






*






「ん…………あ?」


やっべ、寝てた。

放課後、教室で目を覚ました俺は伏せていた机から上半身を起こし、固くなった身体を上に伸ばした。西の空はまだぼんやりと明るいが、多分十数分もすれば陽は完全に沈むだろう。
他の奴等の机上に置いてあった鞄や着替えなんかも数を減らしていて、黒板脇の時計の針は七時になるところだった。寝起きのせいか、なんか喉がイガイガする。


「ジュダルー、いるかあ?」


声のした方を振り向けば、教室の入り口で扉に手を掛けたシンドバッドと目が合った。


「いるっつの…。」


見れば分かるだろと、若干擦れた声で返事をして席を立った。殆ど荷物の入っていない鞄を背負い、出口へと向かう。


「寝てたのか?寝癖、ついてるぞ。」


歩きながら、シンドバッドはそう言って俺の髪を撫でた。


「ふーん……直して。」

「お前、寝惚けてるな?」


小さく笑いながら乗せられた大きな掌に、心臓が高鳴る。
髪を梳く度に頭皮に響く、甘い感触が心地好くて。その太い指先が、「ほら、できたぞ。」とすぐに離れてしまったことを酷く残念に思った。


「応接室?」

「いいや、もう遅いからな。俺の家で聞くよ。それとも自分の家の方がいいか?」

「いや…お前ん家でいい。アラジンには、あんま聞かれたくねえし。」


多分、進路の相談か何かだと思ってんだろうな。


不思議と、心臓の音は静かだった。






*






「先行ってろ、車停めてくるから。」


そう言われ、部屋の鍵を受け取って車を降りた。扉を閉める音が、やけに大きく聞こえた。


「うっわぁ……。」


だらしねえ。リビングの扉を開けて、第一に浮かんだのはその言葉だった。
脱ぎ散らかした服、ゴミ箱に強引に詰め込まれたコンビニ弁当、机周辺に乱雑に積まれたファイルや書類。汚い、とまではいかないが、この散らかり様はあまり好ましいものではない。

しかし不思議とキッチンは綺麗な状態で、おそらく料理はしてねえんだろうなと思った。何気なく冷蔵庫を開けてみれば、案の定そこには食材と呼べるようなものは入っていなかった。

そのくせ無駄に買い込まれた缶ビールの数に、俺は半ば呆れがちに息を吐いた。

ったくろくな食い物は入れてねえくせに、酒だけはきっちりストックしてんだな…………ああ、そうだ。

頭の中にとある名案が浮かんだ俺は、冷蔵庫にあった缶ビールに手を伸ばした。

プルタブを開ければ、炭酸の缶が開く爽快な音と共に、ビール独特の香りが鼻に届いた。まだ未成年だが、俺は躊躇うことなく缶の中身に口をつけた。

だって、これはいい言い訳になる。
シンドバッドに思いを告げ、拒絶され、これまでの関係が全て崩れてしまいそうなことになったとして。酔っていた、冷静な判断がつかなかった、勢いの冗談だ、と。笑うこともできるはずだ。アラジンにも、迷惑はかからない。大丈夫。

少し苦い喉の痛みが、丁度よかった。


「ジュダル?」


冷蔵庫の前で突っ立っていた俺に、シンドバッドが声をかけた。


「なぁシンドバッド、お前ん家散らかり過ぎじゃね?」


シンドバッドに背を向けたまま、俺は息を吐く様に言葉を発した。


「はは…やっぱりそう思うか?」


振り向かなくても、苦笑を浮かべるその顔は容易に想像がつく。


「ちゃんとしたもん食ってんのか、心配になる。」

「そんな心配をお前にされるようじゃ、明日からはちゃんとしないとな。」


言いながら、シンドバッドはソファーの上にあった衣類を抱えると、それを床に投げられたスウェットの上に重ねた。

「それ意味ねえじゃん、ちゃんと洗濯機まで持ってけよ。」俺の口から出たのは、そんな言葉ではなかった。


「そうだぜ?ジャーファルも毎回呆れてんだろ。」


笑い混じりにそう言った俺は、まだ中身の少し残った缶ビールを置き、ソファーに座るシンドバッドへと近付いた。その顔は驚きに固まっていて、俺は口角を吊り上げた。


「付き合ってんだろ。あいつと。」


それは質問ではなく、確認でもない、確かな核心を突かんとする言葉。


「何、馬鹿なことを…」

「あ?バッカじゃねーのあんた、正に図星って顔してんだけど。」

「……ジュダル、お前まさか酒飲んだのか?」

「飲んだけど?だから?つーか否定しねーの!?違うなら違うって言えよ!!」

「…………。」


膝を折り、何も言わないシンドバッドの両肩を正面から掴んで、大きく揺さぶった。


「はは、嘘でも否定出来ないってか。弟同然の、俺相手でもか!?……なあシンドバッドぉ…お前、ソレがどういう意味か分かってんのかよ…。」


こーゆー誠実さは人一倍なんだから、笑っちまう。あの野郎、愛されてやんの。羨ましい。

ああ、だめだ。この男はどうあっても俺の手には入らない。

親族。

こいつは絶対に、それ以下、それ以上の愛を注いではくれない。


「……いーや、それでも。」

「ジュダ、ル…?」


爪が食い込むほどに強く鷲掴んでいた手から力を抜き、俺はゆっくりとシンドバッドの首に腕を回した。





「俺さ、お前のこと……。」



好きなんだけど。



ずっと焦がれ続けていたその口付けは、やっぱりあの煙草の味がした。




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