part1 「平和×別れ×自立」
01



「あっつ………。」

一人吐き出すかのように呟いた。

外を見れば、西日が隣の校舎を遠慮容赦なく照らしていた。未だ残る油蝉の鳴き声にあわせて汗が噴き出る。
ふぅ、と一息吐いた後、視線を真っ直ぐに正す。目の前には防具を付け、稽古をしている仲間達。竹刀独特の気持ちが良い打突音や気迫のある声。一度そちらに気を向ければ、外の雑音などは気にもならなくなる。緊張感の漂うこの雰囲気がとても好きだ。

私は暑さのせいか少し動きが悪くなってきた仲間達を剣道場の隅で正座をしながら眺めている。

……いつもより早いけれど、今日はこの位で終わりにしたほうが良さそうか。

いつも稽古が終わるのは六時半。
時計を見れば五時半を指していた。稽古終了まであと一時間。


「おー、黒瀬。どうだ?お前から見て、気づいたこととかあったか?」

丁度いいタイミングで話しかけられて驚いた。

声の主は剣道部の顧問。
面を付けているため表情は読み取りにくいが、ちらっと人懐っこい笑顔が見えた。

この人は、糸目にふっくらとした体型の持ち主で、とても優しく学習も剣道も教えるのが、とても上手だ。そんな先生が人から嫌われる訳もなく、生徒からは絶大な人気を誇っている。
ただし、怒らせると怖いので要注意だ。

「……暑さと疲れのせいか皆動きが鈍いです。今日は早めに終わらせた方が良いのではないかと。」
「あー、夏休みが終わってから久しぶりの一日稽古だからなぁ……。流石に少し厳しいか。」

八月中ならば一日稽古していても慣れていたため疲れなかっただろうが、夏休みが明けてから昼間は授業をし稽古するのは朝と放課後だけ、という生活が続いていた。久しぶりの丸一日使っての稽古、皆が疲れるのは無理もないことだった。

「新人戦のために、しっかりやっておきたかったんだがなぁ……。まあ体調を崩しても仕方がないし、今日はそろそろ終わりにするか。」
「そうですね。」
「……黒瀬、新人戦大丈夫か?」

新人戦。
中学剣道の試合で二番目に大きな大会。

「貧血のことでしたら、その時にならないと分からないので……。でも全力を尽くすつもりです。」

私は、貧血持ちだ。
そのため、よく稽古を見学したり、休んだりしている。

七月に行われた総体では県大会に出場したはいいものの準々決勝を前に貧血で倒れてしまった。
目が覚めたさきは、見慣れた病院の天井。
心配そうにこちらを覗き込む仲間達、少し離れた場所にいた先生に言われたのは「不戦敗になった。」と一言。その悲し気な顔を見るのは三度目だった。

私は中学から剣道を始めた。
初心者で始めた同級生は男子だが他に二人いた。
元々、日本文化が好きで小学生の時は茶道、華道、書道を習っていたが、中学生になり剣道部に入部してからは、頻繁には顔を出せなくなった。

その結果、私は一年生にて総体、新人戦の県大会に出場した。
そのとき総体県大会二回戦敗退。新人戦県大会三回戦敗退。地区大会では堂々と優勝したし、色々な人から期待の新人として注目された。

三回県大会に出場し、三回とも私は貧血で倒れている。
顔なじみの医者に聞けば、緊張・興奮・疲れによるものだと診断された。

今までの公式戦、私は不戦敗以外の負けを経験したことがない。

「……先生、私部長をやっていていいのでしょうか。」

技術不足で負けるのなら、ともかく全部が不戦敗。
今だって、昨日倒れたからといって見学をしている。

「当たり前だろう。この部じゃ、お前が一番強いし教えるのも上手い。それで判断力もある。どいつに聞いてもお前が適任だと答えるさ。」
「……見学してばかりなのに、ですか?」
「その分、個人的に練習してるんだ。誰も文句など言やぁしねえよ。」

先生の言葉に眉を上げる。
個人的に練習……、それは誰にも秘密にしてきたことだった。

「……いつからです?」
「そうだなぁ……黒瀬が入部してから……一ヶ月経った頃だから去年の五月だな。お前が武道館に行った日に直ぐメールが来たんだよ。
初心者だと思うけど、やけに筋のいい…才能のある小さい女の子が来たって。
そんな奴、黒瀬しかいないからな。すぐに分かったさ。」

聞いてもいないことを話す。
わざわざ遮る必要性も無いので黙って聞いていたのだが、聞き逃せない単語が飛び出た。

「……小さい?」

思わず聞き返していた。
眉を歪めている私の顔を見て、軽く笑う顧問。

「この前の身体測定で確か144cmだっただろ。四月では……ええと、ああそうだ、143cmだっけか。1cm伸びたみたいだが……それでもまだちっさいな。ま、お前は頭もいいし、運動神経もいいから、きっと身長にまで栄養が行かなかったんだろうな。」

ガハハ。とでも言うように笑う先生。
私もならって控えめに笑うが、きっと頬は強張ってるだろう。

……牛乳なら毎日飲んでるんだけどなぁ。


◇◆◇◆


「…………先生に礼!」
「ありがとうございました!!」

私の助言を聞いたのか、ひとしきり話した先生は直ぐに稽古を打ち切った。
部員達は、いきなりの言葉に驚いたようだが喜びの色を隠せないでいる。
こんなに暑ければ、当たり前か。と整列の位置に着く。


副部長が部長である私の代わりに号令を出し、部員全員がその号令に従う。
勿論、見学していた私もそれに従った。

周りが面を右腕に抱え込んで、自分の面置き場に向かっている最中。
私は息を少し吐いて、右足から立ち上がった。
女子更衣室に入る瞬間、窓から入る風を首筋に感じて、それと同時に武道館の空気との違いがよく分かる。

「瑠唯ー!!今日はだいじょーぶなの……ぉお?!」

ドンと背中を押されそうになった。
ドタドタと音を消そうともしない足音に、少し苦笑を漏らした私は手が背中に触れるだろう瞬間を狙ってスラリと突進物をかわした。

次に聞こえた音は、壁に勢い良くぶつかった…聞くだけで顔をしかめるような痛々しい音。
武道館中に響きわたったものだから、かなり強くぶつけたらしい。
……私がぶつからせたようなものだけど。
まあ、此処に私を非難の目で見てくる人は誰ひとりとしていない。日常茶飯事に行われてるため、いい加減皆飽きてしまったためだ。


だけど、そんな光景にも苦笑いしながら声をかける優しい人はいる。
今日は……一年生か。
この子は小学校の頃から剣道をやっていたらしく、そこそこ強い。

「今日もまた黒瀬先輩に躱されちゃったんですか?」
「いたたた………そうなんだよ!可哀想でしょ?あたし!
これで瑠唯を脅かそう作戦B、44回目の失敗なんだよ!!しかも!一度も成功したことがないっていう!」
「確か作戦Aは……黒瀬先輩が着替えてる最中にお腹をくすぐる。っていうのでしたっけ?」
「うん!そーだよ!んで、それも失敗回数が99回で成功が0!!いい加減、引っかかっても良いじゃんね!毎回、毎回背中に目があるんじゃないかってくらい見事に躱されるんだもん」
「あれ、なんで99回でやめたんですか?」

それは、毎回毎回、「チェストー!!」とか、音を鳴らして襲ってくるから。寧ろ、よけられない方がおかしい、ということに気がついていないようだ。

99回、ねえ…………あ。

後輩が疑問に思ったことを考えてみると、一つ思い浮かんだことが。
やばい、と気がついたときには遅かった。
その時にはもう、目の前の友人の目がキラリと輝いていた。

「それはねぇ〜……」
「ハンターハンターのキルアの受験番号だから、でしょ。で?次は何?ヒソカの受験番号である今回ので作戦Cに移るわけ………」
「さっすが瑠唯!私がハンターについて熱弁していたおかげで、すっごい詳しくなったね!でもっ!キルアとヒソカの番号を覚えただけじゃダメだよ!?本当のハンターファンはハンター文字を読めてナンボだからね!」

思わず舌打ちを漏らすところだった。
話を打ち切る前に、順番を譲ってしまった……不覚。

というより、私ハンター文字読める。いつぞや、テスト前だというのに覚えることを強要してきた誰かのせいで。
今度から、テスト前は絶対に遊ばないと私は誓った。

好きなものに全量投球!というのが信条の友人は、戸惑う後輩を前に拳を握って熱弁してる。
このままだと帰るのが遅くなる、と思った私は軽く友人の頭を叩いた。その途端ロボットのように喋るのを止め、大げさに痛がった友人を尻目に後輩に声をかける。

「ほら、早く着替えな。」
「はい!ありがとうございます。黒瀬先輩。」
「うん。どういたしまして。」
「えぇえええ!ちょ、無視?!まさかのまさかで無視?!私がこんなに痛がってるのにー!」
「ええー、でも先輩いまのそんなに痛くなかったでしょう?」
「まあね!なんだかんだで瑠唯優しいからね!!」
「……くだらないことばっか言ってないで早く着替え済ませなさい。じゃないと先に帰るよ。」

赤くなった顔を隠すためタオルで汗を拭ったが、友人の「瑠唯って本当褒め言葉に弱いよねー。」という言葉に思わずタオルを投げつけた。


◇◆◇◆


「相変わらず、この信号長いよねー。」
「仕方がないでしょ。こっちから来る車なんて極僅かなんだから」

私たちは、通学路の信号に捕まっていた。

「あ、やっと変わった。」

早く行こ。とジェスチャーを私に向かってしてくる。

自分自身の目でも信号が青になったのを確認してから、私は自転車のペダルに全体重をのせて、早く自転車を前に進めようと身体を前にかがませた。


――その時、目の前が歪んだ。
そして同時に全身から力が抜けるような感覚に襲われる。


友人の焦る声を微かに聞きながら私は、道路に叩きつけられた。
その衝撃の瞬間、青が見えたような気がした。信号機とはまた違う深い青が。