白のプリマステラ
まだ羅針盤やコンパスなどが無かったくらい昔の人は夜空に瞬く星の位置を頼りに旅をしたという話を聞いた事があった。スターナビゲーション、星の航海術と呼ばれるそれの目印として用いられたのは真北にあって動かない北極星だ。
ふとそういった話を昔聞いた事があったのを思い出し私は天を仰いだ。雪がしとしとと降る中で空を見上げてもただただそこにあるのは灰色の雲だけ。私は星を目印に歩き出す事すら叶わない。例えこれで北極星が見えたとして、北に向かって歩いたから何がある、そこまで考えていた訳ではなかった。ただ目印が、私が帰るべき場所の目印が欲しいと思った。
「馬鹿ね、私の帰る場所なんてあってないようなもの…」
雪が降っていなければ、あの灰色の分厚い雲さえなければあるはずの星に向かって伸ばしかけたその腕を下ろした。自問自答して分かっている苦しい現実を自らに突き付けていく事を徒労だと分かっているのについしてしまう。楽しくない、楽しくないけれどこの他にする事もない。
吹雪が止んで少しが経った、雪ももう暫くすれば止むだろう。ふらふらとした足取りで山を下りた。いつも首まで雪に埋まるこの街の中を歩くのは体力を激しく消耗する。ああ、憂鬱だ、私はいつになれば何も考えず眠れるのだろう。今とても眠たい、もう一思いにここで寝てしまっても良いのではないか、と思い始める。
「別に寝て、しまっても…構う人なんて、いないでしょう……ねえ、ポラリス」
寂しくて眠たくてどうかしたのかもしれない。見えもしない北極星に同意を求めるなんて。
「こんな所で寝ちゃ駄目だよ」
「誰、ですか」
「通りすがりの客人A、かな」
嵩高い雪の道の始まり部分に背を預け三角座りをしてうとうとしていた時、穏やかで低い声が聞こえた。私に話し掛けてきているとは思いたくなかったが、こんな早朝、ましてや吹雪の後の街を出歩く人などそう居ないだろう。
「傘なんて要りません」
顔を上げてから気付いたがその穏やかで低い声の主は私を傘に入れてくれていた。必要ない、そう言えば彼は駄目、とだけ言い私の手首を掴んだ。
「何、ですか」
「逃げようとするから」
私の相当冷えた手首を素手で掴んでいる彼の手は真っ白で血の気がない。冷たいでしょう、逃げないから離してください、そう彼に訴えると彼はすんなり私を離した。
「君、どうしてここで寝ようとしてた?」
「眠たいんです。今ももう、すぐにでも寝ちゃいそうで」
「家は?」
「あります、でも…帰りたくない」
とりあえずこれ着て、と彼は着ていたコートを私に羽織らせた。私は寒くありませんから大丈夫です、と言ったがきっと強がりだと思われたのか彼は首を振った。
「…白」
座っている自分の目線の高さの物しか見ていなかった私は、その時初めて彼の顔を見た。白のふわふわした少し長めの髪の毛に、白い肌、そしてアメジストの瞳。
「君だって雪に溶けそうな白さだろ」
「…ええ」
同じ白でもあなたの白さは美しい、そう言うと彼は少し困った顔をした。私と同じく白いと言われるのは嫌なのかしら、などと軽く推測してみる。
「靴は?」
「どこかで、脱げてしまったみたいです」
「覚えてない?」
「ええ、覚えていません」
靴をどこかで落としてきてしまった事に私も今気付いた。雪山を歩くというのに着脱しやすいデザインのパンプスではどこに落としたか記憶にないのも無理はない。何足目かしら、と思っているとふわっとした感覚。というよりも身体が浮いている感覚。
「降ろして、ください」
「靴もないのに歩かせられないだろ」
「平気です、ここまで歩いてきましたから」
有無を言わせない彼の言葉に私は抵抗しようとしたが身体が動かなかった。どうやらもう限界、そういう事なのだろう。
「それにその格好も、この寒さに見合ってない」
「大丈夫です、そんなに寒くないですし」
「身体とても冷えてるけど」
「元々です」
この後どうなったのかは覚えていない。ただ彼に抱かれて、彼の歩く振動が心地よい揺れになってきっとすぐに眠りに落ちてしまった。次に目が覚めた時にはいつもの私の部屋だった。夕日のオレンジ色の光が遮光カーテンの隙間から入り込み部屋を照らしていた。
どうやって帰ったのだろう、勿論あの白い彼が送ってくれたのだろう。だがどうしてここが私の家だと分かったのだろうか。答えは考えるまでもない気がした。私は立場が立場で、嬉しくない事に街の人たちは皆私を知っている。
私は起きたてで力の入らない身体を起こし傍らに置いてあったペットボトルに入った水を飲んだ。ペットボトルいっぱいに入っていた水が半分程になるまでひと息もつかずに身体に水を流し入れる。
部屋着を脱ぎ捨て、普段着に着替えた。別に必要ないと思いながらも薄手の上着を羽織り部屋を出た。
「セヴリーヌ、目覚めてたのね」
「母さん」
母親はいつも通り晩御飯の準備をしていた様だ。母親、と言っても血の繋がりはない。
「どうしたの?着替えたりして…出掛けるの?」
「ええ、少しだけ」
少しでも何か食べていきなさい、という母親の横を通り抜けようとしたその時壁に掛けてある見覚えのあるコートが目に入った。
「あのコート……」
「あなたをここまで送り届けてくれた方が、あなたに着せてくれていたのよ」
「覚えてます。その人は?」
「まだこの街にいらっしゃるはずよ。今日も見かけたわ」
私は掛けてあるコートを手に取り家を出た。あまり遅くならないようにね、と背中越しに母親が言ったのを聞いた。
街中を走った。相も変わらず雪が嵩高く積み上げられている街中で、白の髪をした彼を見落とさないように目を凝らしながら走る。私を見た街の人がギョッとして避けようが、私を見た大人が子供を私の目に届かない様に隠そうが、今はどうでも良いと思った。
「あっ」
ふわふわの白い髪をした男性が人混みの中を歩いて行くのが見えた気がした。私は必死で追おうとしたが、次の瞬間には彼が歩いて行ったのとは逆方向に転げた。
「いっ…」
「吹雪じゃないのに化け物が出歩いてるぞ」
「ここはお前の居るべき場所じゃないだろう?」
「子供が怖がるんだ、お前のせいで冬が厳しくなる」
白の髪の男性を追い掛けていたはずなのに、私の目の前に広がるのは痛いまでに私に向けられた敵意と蔑み。どうやら私は突き飛ばされたらしい。飛び交う怒号と、それに紛れて投げられる石や固くなった雪の塊。鈍い痛みと共に頬を生暖かい血が滴るのを感じた。頭にでも当たったのだろうか。ああ、怖い、痛い、苦しい、消えてしまいたい、されるがままの状態に耐えながらそんな事を思っていた。
「やめろよ」
飛び交う怒号を聞かない様にしていたその時聞き覚えのある、だけどあの時とは違って低く少し怖い、凄みの掛かった声だった。目を守るために覆っていた腕をズラすと、あのふわっとした白い髪の、アメジストの瞳の男性。一昨日とは打って変わって、表情は険しかった。
「ど、うして」
「行こう」
彼はまた吹雪の後に私を家まで送り届けた時のように軽々と私を抱き上げ、唖然としている人々を掻き分け人混みを抜けた。彼がされるがままの私の前に現れて、その彼を見た時私は一昨日の北極星を見ようとしていた自分をフラッシュバックで見た。彼は私の帰るべき場所への目印、つまり北極星ではないけれど私に突然降り注いだ一筋の希望、例えるなら一番星かもしれない。笑っちゃいそうな話だけど、何となくそう思った。
「プリマステラ……」
「ん?」
「一番星が見えますね」
小高い丘まで来てやっと降ろされた時日が落ちかけた夕暮れの空にただひとつ輝く一番星を見つけ、指差した。彼は、ああ、とだけ言うと私の隣に腰を下ろした。
「ありがとう、ございます…私にとってのプリマステラは…あなたですね」
「大袈裟じゃないか?」
「そんな事ありませんよ…」
今日だけの一番星だとしても嬉しかった。今この時だけの一筋の希望だとしても、彼に助けられた。私にとっての最初で最後かもしれない白のプリマステラを忘れたくないと思った。
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