※オリキャラ注意
※死人が出ます




あなたを抱きたい、と男は言った。
情け程度に灯りの点った薄暗い部屋だった。お世辞にも立派とは言えない古い長屋の角部屋で、その男は一人で暮らしている。
部屋の中には一着だけ、似合わぬほど豪奢な大紋が掛けられている。白粉やら紅やら、化粧品の香りの染み付いた部屋は、目を閉じればまるで舞台の楽屋が見えるようだった。
もう随分久方ぶりに訪ねた俺を、男は変わらぬ美しい、とびきりに美しい白い顔を見せて出迎えて、お会いできて嬉しい、と笑った。
何故化粧などされますか。もう舞台は降りられたのでしょう。
もしや俺が来るなぞと言ったから無理をさせたのだろうか。慌てたら少し詰るような口調になった。俺の剣幕に男は苦笑して、恥ずかしいのです、と言った。
おれの顔はもう石灰みたいな色んなっちまって。あなたにお見せするなど耐えられない。と。

男はかつてこの江戸を賑わせた歌舞伎役者の一人だ。粋でいなせな美しい江戸っ子は、実は俺の郷里に数年いたことがある。父の地縁で出会ったその男と、戦争が始まる前の数年間交流があった。芸事について話しぶりのうまいこの男は、俺にとって年の離れた兄のようなものだった。男が江戸へ帰り、俺が先生を亡くし、戦争が始まった後も男は俺の身を案じ、俺が江戸にいると知れるとよくよく世話を焼いてくれた。もっともその頃にはもう疝痛が始まっていて、実際に会うことは稀だった。

舞台役者の職業病に、鉛中毒というものがある。
白粉には、のびを良くするために鉛が多く入っている。最近はそれが良くないと言って、若者はもうそれを使わないが、古い舞台役者はそのために中毒をやる。慢性になると顔の色の変わる鉛顔貌というものから、ひどくなると鉛疝痛という息もできぬほど痛む痙攣をする。
いいんですか、動いて。
二枚重ねた布団の上に男を座らせようとして、また男に苦笑されてしまう。
痛み止めをしましたから、もう二刻くらいはへいちゃらでしょう。なぞと言う。
痛み止め、といって打つモルヒネ注射のせいで、男の腕はもうどこもかしこも随分硬い。
舞台役者は舞台に立たねば既に死んでいるのだと言い切るこの男は、あともう何日も保たぬと見えた。

暫くは時の経つのも忘れて、また毒で覆われたその顔の変わらず美しいのに騙されて、他愛の無い世間話をころころとした。男は相変わらず芸事のこととなると洒脱な話しぶりで俺を惹き込み、まるで昔に戻ったような気配さえ見せた。
そうして二人で笑っているのに、じきに外を子供らがきゃあきゃあと騒ぎながら家路につく声がして、図ったかのように戸板の隙間から西日が射してくる。
不意に会話が途切れ、笑った顔を作った唇が不自然に戻ってゆく。そのまま顔をうつむけてしまった男のつむじを、俺は何を思うでもなしにただ何となく見つめていた。
桂さん。
はい。
人間てのぁ強欲です。
はい。
野暮ぁ言うめぇと思っていても、今生の別れと思うと欲が出る。
俺にできることならば、何でも言ってください。
―――・・・かつらさん、
はい。
・・・・・・・・・あなたを抱きたい。
消え入りそうな声で男は最後にぽつりと言った。溜息に混じって溶けていってしまいそうな、いっそ溶けてくれと願われただろう一言は俯いた先の男の膝に消えていった。
ああ、浅ましい。浅ましい。なんと恐ろしい。どうか、どうか忘れてください。男はとうとう両手で顔を覆ってしまって、いよいよ俺から表情が見えなくなってしまう。
それだけの一言を、恐らく男はずっと抱えていたのだ。いつから、などとは分からないが、もしかしたら郷里で過ごしたあの頃から、ずっと巣食ったものを秘めていたのかもしれない。
あなたを抱きたい。と、請われて、俺は応と答えてやりたかった。男に抱かれたことが無いとは言わんし、この男に対する憐憫と敬愛をもってして、それに応えることは容易いことと思われた。
けれど。
先程から脳裏を掠めていくのは銀色の髪をした幼馴染の姿。あれ、あれのことだけが気にかかる。
唯一俺の肌のうちを知っているあの男は、俺が他のものに触られることを厭がった。戦時の、いやがおうにも気が昂ぶるときでさえ、俺が夜這いにあったことを知るだけで機嫌が悪かったものだ。
しかしあれが機嫌を損ねるというだけならば、眼前のこの男に対する情がさきである。
如何ともしがたいのは、俺があれを傷つけるのをひどく厭がることだ。
嫉妬深いが、それ以上に情の厚いあの男のこと。成り行きを話して聞かせたならば、きっとそれを詰りはすまい。けれどそれはこの男の、秘め通すつもりでいた最後の弱さを白日のもとに曝すということだ。それは死にゆく者に対する尊厳の冒涜に他ならない。つまり俺は、ことこの件に関しては、あれに申し開きをする術を持っていないのだ。そしてそれが知れたときに、何も言わぬ俺に対して猜疑と焦燥と哀切の色を示す、あれの目を見るのが忍びない。この男を裏切って、すぐにでもあれを抱き込んで全てを白状してしまわないと言い切れない。
幼いころからの刷り込みなのか、先生の亡くなったときのあれの顔を見ているからか、俺はあれの怒りや悲しみというものに些か過剰に反応してしまう。
・・・とはいえ、結局俺があれに嫌われるのが怖いからだろうと言われれば否とも言えぬ。
この男の最期の頼みを、俺はあれの哀しみと俺自身の後ろめたさとで天秤にかけている。
浅ましい、恐ろしいことだと男は言うが、真に浅ましいのはどちらか。顔を覆う目の前の男と不遜にもそれを見下ろす己とを比べたら床に頭を擦り付けたくなった。
屈みこんで、顔を覆うその掌にそっと手を添える。びくんと跳ねた男は、怯えたように顔を上げた。



このような身でよろしければ、如何様にも。











己の羽織が色だけ盗られたような空だった。軽く見上げた先で一番星だけがようよう出ていて、まだ若造の夜を月の代わりと照らしている。
二刻ほどならと男は言ったが、病身に無理をさせてはまずい。まして身体にも相当の負担がかかったのだ。見送りに出ようとした男を何とか留めて、軽く挨拶をして長屋を出た。
恐らくはこれが今生の別れになるのだろう。最後と思えばよみがえる若い記憶が憎らしい。郷里で過ごしたあの頃から既に、男はいずれ最期はこうなるものと覚悟していたのだろうか。
後ろ髪を引かれる思いでまだ幾ばくも歩かぬうちに、向かいから大きなスーパーの袋をぶらさげてやってくる白い羽織が目に留まる。タイミングの良いのか悪いのか、相変わらず絶妙な間の男だ。

「・・・アレ、ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ。何だ銀時買い物か、随分遠出をしたな」
「おー、特売日なんだけど今日新八いねーから。オマエこそ珍しいトコにいんじゃん」
「ああ、知人の見舞いだ」
「あっそ」

すれ違いざまそっけなくそれだけ告げて行き違った。



***


二日経ち、俺が万事屋を訪れたとき、ほとんどニートの家主は一人で午睡を貪っている最中だった。
顔を覆った今日の新聞がパラパラと揺れる。薄暗い室内に、開いた窓から柔らかい風が入り込んでくる。なるほど眠気を誘われるのも分からないではないが。
手土産の炭酸煎餅をゴスンとその額に叩きつけて銀時を起こして怒られた。点けっぱなしになっているテレビではワイドショーを映していて、ある歌舞伎役者の芸暦や生涯を追っている。

「土産をもらったからお裾分けにと来たら、何だこのていたらくは」
「バーカ最近万事屋はシエスタを取り入れたんだよ。一番暑い時間帯は寝て過ごしやすい時間に働くエコ的なアレだよ」
「今日は日中過ごしやすくなるでしょうってお天気お姉さんが言ってたぞ。いつ働くんだ貴様」

身体を起こした拍子に落ちた新聞をわざとらしく読むそぶりをして、銀時は俺の話をスルーした。聞け。
仕方が無いので茶を汲みに水屋に入った。ちらりと目だけやったらまだ銀時は新聞を読んでいて、恐らくその芸能欄には、舞台役者の訃報がひとつ載っている。
気取ってくれるな、と思う。己の傷つくことばかり、何故か読み取ってしまう男だ。常ならばそれでも、今回ばかりは俺はお前の哀しみを和らげる何の言葉も投げかけてやれぬのだ。
気取ってくれるな、銀時。俺は自分の強欲ゆえに、お前の信頼や心の平穏と、あの男の名誉とのどちらも守り抜きたいと思っている。

「銀時、お茶置いておくぞ」
「おー」

銀時は珍しく、一面から順に新聞を読んでいる。いつもはテレビ欄だけ確認して後は窓拭きや揚げ物の下敷きにする程度だ。
バサリ、と新聞は捲くるたびに音を立て、そこを風が通り過ぎるたびパタタタ・・・と慎ましい主張をした。

「ヅラァ」
「ヅラじゃない桂だ」
「香水変えた?」
「もとより付けておらんわ。誰と勘違いしている貴様」
「一昨日つけてたじゃん、何か粉っぽいババクセーやつ」
「粉とか言うなぱうだりーと言え。
・・・アレは廃販が決まっていてな、最後というからあの日だけ使わせてもらったのだ」
「ふーん」




許せ。俺はこれを墓場まで持ってゆく。








【ナンバーナインの功罪】




注:鉛白粉は明治以降使われていません



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