春本番の優しい夜風は、大鍋から立ち昇る湯気を含んでむわっと顔面に張り付いた。煮詰めた鰹ダシの匂いが箸を進ませる。頬張ったがんもが口の中でじゅわっ、とオアゲの旨味を出すのを楽しんでいる隣で、今夜の連れは八兆味噌をコンニャクにかけている。

「長谷川さん、今日は別嬪連れてンねェ」
「よせやい、男だぜ」
「別嬪じゃない桂だ。親父その大根くれ」
「あいよ」

むっちゃむっちゃとコンニャクを租借しながら空になった皿をつき出す桂は、己の酒飲み相手にしては珍しい。大体こんなくたびれた店で飲んだくれるのは、ホームレス仲間か万事屋のダメ男くらいだった。とはいえ今夜は何か桂と特別な約束をしていたかと言うとそんなこともない、一人で飲んでいたところに通りがかったので声をかけたというだけだ。
手酌の熱燗をきゅっと傾ける桂を、己自身珍しいものを見る目で見つめている。

「親父、適当に盛ってくれや」
「おう」
「ゲェッ、何だその黒いはんぺん」
「鰯だよイワシ。こないだ駿河の奴に教えてもらってよォ」
「美味いのか。親父俺にも一枚」

だし汁から引き上げられた黒いはんぺんを、大根を崩しにかかっていた桂も興味深そうに見る。心なしか身を乗り出したせいで風に乗っただし汁の匂いを盛大に浴びるのに、その髪や着物に匂いが染み付いてしまわないだろうかと少し心配した。別に男の髪や服にダシ汁の匂いがついてたからってどうでもいいが、何となくこの男には似合わない気がする。なんとなく。
癖という字が迷子になるほどまっすぐ伸びた艶やかな黒い髪が皿に落ちるのを阻止しながら、桂は小さな皿の上で黒はんぺんをつついている。いい加減に鬱陶しくなった髪を指で耳に掻き揚げる仕草は当然女のソレほど色っぽい訳でもない。けれど間近で見てしまうと何だか妙に恥ずかしく、手酌するのをいいことに視線を無理矢理徳利に下げた。
毛色の変わった友人ができたことに浮かれているのかと思っていたが、最近はどうも違うようだと半ばこれは諦めている。

最初に断っておくが、断じて誓うが、己の心はハツ一人に置いている。他の女に、まして男に、そりゃナイスバディのデカプリ娘ちゃんならちょっとフラッとしちゃうこともあるけれど、心変わりなぞありえない。
つまりこれは、愛ではないのだ。
それを前提に呟くが、けれどこのまだ付き合いの浅い友人を、思いのほか大事に思っている。
本当はこういういかにも真面目で冗談通じないようなのは苦手なタイプだ。しかし大真面目に電波を飛ばし、存在自体が冗談みたいなこの男には、呆れつつもつい甘くなってしまうのを自覚している。時々一緒になって無茶な大ふざけをする同郷の男を、羨ましいなぁと思うくらいには。
友情にも恋愛に似た部分があるのを知っている。けれどそれとも少しずれているようだ。

はい、と適当におでんの盛られた皿がどんと出てきて、舞い上がった鰹節に鼻をやられてクシャミをこらえた。
熱燗のお代わりをつけてもらって、ギリギリまで酒を注いだ桂が猪口にキスをするように唇を近づける。己といえばもうだいぶ酒のまわった頭で、こんなボロ屋台でも絵になるモンだと思っている。桂の頭の後ろで、赤い提灯がゆらりと揺れた。

・・・彼の率いる攘夷、というのを、別段好ましく思っている訳ではない。
解雇されたけど昔は己も幕府側の人間だったのだし、攘夷志士の理想も分からないことはないが、それを積極的に支持したいとか、倒幕しろとか思ってる訳じゃない。今のこの、問題はあれどそれなりに平和な世の中をかき乱さないで欲しいとさえ思っている。
けれど真摯な顔で国を憂い、静かな動きで攘夷を率い、過激な動きで真面目にフザけまくる、この男に友を思うような、親が子を思うような、愛しいひとを思うような気持ちをもっている。

(ムズカシーねェ、なんだか)

セックスしたいとか、胸を掻き毟るような熱情とか、そういうのとは無縁だ。幸いなことに。
それでも限りなくプラトニックな、諦めつつ見守りたいような、
・・・この気持ちを恋と呼ばずして、




「・・・ヅラっち、タマゴ食べる?」
「ヅラっちじゃない桂だ。・・・・優しいな長谷川さん。ありがとう」
「ちょっ、ソレ俺の牛スジ!」






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