ガラス窓の向こうを派手な着物の女と泥酔した男が通ってゆく。
星の代わりに原色のネオンが瞬き、酔っ払いたちの声が虫の音色にとって替わる夜の街は、暗闇の中で眠りにつくということを知らない。ふぅー、と吐き出す煙に視界が曇る。女子供や病人から苦情が来るからと、最近になって禁煙が義務づけられたタクシーだったが、今夜この街で仕事をするのに恐らくそんな声は聞こえない。何せ客はもう何がなんだか分からないほど煙草か酒の匂いをさせているものなのだ。
客足の多い繁華街はタクシーにとっても競争率が高く、少し離れた場末にいてさえ客をとるのは難しい。なんだかんだで景気悪いンだよねぇ、とフロントガラスの向こうを行く草臥れたサラリーマンたちに向かって煙草の煙を吹きかけた。

コンコンッ、

「あ、ああ、悪いね今開けるから」

後ろから近づいてきた客に助手席の窓を叩かれて、慌てて後部座席のドアを開ける。そこに音も立てずするりと乗り込んできたのは、低俗なネオンに似合わぬ真面目そうな男だった。
男と知りつつちょっと振り返ってしまいそうな長いみどりの黒髪、しなやかな立ち居振る舞い。まだ若くひどく目をひく美丈夫なのに、付いていきたくなるような貫禄を持っている。
男は、郊外の小高い丘に連れて行ってくれ、と言った。

「・・・あれ?ヅラっち?」
「ん?アレッ長谷川さんじゃん。仕事始めたのか」
「いやー一回クビになってんだけどね。タクシー業も最近物騒じゃない、人手減っちゃうからって所長から夜だけ臨時のヘルプ頼まれてさぁ」

駅前では一晩待っても一人も拾えないくらいタクシーがいるのに、ギョーカイってのは難しいモンだねぇ。
半ば自分に語りかけるように溜息をついて、目に眩しい街の明かりから逃げるようにハンドルを切った。


真夜中のタクシー業は、やはりあまり好きではない。自分の家もわからないほど泥酔した者が多いし、中には精神を病んだ者が病院を抜け出してくるようなこともあった。それから自分はまだ当たったことはないのだが、時々この世ならざるものも、乗ってくることがあるらしい。特にバス停とか、ダムの前。
街にタクシーが多くても、やはり客を探してそっちに回る気にはなれない。
コンコン、と先程窓を叩かれたとき、すわと思ってぎょっとした。長い髪、色白の美人。夜の街にそぐわぬきっちりとした和服の着こなし。ちょっとできすぎたイメージだ。

「それで俺をオバケと間違えたのか?失礼な」
「ゴメンってヅラっち。こっちもコワかったのよ、ユーレイでも乗せないワケにはいかないしさァ」
「そうか・・・オバケってちゃんと料金払ってくれるのか?」
「さあ。家に帰ってくれるんなら遺族に払ってもらうんだろうけど」
「なんかそういう詐欺とかありそうだな。ダメだぞ長谷川さん」
「しねーよそんなコワイの」

二車線道路が一車線になって、街路樹が増えていく。ランプのようなガス灯の点る大きな石橋を抜けると、その先は眠りについた旧い街だった。
一階を店にして二階を自宅にする、そのどちらももう部屋の明かりは消えていて、唯一通り抜けたガソリンスタンドと警察署の電気だけが点いていた。ラジオもかけない車内、ぽつりぽつりと思い出したように他愛の無い会話をふたり繋げて、信号もほとんどない一本道を駆け抜ける。賑やかだった周りの声などもう人影からすっかり無くなっていて、この友人を乗せたタクシー一台だけがぽんと世界から切り取られたようだった。

「あ、ソコ右だ長谷川さん。うん、そんで次が左な、そうそこの細い道入って」

男は慣れた口ぶりで道を指す。言われるままにハンドルを切るたび、道は細く暗くなってゆく。小高い丘というから予想はしていたが、ほとんど山のようなそこをヘッドライトだけを頼みに上がってゆくうち、得体の知れないコワさがまたぶり返す。
こんな時間に、こんな山の中に、一体何の用があるのだろう。確かに後部座席に座る男は気心の知れた友人の姿をしているけれど、けれど?

(このへんの山、なんか出るとか言ってなかったっけ・・・)

ただひたすら山道を登るだけの道中に、もう後ろの男が声をかけることはない。バックミラーに映るのは、いつもより少し難しい顔をして、暗い森の奥を見つめている横顔だけだった。
もはやシルエットしか分からない木々が人影のように通り過ぎていく。これをもう見ることさえ躊躇われて、油の切れたブリキ人形のように前だけ見つめてアクセルを踏んでいる。もう随分暖かくなったのにいつの間にかハンドルを握り締める手は冷たくなっていて、そんなことに妙に不安を掻き立てられた。
突然、パッ、と白いものがライトに反射して、キィッと慌ててブレーキを踏む。急に前のめりになった車体に大きく揺られて、後ろの男は少し驚いた顔をした。
ライトに照らされたそれはまだかろうじて白いといえる、古い木の看板だった。
『この先 立ち入り禁止』


「・・・あ、あのさァヅラっち・・・」
「あ、ココでいいぞ長谷川さん。ありがとう」

決して安くは無いメーターぶんの代金を払うと、男は何も見ていなかったかのように看板の向こうへ歩き出そうとする。それを放っておくべきか、声をかけるべきかしばし悩んで、結局男を呼んだ。

「オイ、この後どうやって帰るよ?」
「うん?ああ、明け方になるから歩いて帰るか、またタクシーをここまで呼ぶかだな」
「こんなトコぜってーわかんねーよ呼ばれても。歩くっつっても結構あるし」
「じゃあここで待っててくれるか長谷川さん」
「えっちょっココで待つの!?ヤだよそんなの、せめて俺も行く!」

本当は目の前の友の姿をしたものにすら恐怖を覚えているのだから、さっさと帰ってしまえばいいものを。けれどここで踵を返したら後々この友人が得体のしれない何かになってしまいそうな気がして、ええいままよ、と半ばヤケクソになって車を降りた。
立ち入り禁止って書いてあるけど、と恐る恐るそう言ったら、ああそれは俺が立てたんだ、と男が言うので、それで少しホッとしたような余計に怖いような気分になっている。

男の背中を追って数分も歩かないうちに、ぱっと開けた空き地に出た。
小高い丘、と男が称したその場所はちょうど江戸が一望できるようになっていた。煌々とそびえるターミナルを中心に、まるで星空を上から眺めるかのようなきらめきが散っている。
百万両の夜景と言ってもいいほどの街の明かりを、大きな菩提樹と墓とも呼べぬ幾つもの石が見つめていた。

「・・・・・墓?」
「ああ。このへんの山が出るとかウワサがあるだろう。ああいうウワサは大体昔合戦場だったとか処刑場だったりするところに立つものだ」

「ここはそう昔の話でもない、・・・攘夷戦争で散った何人もの同士を葬った場所だ」

江戸にほど近い各所でも、当時は戦火の上がったことがある。既に天人に逆らえなくなっていた幕府の軍がこの近くでも大勢の攘夷浪士を討伐したと、そういえば当時の職場で話にだけは聞いていた。
ふと気づいて男を見るのに、暗くてその表情がよく見えない。墓だというのに男は花を手向けることも手を合わせて祈ることもしないまま、ただ石と街とを交互に見やる。その背中は相変わらず芯の通った男のものだったが、今夜は少しだけ小柄に見えた。

「・・・・・・心が迷うと、つい此処に足が向く」

石の前に膝を折って、男は眼下の眠らない街を静かに見下ろしている。
忘れていたが、この男は攘夷戦争を未だに戦っているのだ。散っていった命もこれから散り行くかもしれない命も、一手に抱えている攘夷の頭目なのだった。
男はそれぎり何も語ることなく、冷たい石に寄り添うようにして、一晩じゅうじっと街を見つめていた。
何を考えているのかは知れない。その石の向こうに何を語りかけているのかも知れない。その目の奥に何が映っているのかも何一つ分け合えるものはない。
けれど一緒になって眺めていたら、過ぎた時代に一人で取り残されたようなその寂しい背中を叩く資格がもらえるだろうかとそう思って、街の明かりが沈んでゆくのをずっと無言で見つめていた。




暗い夜の底は段々水深を浅くしてきたようで、東の空からクリームを溶かし込むようにゆるりと色が柔らかくなってくる。
朝露をたっぷり含ませた雑草が夜明けの空気を作るのに、男はやっと折っていた膝を上げた。
ひんやりとした、水っぽい朝の匂いが鼻を通っていく。隣で芝生をはたく男の膝もじわりと濡れているだろう。
見られたくない顔を隠した夜の帳を開けて、視線を上げた男の表情はいつもと同じ顔だった。もう見慣れたまっすぐな目をした、付いていきたくなる背筋の男だ。
この夜のことはきっと誰にも洩らすまい。無言で夜の街を見つめていた一晩が、党首から生身の青年へ戻る時間だ。そして歴史はきっとこの歳若い党首を求めている。
男は一度だけ石に目を落として、その後は決して振り向くことなくこちらへやってきた。

「さて、行くか長谷川さん。随分待たせてすまなかったな」
「まァいいさ、そのぶんメーター回してくれるし」
「それはどうかな」
「・・・イヤやらねーよ?メーター切って送り届けなんてしないからね」
「冗談だ。・・・それじゃ江戸の街まで、」














【日本の夜明けに間に合うように行ってくれ】



「そりゃァ急ぎだねお客さん」




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