ずっと秘密の恋をしている。



【スピーク・ロウも叶わない】



煙草の煙が古い硝子のシェードに吸い込まれてゆく。
年季ばかり入って角の欠けたテーブルは、くすんで色の剥げかかったワイン色のソファと老夫婦のように添っていた。
口数の少ない店主が薄いコーヒーを置いていく。
くるくると湯気が立ち昇るのをまた上のシェードが吸い込んでいき、どこか懐かしいグリーンやオレンジの安っぽいガラスがふらふらと揺れた。
煙草の吸える喫茶店は、最近ではそう多くない。


日曜の夕方は、秘密の恋人を待っている。
恋人、というのも他愛のないもので、窓の外を通りがかるある女の姿を見るのを待っている。
ちらり、と一度だけ目が会う。それが俺にとっての合図だった。
いつかその女は厳しい家の一人娘で、喧騒から逃れるこの店で僅かの逢瀬を楽しんだ。
またある時は奔放な商売女で、首に絡む白い腕と婀娜な唇を存分愛した。
空想に耽るのはたいがい女の表情と着物の柄を見てからで、あの女が何度、ドラマと共にこの店のベルをカランと鳴らしてドアを開けたか知れない。
まあ、そんな具合で、日曜の夕方は秘密の恋人を待っていた。


いびつな線の残る薄い硝子窓の向こうで、すうと雪が真っすぐに降りてくる。
風が無いのだろう。雪の密度も軽いのか。しんしんと音もなく降りてくる大ぶりのそれは足音を決してたてないように、窓硝子の向こうをしんしんと覆ってしまう。
クラシックもジャズもブルースも、まったく世界は静かになってしまった。
硝子窓に映るコーヒーの湯気が忙しなく見える。いま外は子守唄のようなスローモーションに満ちている。
そうして日常のリズムなぞ役に立たなくなったとき、あの女は現れる。

(・・・・来た)

クリイムの混じった柔らかな白地に、洋紅色のカトレアが散っている。濃い目のくすんだ藤色の帯に柳色の帯締めと半襟が少女のようだ。けれど弁柄色の羽織と水浅葱のストールにちらりと婀娜気が遊んでいる。
背筋の伸びた静かな足取りは時の歩みの狂ったような世界の中でも何故だか妙に調和して、綿毛のような牡丹雪もぬばたまの髪に華を添えていた。女にしては上背が高く、体格も良い。そこに気丈な色気が見えてくらりとした。右肩に流した長い絹の黒髪は・・・、あれに触れたらシルクやベルベットなぞ鼻で笑ってしまうようになるだろう。蔵に仕舞い込まれていたアンティークのカップのような柔らかい白の首筋、いくぶんくっきり描かれた紅は女の纏うものにしては品がなく、すぐにでも唇を合わせて色を落としてやりたかった。
今日の女は一度別れた恋人だった。俺の元を離れて自由に強かに男を弄んできた女。けれど今、ちらと合った意思の強そうな瞳に、甘やかな記憶がよみがえる。
その水蜜をもう一度共にしようとして、女はこのドアを開けるのだ。カラン、と懐かしい音をさせて―――

カラン、、

窓の外は雪綿毛の幕をすうと引いてゆき、瞬きもせぬ間と思ったのにもうグレーのカーテンで世界を眠らせてしまった。ひとり歩いてきた女の姿も既に無く、ぼやりとほの明るい室内でこうして頬杖をついていながら、俺は夜更かしをしている幼な子のような気持ちで窓を見ている。
空想の女は、じきにこの窓ガラスに先の着物を映し、俺の名を呼んで、

「おい、相席をしても?」

溶け込むような低い声が耳の傍を流れて慌てて顔を向けた。夢の女の瞳は傍で見ると存外目尻の下がった優しい目だ。寒さで色を失った指が古いテーブルにかかっていて、その手を取って暖めてやりたいと思う。あのドアの開いた音は空耳では無かった、とろけるようなうつつが流れこんできて、思い描いたシナリオなぞとうにどこかへ行ってしまった。
秘密の恋人に、俺は初めて話しかける。

「ああ」

一言呟くと女はするりと古いソファに腰かけた。
相席、と女は言ったが、煙草臭い時代遅れの店の中に、客なぞぽつりとしかいない。つまりは、そういうことなのだ。
寡黙な主人がやってきて、琥珀色のグラスに水を注いで置いていく。それに熱い茶を頼む、と言付けて、女は主人を下がらせた。
間近で見る女の姿は夢の恋人よりも美しかった。ああ目を、その真冬の朝に頼みにする炭のような、ぱちぱちと意思を光らせる目を、俺は見くびっていたんだなと惚れ直した。

急に降ってきおって、傘も無いものを。

女が誰にともなく呟いてストールの水滴を払った。弁柄色の羽織と首筋が露になってぞくりとする。女は肩の羽織の皺をついと寄せた。そして今までまるで一人でいるようにしていたくせに、やおら俺に視線を合わせると、ワインレッドの紅を纏った口角をくいと上げた。

「毎回随分不躾に見てくれるな。何か用か?」

その口紅似合ってないぜと言ってやりたい。どこもかしこも上品な線を描く女のなかでそれだけが俺の気にくわない。
その下の色を知っている。折角綺麗な桜色をしているのに、何故塗りつぶしてしまうのか。もう少し会話が進めば、じゃァどうだ、俺が色を選んでやるよと言って肩を抱いて店を出るところだ。

「あァ、テメェをどうしてくれようかと考えちまうんでね」

黒の隊服を羽織ると、女は眉を寄せて少し嫌そうな顔をした。女は笑顔が一等というが、この女に限っては不快に歪める顔さえ並の女の笑う顔よりそそる。
女は眉を寄せていたが、そのうちそのままニヤリと笑った。さら、と黒の髪が落ちるのを見られぬように見る。目で追いながら、あれをめちゃくちゃにかき抱いてやりたい衝動に駆られている。

「そのくせ結局見ているだけか。情けない男だな」

女のチープな挑発に今乗ったとしても、その口紅を無理矢理落としてひっぱたかれるのが関の山だとわかっている。
どうせ頬に紅葉を作るなら、似合わない口紅を舐め取るよりもその滑らかな雪飴を含みたい。
柳色の半襟に黒絹の糸が掛かった。ああそこ、そこがいい。

カタンと席を立ったとき、灰皿の上の煙草が転げた。チャリ、とコーヒー一杯分の小銭をテーブルに置いてその場を離れると見せて、く、と顎を傾けて俺を見上げた女の、そのがら空きの白い根雪に顔をうずめて紅い椿を一輪咲かせる。
その鶴首に他の男の影は無い。それに安堵の息を裡でついて、女の―――女にしては喉のつくりが自分に似ている―――男の、首に残した雪上の足跡にもう一度唇を落とした。

「いいやじきに、」


俺は、



「じきにこの首に縄をかけるぜ、桂」



ずっと秘密の恋をしている。











「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -