端典の白の対。





水に浸した半紙に、墨を一滴零したような。
風で傾く菅笠を調えて、顔を上げた先の空がそんな色をしていた。

足をとられぬよう用心しながら、朝方の雪道を歩いている。
手負いの仲間はみな逃がした。攘夷の再起を図るため、まずは江戸に向かわねばならぬ。
今日明日の山越えが済めば気候的には大分楽になるだろう。
ぴしりと冷たい風が頬を打って、思わず目を伏せた。

雪を被った川べりは風が冷たい。伏せた顔にびゅうと叩きつけるたび口元がこわばって、頬の感覚が奪われた。
話し相手のないのは幸か不幸か。恐らく上手く呂律も回らぬだろうと思い、このままではいずれ言葉を忘れそうだとぞっとした。

首筋を雪女の白い手が撫でてゆく。絡みついたそこから一切の熱を奪われそうで、結っていた髪を解いて首をすっかり覆ってしまった。暑ければ結い、寒ければ解く。女子のようだと揶揄される長い髪も、様々な環境を生きるために損は無かった。

(しかし山越えには、嫌な季節だ)

隣には添うように川が流れている。渡る気など起きぬほどには幅もある。
雪催いの曇天の下で緑青のような色をした川がうねるのが、墨絵のような景色の中でそこだけ異形だった。
積もる雪が一切の音を吸い込む中で、川音だけが奇妙なほど響いている。川の傍には良くないモノが棲むというが、なるほど、ゴウゴウと絶え間なく空気を飲み込む川音は不甲斐無い己への怨嗟の声に聞こえた。
少しでも気を弱くすると引いていかれる。
眉を寄せて歩むことに専念した。あまり川に近づくと雪を被った枯れ木に足をとられるので、それも危ないのだ。先日知らずに足を落として、這い上がるのに存外難儀したことを思い出す。
キュッ、と藁の深靴の音を頼みに足を進めた。

(霧が晴れたな)

もう随分歩いただろうか。ようよう川から離れ、人里を辿る。
刈り取った後の田の上に雪がまだらな模様を描いている。枯れ木と土と雪ばかりの畦道はひどく殺風景だった。ぽつりと一つ佇む民家の、軒先の渋柿が唯一の挿し色になっている。
雪おろしをしていた亭主に尋ねた限りでは、道は違っていないらしい。胡麻塩頭に手ぬぐいを巻いて、藍の半纏を羽織った気のよい亭主は弱った攘夷浪士に優しかった。粥を馳走になり、乾米と蓑を貰い、礼を言って家を離れると、軒先の雀がぱっと散った。

眼前の山々は雪化粧をしてさえどこか暗い影を落としている。谷からは靄が立ち昇り、まるで雲を生んでいるようだった。水墨画の中に迷い込んだような錯覚さえ覚える。
この山を今から行くのだ。雪の降らないうちに早く進めておくのがよい。
足を急がせると上空では風が強く吹いているようで、流された雲が厚く薄く、日の光と勢力争いをしている。ちかちかと忙しなく、目を悪くしそうだ、と思う。
少し歩くと雲が流れ、切れ目から束の間光が射した。

あれを天使の階段、というのだとは誰が教えてくれたのだったか。
銀時だ、と思う。しかしそれをいつ聞いたのか思い出せない。
あれを指さしていつか銀時が言ったのだろうか。そう思うと今後ろに世界で一番頼りにしていた者の足取りがあるようで、だからこそ振り向くのを躊躇った。
白金を散りばめた光の筋は眺めるそばからすぐに閉じた。それならば今日あれを昇る人の魂も多くはあるまい。ましてやあの男が昇ることなど。そのことに少し安堵した。

山に近づくにつれまた風が出てきた。森の中は木々に覆われているとはいえ、合間を縫って鋭い風がチッチッと頬をなぶってゆく。
晴れがよい。雪もまあよい。しかし風が吹くと途端に体温と気力を奪われるのでこれは歓迎しかねる。
ピュゥと甲高い声で風が鳴くのと、蓑がざわざわと音を立てるのを耳元で聞いていた。


お前は行くの。


ぶわりと一陣大きく風が啼いて、降ったばかりの雪の上澄みを舞い上げた。
目に冷たい感覚が飛び込んできたので思わずつむると、耳に懐かしい声が届いた気がした。

「銀時?」

振り向くと風に煽られた枝が雪をどさりと落とすところで、その音を最後に森は静寂に満ちた。
黒々とした木々は静かに眠っているようで、音という音は枯れ木を覆う白い花に吸い込まれていく。
足跡は一人分だった。
慌てて顔を戻しても、足跡は増えない。振り向いてしまったら、異界に住む愛しいものは今度こそ返らないと分かっている。

(心が弱っているらしい。お前の空耳を聞くなどと)

傍を離れなかった半身が、もがれたまま一人歩いているのだから。
寂しいのかと聞かれれば、首を振るのは嘘になる。もし行く先で雪女があれの幻影を見せたなら、己は付いていってしまうのではないか。そうして凍えて死んでゆくのはまさに己の心象風景を的確に映していて、今は笑うに笑えない。

それでもその半身が去ったとき、あれを追うことはしなかった。
己の理念そのひとつが、見も世も無くあれを追うことを選ばせなかった。あの時、己は確かにひとつ選択をしたのだ。



俺が夢から覚めた後でも、お前は行くの。




「往くよ。」



その道、修羅に通ずとも ―――



背後でどさりとまた音がした。今度はこれをただの雪だと知っていた。













再会前。



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