諾威の森の対。





朝の、ようやっと日の昇り始めた刻限だと思う。
桂と二人で雪の川べりを歩いている。
少し前を歩く桂は喋らない。それほど深くはないが、踏み固められていない柔い雪道に藁の深靴がキュッキュッと立てる音ばかり響いている。
視界は総じて霞がかっていて、それに朝日が溶けてほの赤いモヤが取り巻いていた。

いつの話だろう、と思う。
己が前線を離れたのは雪のころではなかった。
まだ仲間がいただろうかと思って振り返っても、足跡がよっつ続いているばかりである。
いくさの頃に桂と二人だけで雪山を歩いた記憶は、ない。

傍を大きな川が流れている。
川縁にかかる痩せた木々が、枝にぼてりと雪を乗せて重そうにしている。時折、朝日が当たって、しばらくすると雪が枝から落ちていく。音もなく下の川に吸い込まれていった。
孔雀の羽を汚したような青丹色の川は、白い背景に切り取られてそこだけぽかりと異質だ。
時々思い出したようにゴゥ、と鳴いては諾々と流れてゆく。
見ていると絡めとられそうで怖い、と思った。


銀時、あまり川の傍へ寄るなよ。


不意に桂が振り向いて少し笑った。桂が目深にかぶった菅笠には「同行二人」と書かれていて訳がわからなくなる。己と桂は四国遍路でもするつもりなのか。けれど見慣れた桂のなりはいくさの頃のもので、そうであれば落ち武者のような己らに里人が寄越してくれたのかもしれなかった。


その傍の、そう、それだ。それを踏み抜くなよ。雪で隠れているが、その下は枯れ枝だ。うっかり足をとられると難儀するぞ。


目線の少し向こうに黒々とした枝を隠す白い覆いが歪な丘陵を描いている。
浅い藪が雪を被っただけだと思っていたが、どうやらこの先が坂になっているらしい。枯れ枝を踏みこんだ経験がないので、これに落ちるとどうなるのかは知らないが。
今まで人生の大半を共にしてきた幼馴染は、何故己の知らないことを了解しているのだろう。

桂はまたそれぎり喋らず、キュッキュッと深靴を鳴らして歩いている。
ゴゥと川が鳴くたびに何やら気味が悪くなって、度々桂の後姿を追った。
ヅラ、俺たちどこに行くの。
余程問いかけたかったが、それをしたら最後、桂はどろりとあの冷たい川の中に溶けてしまいそうで、結局カラカラに渇いた喉の奥はそのままにしておいた。

暫くそうして歩いた気がする。いつの間にか川を離れて今度は田んぼの畦道を歩いている。
もう昼ごろになったのだろうか。気がつけば霧が晴れていて、鈍色の曇天とはいえ少し天井が高くなったような気がした。
銀時、とまた桂が不意に呟いて、今度はこちらに顔を向けないまますうと腕を上げて視線の先を指さした。


あの山を越えてゆくのだ。


つられて桂の指の先を見る。ぎりぎりまで覆われているがそれでも露になっている指先を痛そうだ、と思う。先が赤くなっている。
桂が示した先に黒く影を落とした山が連なっていた。谷がモヤを噴出してまるで湯気のようだった。温泉のようで温かそうだと思ったが、期待が外れるだろうことは既にわかっている。
ともかくその所為で上のほうがよく見えない。「あの山」はひとつなのか、まだその向こうに続いているのか。


あれを越えるの。

そうだ。急ぐぞ銀時。


地図を取り出して確認することさえしないまま、桂は黙って歩き続けた。
時々流れていく雲が薄くなって、空が明るくなったり暗くなったりする。
明るくなると雪が眩しくなったので、その間はずっと桂の黒い髪とぼろの装束を眺めていた。
桂はこの道の先を知っているのだろうか。己は桂と二人でゆけるのか。
二人でゆけるのか。桂。
また空が明るくなって、桂の背中に目を向けると、視界の端で雲間に光が射すのが見えた。


ヅラ、見てみ、アレ、

うん?

あの雲の間から光が線みたく射すの、「天使の階段」っていうんだってよ

そうなのか、綺麗だ。よく言ったものだな。


いつか誰かから聞いた、もう聞かせてくれた人の名前も思い出せないような話を、何故か今それだけ桂に聞かせたくなった。
異国の神の使いだけど、と知ったら桂は嫌がるだろうか。いや、そういう手合いではない。
雪が光を反射して常より明るい背景に、桂が静かに笑んだ横顔が眩しく映る。


あれならば、皆も迷うまいよ。


光を見上げる桂の瞳には大きな疲れと安堵が浮かんでいる。桂は光が射す間じゅうずっとそれを眺めていた。
そのうち雲がすっかり閉じてしまうと、今度は最初から何も見ていなかったように、また視線を前に戻して黙々と歩みを続けた。
隣では落ちたモミを探しているのか、雪交じりの田んぼをカラスの群れが啄ばんでいる。
人が傍を歩いても退こうとしないカラスは大人しくモミを探し、偶に羽根を震わせた。
その白と黒の対照が妙にくっきりと艶めかしく、前を歩く桂が菅笠と藁の深靴を付けていたことに安堵する。こんなときまで何なの、と少し照れた。





夢はそこで終わっている。
目が覚めると暗い部屋のソファの上で、薄い毛布にくるまって震えていた。
足が氷のように冷たくて感覚が無い。熱い風呂でも入りに行こうと身体をぎしぎしと何とか起こすと、窓の向こうでちらちらと雪が舞っていた。江戸の雪は、ああは積もるでもなかろうが。
目を伏せると、奥で夢の中に置いていった後姿が目に浮かぶ。
前を歩いていた桂は己がいなくなったことに気づくだろうか。もう一度目を閉じたが、桂の傍には戻れなかった。



俺が夢から覚めた後でも、お前は行くの。



桂が指さした、終わりの見えない暗い山を思い出す。
菅笠に書かれた「同行二人」の文字だけが頼みだった。













再会前。



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