【もしもあなたが、】




ばふん!!どっかん!!

「かーつらァァアアア!!!」

視界の彼方を男がかけてゆく。ただひたとそれだけ見据えて追ってゆくのに、一向に距離が埋まるようなことがない。
左足が治って初めて出た巡察で見かけられたのはラッキーなのか。動きたくてうずうずしていた両足は、距離を保ちつつもまだまだ軽やかに男を追っていく。
たん、たんと男がかけてゆく。さらりとその度に揺れる黒髪はまるで男の意思のとおりに揺れているように、あるいは、駆けてゆく主人の美しさを見せ付けてこちらに自慢している風にも見えた。
長い髪も、踏み込むたびにちらりと見え隠れする白い足首も、果ては夜風を纏うような藍の羽織さえ、どうだ、俺の主人は、美しいだろう?と挑発するように目の前をひらひら飛んでゆく。
どかんどかん、とバズーカを鳴らして、それを追う。
ああキレイだなァ、だからちょっと触らせてくれよ。まるで声のない会話をしている気分だ。
久しぶりに見かけたのは笹之雨の豆腐屋から出てきたところだった。桂は江戸を縦断するようにフレキシブルに移動しまくり、2時間後には4人いた巡察の隊士たちは自分ひとりになっている。

(アイツらもっと体力つけねーと)

身内が情けない反面、この時間になってくると1対1になる鬼ごっこが待ち遠しい。桂はちらり、ちらりと追いかけてくる自分を確認しながらひょいひょいと屋根を越えてゆく。
本当に撒きたいと思ったら数分で桂は姿を消す。裏路地にするりと入り込んだり、住宅地に紛れ込んだり、パラシュートや軽トラで鮮やかなパフォーマンスを見せ付けていくこともあった。
こうして自分に何時間も追わせる時は、大体裏で動きがあるのを見せたくないときか、あとはただ単に運動したい気分のときだ。今回は多分後者なんだろう、桂は芝浦の湾に向かっているようだった。

「おにーさーん、何だィ俺と海岸デートしたいならそう言いましょーや」
「誰が芋侍なぞ相手にするか。俺と海岸デートしたくば80年代かふぇみゅーじっくをバックに赤いオープンカーで走ってこい」
「アンタ昨日の水曜ロードショー見てたろィ」
「うむ。ルパンシリーズのチェックはぬかりない」

桂の声はそう叫んでいるようでもないのに、風に乗ってよく届く。自分の呼びかけに桂の声が返ってくるのにぞくぞくした。何故って屋根から落ちたあの日以来、桂の声は耳に届いてこないので。
江戸町1丁目のクレーンゲームは結局あの後すぐに入れ替えがあった。御箪笥町の辻の地蔵は頭にあった手ぬぐいがリボンのように首に巻きかえられていた。かぶき町のボス猫はこの間東光寺で若い猫をノしていたし、桜田で潰したはずの雪だるまは、この間同じものを千代田の蕎麦屋の前で見た。
まだこんな話が江戸中に転がっている。それを早く話したいと思うのに、覚えてしまった電話番号ではもう彼には繋がらないという。警察としての職務と言わずとも、一言捕まえて恨み言を吐いてやりたい。

(ああ、キレイだ)

潮風の濃い港町の、民家の低い屋根の上を桂は駆けてゆく。
目の前は少し碧がかった青い水平線と雲ひとつない晴天ばかり。もう数時間も軽やかに跳ね飛ぶ足取りは、海を泳ぐか空を飛ぶかのように見えた。
にゃあにゃあ、と近くでカモメの声がする。桂は港町をくるりと軽く一周すると、三田の寺院群に滑り込んだ。
そろそろ撒くつもりなのだろう。平坦な民家の屋根を離れて勾配のある寺の屋根に乗りあがった。
寺院というのはやりづらい。坊主はいちいち五月蝿いし、屋根も滑って追いかけにくい。

「こんな所で撒かれちゃ帰り道が寂しくっていけねーや。一緒に来てくだせェよ、ナニちょっと屯所まででいいんで」
「ふん。行きはよいよい帰りはこわい、とはよく言うが」

桂は同じ屋根の端と端まで来たところで不意に立ち止まり、くるりとこちらに振り向いた。
あれだけ走ってきたというのに、髪はほとんど乱れない。「運動」をして血行の良くなった頬は常よりもいくぶん紅潮して、タレ目の癖に気の強そうな視線は無遠慮に突き刺さった。すらりとした立ち姿は屋根よりも本堂の奥にいるほうがいっそ似合っている気がする。
突っ込んでいったら刀が出るか。距離を慎重に詰めながら鞘に手をかける。が、桂のほうは一向に刀に手をかける気配なく、腕一本分ほどの距離まで近づくことを許し、

「その健脚ならば大事あるまいよ。憎らしいことだ」

ふっ、と息遣いさえわかる距離で一度囁いて、苦笑ともとれる微笑みを一度した。
ブロロ、と軽トラのエンジンがかかる音がする。
一瞬硬直した自分をそれ以上一切構うことなく、桂は滑り台にでも遊ぶようにつーっと黒光りする屋根を滑っていった。そして躊躇いもなく高い屋根から飛び降りる。

(しまった、)

下ではあの白い桂のペットが待ち構えていて、桂が荷台に降りたことを確認すると急発進で出ていった。
こんなところまで走らせてきたのはアイツがここにいたからか。あるいは、もしかしたら負傷した左足の具合をみていたのかと期待するのは自惚れか。
眼下を猛スピードでぐんぐん遠ざかっていく白い軽トラを見送った。まだ弾んだ呼吸のまま、すとんと屋根の上に座り込む。少し視点が下がるともう桂を載せた車は見えなくなって、そのまま上を見上げたら、やはり雲ひとつない青空が広がっていた。


***



「おう総悟、おかえり!桂は・・・ダメだったか」

結局一人歩きをさせられて、面倒くさかったので白黒のタクシーを呼んだが、屯所に戻ると目の前を皿を回収しに来た出前のバイクが去っていった。
詰め所を覗くと後ろから声がかかる。振り向くと近藤さんが、今日昼飯蕎麦にしたんだけど、とちょっと困ったような顔で頭をかいていた。

「遅かったからさー、一応ざるそば残ってるけど・・・多分もう乾いちゃってんじゃないかなあ」
「あー構いやせん、どーせ味の良し悪しなんざよく分からねェんで」
「イヤ味っていうか」

さっきのは蕎麦屋の出前だったか。近藤さんが持ってきてくれたカピカピ一歩手前のざるそばをツユを頼みにすする。器に刻まれていた店名は、いつぞや間違えて桂にかかった電話のモトの蕎麦屋だった。
さっきのバイトはコレ回収するためだけにもっかい来るのか。カワイソウに。

「お前蕎麦好きじゃなかったっけ。なんか・・・ホラ、蕎麦屋の親父と仲良かったじゃん」
「別に蕎麦が好きで知り合った訳じゃなかったんで、俺ァ味はどーでも」
「そうなの?そういえば最近、でっ電話・・・しなくなったしさぁ」
「あァ、」

桂の家にひとつ残されていたという黒電話を思い出す。
もう繋がらないことの証拠のそれは結局見に行く気がしない。初めて声の聞こえたあの間違った番号を机の引き出しに仕舞い込んで、そのくせあれ以来出前だ何だと電話をかける用事は俺の仕事になった。
今日久々に聞こえてきた声にもう随分懐かしいような気持ちになって、囁いた吐息が記憶のままだったことが堪らない。

「店ェたたんじまったんで」



認める訳にはいかなかったが、一丁前に惚れていたのだ。
いつかもう一度、奇妙な電話が繋がったら。話したいことは山とあって、電話越しでないと言えないことばかり、けれど放っておくとそのまま言ってしまいそうで、今はそれが怖い。























リーン・・・
『はい桂です』
「あァようやく出やがった、やっぱり寝る前にアンタの声が聞こえねーと眠れなくっていけねーや」








お付き合いありがとうございました!



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