もう一度 | ナノ


あの日抱いた絶望は


12月に金井総合病院に入院し、一か月が経過した。医師には、身体がだんだんと動かなくなっていく難病だと診断された。確実に治る方法はまだ見つかっていないらしい。それでも俺は、僅かな希望にかけ、出来る限りの事をした。
俺は、王者立海大テニス部の部長だ。こんなところで、立ち止まってなど居られる訳がない。何度も、言い聞かせては

『俺からテニスを取ったら、何も残らない。テニスは、俺自身さ』

そう言って、必ずテニス部に帰ると、副部長の真田に約束したあの日を思い返していた。彼は俺の言葉に頷いてくれ、俺の帰りを無敗で待つと言ってくれた。

そして今、真田は約束通り、血の滲むようなきついメニューをこなして、仲間を引っ張り、全国三連覇へと頑張っている。悔しいが、俺が闘うべき相手はこの病であり、テニスではない。そうは分かっていても、焦りと不安ばかりが先行し、苦悩と絶望の日々が続いた。

そんなとき、一人になりたいと思い、屋上にのぼった。扉を開けると、ベンチに座る一人の少女が視界に映った。患者用の服を着ているから、おそらく、この病院に泊まっている患者なんだろう。彼女は、ただ空の一点を真っすぐに見つめていた。何故だか、哀しそうな表情で…。

「隣、良いかな?」

控えめにそう言ってみたけれど、彼女は気付いていないのか。全く反応しなかった。俺は、もう少しだけ近づいて、同じ言葉を繰り返した。けれど、やはり彼女の瞳は、青い空を仰ぐだけ。
さすがの俺も不審に思った。完全に無視しているというより、まるで俺の声が聞こえていないような態度だ。

(いや、まさか……)

俺は、彼女とその視線の先を交互にみて、考えた。此処は病院だし、俺のような患者が入院するくらいだから耳が聞こえない人間がいてもおかしくない。

「……っ、!」

ふと彼女が此方を向き、息を呑んだ。かなり驚かせてしまったらしい。目が合った瞬間に大きく目を開かせた彼女は、急に後ずさったせいで、ベンチの角に足をぶつけてバランスを崩した。慌てて彼女を支えようと手を伸ばすも、払われてしまい、彼女は俺の手を振り払った反動で更にバランスを崩して、コンクリートに身体を打った。
その時、反射的に彼女が腕を、特に指辺りを庇って倒れ込んだのを見た。

しかし今はそんなことを気にしている余裕などない。幸い、流血はしていないようだが、もしかすると打撲などがあるかもしれない。これでも運動部の部長だったから、それくらいの対応は出来る。彼女の前にしゃがみこんで、なるべく優しげに、ゆっくりと様子を聞いた。

「大丈夫?あの、」

「……ないで」

「え?」

「…触ら、ないで」

「あ、うん。ごめん。看護師さん、呼んでくるよ」

瞳を伏せたままの彼女の声は、僅かに震えていた。
耳が聞こえないのかもしれないが、確かめようもない。俺は、しょうがなく引き下がり、看護師を呼びに屋上の扉へ向かって歩き出した。

「幸村くん?」

「堺さん!あの、女の子がさっき、床に身体をぶつけてしまって…」

途中、扉に辿り着く前に、見知った看護師の堺さんが現れた。堺さんは、俺が指差した先を見て、慌てて彼女に駆け寄った。
俺は、そのまま扉に向かって歩み進めた。しかし、その後、背後からは会話は全く聞こえてこなかった。気になって、ちらりと振り返った時に、堺さんが筆談で対応しているのが見えた。

(やっばり、耳が聞こえなかったんだ…)

瞬時に後悔が俺を襲った。申し訳ないことをしたと思った。耳が聞こえない人間にどう対応すれば良いかも分からないのだから、彼女が耳が聞こえないのかもしれないと思った時点で引けば良かったのに。
はあ、とため息をついて、屋上を出た。今まで、病院に来てから病人だと思い知らさる度に嫌な思いをしてきたが、今日ほど自分自身にショックを覚えたのは久しぶりだ。
気を取り直すべく、詩集でも読もうと自室に戻ろうと思った時に、真田に会った。たぶん、これから俺の部屋に行くところだったんだろう。

「やあ、真田」

「幸村…、検査か?」

「いや、ちょっと風に当たりたくてね」

「そうか」

予想通り、無言の了解で俺の病室へと足を進める俺たち。途中、此処に来てから仲良くなった子供達とも少しだけ話をしたりした。
後から他のメンバーも来るかもしれない。俺は、申し訳なさと嬉しさとで胸が痛かった。

そして、漸く部屋に入ろうとした、その時だ。

「幸村くん!」

堺さんの声がした。振り向けば、先ほどの少女と堺さんの姿があった。彼女は、ゆっくりと俺の近づいてきて、すっと息を吸ってからそう言った。

「さっきは、ごめんなさい」

それから彼女は、ばつが悪そうに頭を下げてきたけれど、俺はそれを制して、斜め前にいた堺さんに差し出されたペンと紙を借りて、[気にしなくて良いよ。俺の方こそごめん]と書いた。

彼女はあの空を見つめていた時の真っ直ぐな瞳で俺を見て、「ありがとう」と言った。正面から見た彼女の顔は、やはりどこか哀しげでモノクロな写真のような哀愁さが漂っている気がした。
とりあえず、俺と彼女が和解したらしい一連の過程を見た堺さんは彼女を誘導し、俺たちにも軽く挨拶をして立ち去った。


その後、きちんと堺さん等から彼女の話を聞いたのは、翌日だった。発熱により、聴覚を奪われた事。そして、病気になるまで、彼女は一目おかれたバイオリニストの卵であった事まで。

−テニスは俺自身。
−俺からテニスを取ったら、何も残らない。

真田に言った、自分の言葉を思い返す。彼女にとって、テニスはバイオリンに代わる。ならば、彼女は今、その手に何を掴んでいるのか…。いや、きっと何もない。だから、あんな瞳をしていたんだ。

俺は、自分に訪れる絶望の予兆のようなものを感じた。彼女と俺は、今も昔も、歩んできた道が酷く似ている。ただ違うのは、速度だけ。
だから、興味を引かれた。自分から逃げてはいけないから、同じような苦しみと闘う人からも逃げてはいけないと思った。彼女−名字さん−は、最初こそ無愛想だったけれど、俺の病や立海テニス部の話には興味を示してくれて、少しずつ心を開いてくれるようになった。お互いに牽かれていくのは必然であるかのように自然で、それまで日本に来て誰にも心を開かなかったという彼女が半ば嘘のように感じられた。



そうして彼女と知り合ってから、2ヶ月ほど経った頃だろうか。彼女が、自分と全く同じ病で、尚且つ手術に失敗し、そのせいで発熱を起こして自らの夢や心を閉ざさなければいけなくなったのだという、過酷な事情を知ったのは。

それまでの俺は、正直、自分だけが不幸だとばかり思っていた。神は何故、俺だけにこんな仕打ちをするのかと。そして、世界を恨み、自分の不運さを呪った。しかし、それは間違っていたのだと気付いた。

「幸村くん、私の分も頑張って」

涙ながらに言われた彼女の言葉に胸が打たれた。俺は、まだやれるはずだ。全国へ必ず帰るという意気込みを揺るがせてはいけない。
お互いに絶望の淵を見たからこそ、励まし合い、支えあえた俺たちは、いつしか親友のような関係になっていた。彼女は相変わらず、寂しげな表情で遠くを見つめる事が、良くあった。
ある日。俺は、ただ何となく、気になって聞いてみた。

[いつも、何を見てるの?]

と。その時、彼女はこう答えた。

[アメリカにいる、もう一人の親友…、かな。日本に来たときから、私が連絡切っちゃったけどね]

その横顔はいつもよりも更に寂しげで、俺は、その親友とどうにか彼女を会わせられないかと考えた。俺には、立海のテニス部の仲間や全国で競いあったライバルたちが俺を待っている。けれど、元々アメリカにいた彼女は俺ぐらいしか日本に知り合いがいない。 その親友とてアメリカにはいるが、親友と云うぐらいだから、きっと彼女の事を知ったら会いに来るに違いないと思った。


しかし、彼女と親友との再会は、俺の予想を超えた範囲で展開し、更なる渦を巻き起こすことになったのだ。



「あの日抱いた絶望は」

言葉にできないほど、重くて。


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