第四十羽 通信断絶
走り去っていく翼の後姿がとても遠く感じた。
「翼! ねぇ、ちょっと待ってよ!」
いくら叫んでも翼は立ち止まることなく、私との距離を離していく。
三階に下りたところで、彗は遂にその姿を見失ってしまった。
四方八方見回しても、翼の姿は見当たらず、肩で息をしている彗だけがその場で立ち尽くしていた。
「翼・・・ 一体どうしちゃったの?」
似た状況に遭遇したことがある。
翼と初めて会った日。そう、翼のぬいぐるみを生徒会室に届けたあの日。
あの時は、翼は私を完全に警戒していて、ぬいぐるみを届けに行ったのに取り合ってももらえなかった。
あの日から数ヶ月。兄のクラスメイトということも手伝って知り合いになり、私の初恋の人だと判明した。
結構仲良くなったと思っていたのに、理由がわからないまま手のひらを返されるように拒絶されるなんて納得がいかない。
生徒会室で見せた、翼の悲しそうな表情が目に浮かんだ。
どうしてそんな表情をするの? ねぇ、何かあったなら話してよ。
翼と話がしたい。
ポケットを探り、携帯で翼の番号を呼び出すも、着信拒否されていて繋がらない。
メールを何通送っても、翼からのメールが画面に映ることは無かった。
気がつくと1年天文科の教室まで来ていた。誰もいない教室の、自分の席へ目を向けると
椅子に見覚えのあるピンク色の人形が置いてあった。
翼のくまったくんだ。
「・・・どうしてここに」
いつも翼の実験につき合わされているため、多少汚れやほつれがみられるくまの人形。
翼がいつも持ち歩いていた相棒だ。
翼が、生徒会室や宇宙科の教室に忘れることはあっても、天文科の教室に忘れることはまず無い。
「翼、ここに寄ったんだね」
くまったくんを私の席に置いていった翼の真意はわからない。
ただ、大切な相棒を私に預けたということは、まだ望みはあると自惚れてもいいだろうか。
私だったら、嫌いな相手に、宝物を預けるなんてことはしない。
鞄を背負い、くまったくんを抱き上げる。夕日に照らされたくまったくんを見ていたら、
急に胸が締め付けられて、たまらず両の腕でくまったくんを抱きしめた。
かすかに香る翼の匂いに、涙腺が緩む。零れ落ちそうになる涙を堪えて下唇を噛んだ。
胸の奥から深く息を吐き、涙をぬぐって、くまったくんを抱えながら寮への帰路を急いだ。
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「よし、今日の稽古はここまで!」
「「「ありがとうございました!!!」」」
宮地副部長の掛け声が部活動の終了を告げ、弓道部員たちは武具の片付けや帰り支度を始めた。
「今日も宮地は厳しかったな〜。俺、何回怒鳴られたかわかんないぜー」
「白鳥先輩は気を抜きすぎなんですよ。的を射る時くらい、集中したらどうですか?」
「なっ!俺はいつも集中してるぞ? ただ、今日は夜久の機嫌が良かったから見とれちゃっただけで・・・」
「それが射形に顕れているんですよ。宮地先輩はそういうところは見逃しませんからね」
「ちぇっ、いいじゃんかよ〜。夜久、かわいいんだもん」
「まぁ、先輩がかわいいのは僕も認めますが、稽古に支障をきたしては先輩にも失礼ですよ」
「へいへい、全く木ノ瀬も言うようになったよな〜」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねぇよ」
部活後のいつものやりとり。他愛も無い会話も悪くないと、最近思えるようになってきたのは
この先輩たちのおかげなのかもしれない。
一度辞めた弓道に引き戻してくれたのは、他でもない夜久先輩。
彼女の射形は、無色だった僕の世界に彩りを与えてくれた。囚われることを恐れていた僕に
全てに囚われて手に入れればいいことを教えてくれた。
意欲を無くしていた僕に高みを目指す楽しさを教えてくれたのは宮地先輩。
努力を積み重ね磨き上げた剛の弓は、僕の甘い考えを打ち砕いてくれた。
一人で何でもこなしてきた僕に、みんなでやり遂げる楽しさを教えてくれた弓道部の部員たち。
こんなに弓道が楽しいものだったなんて、思いもしなかった。
中学生の時、弓道を辞めるときに師匠に言われた執着という言葉。
「心の深さ、心を奪われ、それなくして生きていけない それほどの深さで対象に向かう心」
何かに囚われる事が嫌いな僕が、弓道に固執し囚われている。つまり、執着だ。
嫌いだったはずなのに、弓道に関しては心地よく感じている。
唯一、僕の思い通りにならなかった弓道。しかもその高みは天井知らずときている。
天井知らず?・・・面白いじゃないか。未踏の領域に、僕が最初に足を踏み入れてみせよう。
着替えを終えて、それぞれが道場から寮を目指して歩き出す。
片付け当番だった僕は、道場の片付けを終えて金久保部長に報告した後、皆より遅れて道場を出た。
空には夜の帳が降りかけて、明るい星が見え始めていた。
寮への道中、今日の出来事を頭の中で反芻する。
・・・確か幾つか課題が出ていた。寮に帰って少し片付けてから夕食にしようか。
そんなことを考えながら足を進めていると、僕が執着しかけている、もう一つの存在が目に入った。
彗だ。
こんな遅くに、しかも一人で何をしているのか。
前に僕が放った忠告は全く意味を成していないらしい。
兄の昴に見つかったら、叱られるのは目に見えているのがわからないのだろうか?
眉間にしわが寄る感覚を覚えながら、彼女の元へ駆け寄った。
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