気が付いたら、そう、何故かあたしは此処に居た。隣で心配そうにあたしを見る銀髪の人。 「貴方、誰?」 驚きよりもショックを受けた顔を一瞬だけして彼はあたしの頭を撫でた。名前は坂田銀時というらしい。かぶき町で万事屋を営み、そして訳有りであたしと一緒に暮らしているらしい。 “らしい” 他人事のようにしか聞けなくて、坂田さんが話をしてくれていてもあたしは空を見ていた。よくわからない。だけどあたしは記憶喪失らしく、彼の言う言葉に何度も頷くことしかできなかった。訳有りの部分を聞いてみたいがなんとなくそういった雰囲気でもないし、彼が嘘をついているような口振りや表情ではないから本当のことなんだろう。 ベッドの傍に掲げられたプレートにはあたしの名前が書かれていた。「名前」と呼ぶのかあたしは。記憶がない。あたしは空っぽだ。苦しい。でも何故だか涙は出なかった。 「名前」 ぽつりと呟く。坂田さんは「あ?」と意表を突いた台詞だったのか間抜けな声を出した。 「それがあたしの名前……なんですよね」 参ったな。1から全部忘れているんだよね。むしゃくしゃしてる。坂田さんは小さく息を吐いたあと「あァ」と返してくれた。あたしは窓と反対の方向に目線を移動して坂田さんを見る。どうか彼に映るあたしは笑って見えてるといい。彼があたしとどういう関係で一緒に住んでるかはまだわからないけれど、今はそれでもいいと思えた。 「お前の飯、取ってくるわ。あと電話もしなきゃいけねぇから」 「はい」 だけど、彼が居なくなったら、さっきの不安感がまた押し寄せてきた。これからどうしよう、とか、どうやって生きていけばいいんだろう、とか。住むところは坂田さんと同じところだから良いとして、どうやって生計を立てているんだろう。 そこで漸く気付いた。あたしは坂田さんの恋人なのだろうか?だってそうじゃなきゃ一緒に住んでるわけがないし、もしかしたら彼に養ってもらってたのかも。 例え恋人だとしても、あたしには彼の記憶は残っていない。……ひどいことをしてしまった。真っ白で空っぽな頭の中に、闇がじわじわ浸食していく。それと目頭が熱い。やだ、怖い。何もわからないことが怖い。 優しい涙 ――ガラ…… 扉の開く音に慌てて零れる何かを拭き取った。坂田さんの顔を見ないまま、また窓の外を見てなんとか気を紛らわせる。 「飯、持ってきたけど食えるか?」 「……ありがとうございます」 それが言うのが精一杯で、正直帰ってほしいと思った。でも心は反対に居てほしいと叫ぶ。 「……どうした?」 「……なんでもないですよ」 ああ、隠しきれない。この人は人の気持ちに敏感だ。吐き出そう、そう思って坂田さんの方を向くと途端にぬくもりに包まれる身体。 「坂田、さん」 「……俺に頼れよ。なんだって話も聞く」 じわり、闇に浸食された頭がゆっくりと真っ白になっていく。あたしは彼の着流しを握り締めて泣いた。 「坂田さん。……あたし、怖いです。記憶もなぁんにもなくて、名前すら覚えてない。まるでひとりぼっちになったような不安がぐるぐるしてる」 大丈夫、大丈夫だからと強く抱きしめてくれる坂田さんはあたしと一緒に泣いているように見えた。 101226 |