若村麓郎 からくり



真っ白の問題集と向き合って何分経っただろう。オレの手は一向に動く気配がなかった。名前の部屋には何度か来たことがあるが、今日は時計の秒針の音がやけに耳につく。
カタン、と前方でペンを置く音がして反射的に顔を上げる。名前がペンケースから消しゴムを取り出すところだった。


「ごめん、机揺らしちゃった?」


オレの視線に気づき、名前が上目遣いで問う。


「い、いや。大丈夫」
「ならよかった」


名前の目が細められる。しかしその目がオレを見ることはなく、彼女はまた課題に集中し始めた。
心の中で盛大な溜息をつく。勉強会とはいえせっかく久しぶりに過ごせているのに、今日は一日この調子だろう。最悪、明日も明後日も、その先も。
それもこれもすべて葉子のせいだ。


「麓郎、あんたもしかしてまだキスしてないの?」


一時間前の作戦室。葉子は眉を寄せて言い放った。あまりに開けっぴろげな物言いに動揺し何も言えないでいると「えっ、マジで?」と葉子はクッションから体を起こした。葉子、と華さんがいつもの静かな声音で諌めてくれるも全く効き目はない。葉子は不満そうに頬を膨らませた。


「意気地なしの麓郎のためを思って言ってあげてるの。そもそもアタシがくっつけてあげたようなもんなんだから」


実際そうだからオレはまた言葉を継げず、ただ葉子を睨むことしかできなかった。


「あの……」


背後で聞き慣れた声がし、びくりと肩が震える。


「名前……」
「ごめん、待ち合わせ場所に来ないからどうしたのかなと思って」
「悪い。行こう」


声が少し震えた。名前の肩を強引に押し、作戦室を出る。扉が閉まる直前、頑張りなさいよ、と棒読みの声援が投げかけられた。いい加減黙ってくれ!
たぶん名前は聞いていただろう。さっきからまったく目を合わせてくれないのが何よりの証拠だ。話題に出さず乗り切るべきか。いや、そうするとこの状態がいつまで続くかわからない。では話を振ってみるのかというと、そんな勇気もなかった。もし拒絶されたら立ち直れない。


「練習してみる?」


小さな声が静かな部屋の空気を揺らした。それが名前の声だと認識するのに時間がかかった。唐突な提案の意味が理解できず、名前の手元を見つめる。シャーペンを握ったその手はなぜか一心に丸を描き続けていた。


「キス、の。練習」


今日、名前が初めてオレを見た。唾を飲み込み、一呼吸置く。


「練習……ではないだろ」
「あ、そっか」


名前はオレの指摘に眉を下げて笑った。それを見て体から力が抜ける。同時に、さっきの返答はないだろ、と自分を責めた。名前のやわらかな表情はつかの間だった。名前は視線を右に左に忙しなく揺らしながら、何か言いたげに唇を小さく動かす。言っていいものかどうか迷うように。


「ごめん、作戦室で話していたこと、聞いてしまって」


ゆっくり、探るように話す名前に、オレは頷きを返すことしかできなかった。
名前は踏み出してくれた。対してオレはどうだ。名前に拒絶されたら。嫌われたら。そんな気持ちが邪魔をして、切り出し方がわからないと諦めた。意気地なし、と葉子の声が頭の中で反響する。うるせえ。黙れ。確かにオレは決断に迷って後悔することばかりだ。でも、この気持ちは葉子にせっつかれて生まれたものじゃない。付き合い始めたあの日からずっと、ずっと。


「オレは名前と……キス、したいと思ってる」
「私も、麓郎としたい」


名前と目が合う。顔が真っ赤だった。さっきから体が熱いから、オレも同じようになっているのかもしれない。どちらからともなく膝を突き合わせ、正座する。


「いいのか?」
「いいよ」


いきなり心臓がどくどくと暴れはじめた。膝立ちになり、名前の両肩をギュッと掴む。


「麓郎、ちょっと痛い」
「わっ、悪い」


緊張のあまり知らず知らずのうちに手に力が入っていた。肩を包むように手を添え、名前に近づく。至近距離で視線が交わったことでオレの心臓は限界を迎えそうになった。


「……目を、つぶってくれ」
「ご、ごめん」


名前が目を閉じたことを確認し、焦らずゆっくり、と自分に言い聞かせた。しかしもう少しというところで、目をつぶったのがいけなかった。


「あ」


オレは咄嗟に顔を離した。鼻と鼻がぶつかった。やってしまった。なぜいつも肝心なところで決めることができないのだろう。呆れられたかもしれない。しかし目の前の名前は予想に反した顔をしていた。大きく見開かれた目が、窓から差し込む夕日に照らされきらきらして見える。


「鼻チューだ」
「え?」
「この前漫画で見たの。好きな人とできたら、と思ってたから」


嬉しい、と名前が目をそらして呟く。
好きな人、と心の中で復唱する。名前の好きな人。オレか。とたん、嫌われたらだとか、意気地がないだとか、かっこ悪いだとか、オレをがんじがらめにしていたものたちはどこかに飛んでいってしまった。体から空気が抜けたみたいな心地だった。勢いでそのまま名前を抱きしめ、大きく息を吐いた。名前もオレの背中に腕を回してくれた。


「……もう一回いいか?」
「鼻チュー?」
「違う」


耐えきれずふきだすと名前がかすかに笑った。
目を閉じてオレを待つ名前を見つめる。先ほどよりも穏やかに脈打つ鼓動を感じながら、そっと顔を寄せた。







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