風間蒼也 かじりかけたりんご飴



浴衣を買った。紺地に白抜きの小さな桜柄が散った、シンプルなデザイン。リサイクル着物店の店員さんは、私がその浴衣を手に取ると、明らかに困惑した表情を浮かべた。「こちらはどうですか」なんて言いながら、色鮮やかな可愛い浴衣を勧める。高校生の私には、ピンクやイエローを使ったカラフルな柄が馴染むのだろう。その色づかいに吸いこまれるように手を伸ばしかけたが、本来の目的を思い出し、すんでのところで首を振った。
紺地の浴衣に、青みがかった緑色の帯。仕上げに差し色の淡い黄色の帯締めをきりりと締める。いつもより大人びた私が、鏡に映る。くるくる回って三六十度を確認し、よし、と小さく呟いた。そうちゃん―――風間蒼也は、どう思うだろう。母さんに借りた籐(とう)の籠の持ち手を握り、自室を出た。


***


待ち合わせ場所に着くと、すでにそうちゃんが立っていた。周りの人たちがスマホに目を落としているなか、ひとりだけ顔を上げているそうちゃんは目立っていた。じっと空を見つめている。そんなところも、私は大好きだ。駆けだしそうになる足を制御し、ゆっくりと歩を進める。


「そうちゃん」
「名前。久しぶりだな」


私はこの前、そうちゃんを見かけたよ。呟きは心の内にしまった。その時のことを思い出してしまい、もやもやと黒いものが顔を覗かせる。気づかないふりをして私は頷いた。


「そうだね。忙しいのに、急に誘ってごめんね」
「気にするな」


ふたり、並んで歩いた。自分の姿を確認する。襟の合わせは乱れていない。そうちゃんの目はお祭りの会場にまっすぐ向けられている。焼きそばかお好み焼きか、ソースのいいにおいがしてきた。


「お祭り、一緒に行くの久しぶりだね」
「そうだな。最後に行ったのは小学生の頃か」


覚えていてくれたことに気持ちが上向いた。
初めて親の同伴なしで、二人だけで行ったのだった。私はどうしてもりんご飴が食べたかった。きらきらした赤い飴が宝石みたいで、どうしようもなく好きだった。「ごめんね。来年は絶対に行こうね」どうしても抜けられない用事ができたとのことだった。申し訳なさそうに眉を下げる母さんの顔を見て、私は泣きたい気持ちを我慢しながらうなずいた。それを横で見ていたそうちゃんが、付き添い役を買って出てくれた。迷子にならないよう手を繋ぐこと、という母さんの言いつけをそうちゃんはしっかり守った。姫りんごを使った小さいのを買ってね、というお願いも。小さなりんご飴を見て、私は口を尖らせ、大きなほうを指さした。「あれは大人になってからな」ほら、と手を差し出され、私の機嫌は一瞬で直ってしまった。読書感想文用に読んだ本に出てきた王子様とそうちゃんが重なって見えて、まるで自分がお姫様になったように思えた。私の手を握りながら大人たちの隙間をすいすい抜けていくそうちゃん。その後ろ姿を見ながら、ずっとお祭りが続けばいいのに、と思った。


「学校はどうだ」
「楽しいよ」


そうちゃんはこうやっていつも親戚の人みたいなことを言う。恋愛対象として見られていないみたいで、私はそれが嫌だった。ボーダーはどう?と聞こうとしてやめた。守秘義務があるとかで、以前何も話してもらえなかったことを思い出した。大学の話なんかは、今はまったく聞きたくない。


「そうちゃんの担任だった先生、今度結婚するんだって」
「そうか」


カラコロと下駄は元気な音を立てている。そうちゃんがようやくこっちを向いた。初めてきちんとメイクもしてみたの。じぃっとそうちゃんの目を見つめてしまう。


「先生かっこいいから、女子がみんなショック受けててね。食事も喉を通らないって騒いでるんだよ」
「そういえば、この前うちの大学の食堂に来たそうだな」


どうだった、なかなか美味いだろう……食堂のメニューについて話すそうちゃんの声を聞きながら、視線が地面へと落ちてゆく。右足の小指のペディキュアが少し剥げているのに気づいた。支度をしている時にどこかで擦れたのかもしれない。どうしようもなく泣きたくなった。私、なんでいつもこうなんだろう。


***


それは受験勉強の息抜きだった。図書館はクーラーが効いていて快適だったが、おしゃべりができない。次第に飽きてきた私と友達はモチベーションをアップする方法を筆談にて模索した。三門市立大学の食堂に行くことを提案したのは私だった。二人の志望校だし、食堂は一般開放されているからお昼を食べながら大学生気分を味わおうという作戦だ。というのは建前で、そうちゃんに会えるかもしれないと思ったからだった。大きな大学だからそんな可能性は低いけれども、そうちゃんが普段過ごしている空間に入れると考えただけで心が弾んだ。

神様は意地悪だ、なんて、漫画や小説でよく見かける言葉を自分が口にする日がくるなんて思わなかった。
食堂の席に座り、そわそわしている私の横を見知った姿が通り過ぎた。そうちゃんだった。名前を呼ぼうとしたがそれは叶わなかった。そうちゃんの隣に女の人がいたから。きれいな金色をした、長い髪。スラッと伸びた手足。後ろ姿しか見ていないけれど、きっと魅力的な人。女の私でも思わず見惚れてしまった。二人は親しげに何か話しながら食堂を出ていった。その後ろ姿がずっとまぶたの裏にこびりついている。


「どうした、疲れたか」


ゆるゆると首を横に振る。そうちゃんは電信柱のそばに私を連れていくと「待っていろ」と言い置き、人混みの中に消えていった。少しして戻ってくると、右手をすっとこちらへ差し出した。


「好きだろう」


りんご飴だった。飴の赤色と屋台の照明のオレンジ色が溶けあって、きらきらと光を放つ。きれいでまぶしくて、私はぎゅっと目を閉じた。


「好きじゃない」


いくら服装を大人っぽくしても、メイクをしてみても、そして何歳になっても。この人の目にはきっと、ずっと、小学生の私が映るのだろう。そうちゃんが私の顔を覗き込む。その心配そうな表情がまた私を突き落とした。


「帰るか?」


私は力なく頷いた。
人の流れに逆らって元来た道を歩く。二人とも、何も話さなかった。アスファルトの歩道が急に砂へと変わり、顔を上げた。公園だった。そうちゃんはそのまま進んでいく。慌てて着いて行くと、そうちゃんは木製のベンチに腰掛けた。意図がわからず、倣って隣に座った。ベンチはまだ少し真昼の太陽の名残りがあった。


「何かあったか」
「なんでもないよ」
「嘘をつくな」


先ほど買ったジュースを差し出しながらそうちゃんは私を見つめた。その顔を見ることができなくて、ジュースのキャップを開けるのに集中しているふりをした。


「俺が原因だということはわかる。しかし思い当たる節がない。教えてくれないか」


ジュースをひと口含んだ。ごくんと飲み下して恐る恐る横を見ると、真っ赤な目はまだこちらを向いていた。目の奥が急に熱くなってきて、下唇を噛んで耐える。


「一緒にいた、金髪で長い髪の女の人、誰」
「いつのことかわからないが、ボーダーの後輩だ」
「彼女なの」


そうちゃんは「違う」と首を振った。ここまで踏み込んで聞いているのに、そうちゃんの表情は一切変わらない。もう、むなしい。私の気持ち、わからないはずないでしょう。


「お願いだから、私を一人の女の子として見てよ」


吐き捨てるような声が出た。もうヤケだった。こんなの、お菓子を買ってもらえなくて泣き喚いてる子どもと同じだ。恥ずかしくて、膝の上でぎゅっと浴衣を握りしめた。


「前からそう見ているが」


思わぬ言葉が聞こえた気がした。私の耳は、いつから都合のいい変換をされるようになったのだろう。そうちゃんは微動だにできない私に構わず続けた。


「俺もお前に頼みたいことがある」
「な、なに」
「名前が卒業したら伝えたいことがある。待っていてくれるか」


それはまさか。いやそんなこと。声は形にならず、私の口はまるでぱくぱくと空気を求める金魚のよう。


「だって、だって。浴衣とかメイクとか、私いっぱい頑張って……!気づいてなかったじゃん!なのになんで」
「雰囲気がいつもと違うとは思った。落ち着いて見える」
「もっと早く言ってよ……」


なんだか気が抜けてがくりと項垂れる。そうだ、風間蒼也はこういう人だった。


「悪かった。今日のために頑張ったのか」
「うん……」
「そうか。それは嬉しいな」


そう言って笑うのだから、ずるい。赤くなっていく顔を見られるのが癪で私は下を向いたまま動けない。しかしそうちゃんはそれを許してくれず、こちらを覗き込んだ。


「それで、約束してくれるか」
「……いま聞きたい」
「受験の邪魔にはなりたくないからな」


私ばかりやられっぱなしだから、もっと困らせてやりたい。でも、そんな理由を並べられたら何も言えなくなってしまった。それならば。合格して、その後たくさんたくさんわがままを言ってやろう。そんなたくらみを胸に、私はそうちゃんに心の中で舌を出した。


「わかった。受験、頑張るね」


そうちゃんは頬を緩ませて頷いた。うっかりその表情を見てしまい、ひゅっと息が止まる心地がした。まるで全力疾走をしたあとみたい。人の心臓とは、こんなにも速くなるものなのか。


「食べるか」


目の前に赤くて丸いものが現れる。さっき買ってくれたりんご飴だった。受け取ってビニールを外す。てっぺんの飴が溜まったところをなめると砂糖の味が口いっぱいに広がり、自然に口角が上がった。甘い味が混乱した頭をふわふわとゆるめてくれて、だんだん気持ちが落ち着いてきた。りんご飴を口から離し、きらきら輝く様子を堪能する。くるくる回しながら眺めて、ようやく気づいた。大きなりんご飴だった。


「大きいサイズ、初めて食べた」
「食べきれなかったら手伝ってやるから、遠慮なく言え」
「もう、私だってこのくらい食べられるよ。これだから大人は……」
「俺はお前が思ってるほど大人ではないぞ」
「そうかなぁ。まあよく考えたら三歳しか違わないしそうか」


いきなりそうちゃんは吹きだした。あまりにも貴重すぎるそのシーンに、感動よりも先に戸惑ってしまった。


「え、なに?!」
「そういう意味ではなかったんだが……」
「じゃあどういう意味なの?」
「そうだな……いや、やめておく」


そうちゃんはしばらく肩を震わせていた。私はそんなそうちゃんを眺めながらりんご飴にかじりつく。分厚い飴をがりがりかみながら、やっぱりちょっと手伝ってもらおうかな、と思った。







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