犬飼2話





「名字さん、ここ教えて!五限、当たってるの忘れてて」


お昼休みが始まった直後、クラスメイトの女の子は焦った様子で私の席までやってきた。


「ええと、あのね、今日は」


約束があって。いやこの約束が白紙になったらそれはそれで肩の荷が降りるのだけれど。それに五限ってことは本当に困ってるということ、こちらを優先したほうが……口の中でもごもごと言い淀んでいるうちに、その子の友達が後ろから顔を出して言った。


「私もわからないところあるんだよね。ご飯食べながら勉強会しようよ」


するとそれを聞きつけた周りの女の子たちが「なに、楽しそう」「私も」と集まりだした。隣や前後の机を私の机にくっつけようと移動する音が教室中に響き渡り、なんだなんだと他のクラスメイトたちの視線が刺さる。あの、と声を出してみるも音にかき消されてしまって彼女たちの耳に届かない。だめだ、断るタイミングを逃した。


「だめだめ」


なだらかな、やわらかい声が机の音を止めた。声の主は女の子たちの間を縫って私の前までやって来ると、人好きのする笑みを一層深くした。


「名字ちゃんはおれとの先約があるんだから」


ね、と犬飼澄晴くんは私に微笑みかけた。


「本当に?」
「脅してるんじゃないでしょうね」


人聞き悪いなぁ、と犬飼くんは苦笑いを浮かべる。


「おれたち、友達だから。ほら、行こう」


犬飼くんはいつのまに取ったのか私のランチバッグを手に扉へと向かう。ああ、お昼ご飯が。私は女の子たちに謝ると犬飼くんを追った。


「おれとの約束よりあの子たちを優先するんだ?悲しいなぁ」


空き教室の窓際の席に座り、犬飼くんは全然悲しくなさそうな顔で言った。私は縮こまりながらお弁当箱のふたを開ける。黙る私を見かねたのか「冗談だよ」と犬飼くんは軽い調子で言った。


「断りきれなかったんでしょ。でもああいうの聞いちゃだめだよ、ちゃんと課題やってない本人が悪いんだから」
「……ごめん」
「まぁそこが名字ちゃんのいいところでもあるけどね」


右手で頬杖をつきながらそんなことを言うので、私は慌てて目をそらし口の中に卵焼きをつっこんだ。頭の中に流れ出す、準備室での出来事。犬飼くんからの告白を受けてから一週間が経っていた。結果から言うと、友人関係が自然消滅する気配はまったくない。

あの日は彼から解放されたあと、真っ白な頭でなんとか家にたどり着いた。漫画とか雑貨屋さんのことを思い出したのはお風呂に入ったあとだった。買った漫画を読むのを土日の楽しみにしていたのに。来週の平日は予習や宿題が多くなりそうだから、次の土日に買いに行こう。楽しみが先延ばしになっただけだ。明日明後日は前からやりたかった部屋の模様替えでもしよう。うん、少し気持ちが上向いてきた。気分も落ち着いてきた気がする。このまま寝てしまおうと布団に潜り込んだその時、スマホの通知音が鳴った。それがメッセージアプリの通知音であることに気づいた瞬間、じっとこちらを見つめる犬飼くんのあの顔が浮かんだ。いや、まさか。だって、送ったのはスタンプ一つだ。会話に繋がるような返事はしていない。スマホへ伸ばしかけていた手を引っ込めたが、頭から彼の顔が出ていってくれなくて、仕方なくベッドから出てスマホの画面を覗き込んだ。


『スタンプかわいいね。猫、好きなの?』


送り主、犬飼澄晴。見なければよかった。スマホの画面をベッドに押しつけ、うなだれる。「おれ、名字さんのことが好きなんだ」と犬飼くんの声が再生され、倒れるように枕に顔を埋めた。叫びだしてしまうところだった。
スタンプ一つで会話を繋げてくるなんてどういうことなの。それより返事。返事、どうしよう。このまま流してしまいたいのに、質問されているし、答えないのは悪い気がする。スタンプの話題なんてそんなに続くこともないだろうし、返すだけ返そう。そしてそのままフェードアウトだ。


『この絵柄が好き』


淡々としていて我ながら良い返信だ。これなら続けようがない。自信満々に送信ボタンを押す。これで大丈夫。スマホをベッドサイドに置こうとした瞬間、また通知音が鳴った。


『これ、あの少女漫画家のスタンプだよね。うちに漫画あるよ』


共通の話題が、できてしまった……。私、なんでこうも選択肢を間違えるんだろう。自分を責めながらも、しかし、少し嬉しい気持ちもあった。あまり有名とは言えないあの漫画家を知っている人がいるなんて。なぜ犬飼くんの家に漫画があるんだろう。読んだことはあるのかな。気づいたら画面に返信を打ち込んでいて、慌てて削除ボタンを押した。送信する前でよかった。でも「聞いてみたい」という気持ちはどんどんふくれ上がっていく。「知ってるんだ」と一言。興奮に負けた私は送信ボタンを押したのだった。これくらいは大丈夫……だよね?
土日は漫画家の話をして過ぎ、思った通り会話が尽きかけた。しかし安心したのもつかの間、今度はコンビニスイーツの写真とともに「これおいしいよ。甘いの好き?」とメッセージが送られてきて、頭を抱えた。会話が終わりそうになると犬飼くんは新しい話題を持ってくる。私はうんうん唸りながら返信を打つ。そうやって何度もラリーを繰り返し、昨日の夕方。


『明日、一緒にお昼食べようよ』


ここでようやく気づいた。最初から放置すべきだったのだ、と。いつの間にか距離を詰められている。
断りたい。でもどうやって。一緒に食べる子がいるから、とか……いや、同じクラスだから嘘だとすぐばれるだろう。いい案が浮かばない。というより、諦めているから案が出ないと言ったほうがいいかもしれない。これまで選択肢を間違え続けた私が、はたして彼から逃げられるのか。答えは、無理だ。


「これ、ありがとう。少女漫画も面白いね」


犬飼くんは紙袋を差し出した。私の好きな漫画がどんな話なのか読んでみたいと言われ、一昨日貸したのだった。


「その人の昔の作品、読んだことないって言ってたよね?うちにあったから入れといたよ」
「えっ?!」


受け取った紙袋を漁る。一番端にそれはあった。昔風の絵柄、でも確かにあの漫画家の描く絵の面影が残っている。ネット上の書籍紹介でしか見たことがないものが、いま私の目の前にある。


「そんなに読みたかったんだ。目がきらきらしてる」
「だって重版未定で、どこにも売ってないから……!本当にこんな貴重なもの、借りていいの?」
「うん。うちで埃かぶってるより読みたいって思ってる人に読んでもらえたほうがいいし」
「ありがとう」


漫画を丁寧に紙袋にしまう。胸がどきどき鳴っている。帰ったらすぐに読もう。


「ところで、貸してくれた漫画の続きはいつ出るの?」
「この前出たよ。まだ買いに行けてなくて」
「へぇ、そっか」


犬飼くんは何か考えたこんだあと、「そうだ」と呟いた。


「よかったら明日、一緒に出かけない?」
「えっ」
「この前リニューアルオープンしたあそこに行こうよ。大きい書店が入ってるし、おいしいご飯屋さんがあるらしいよ。洋食は好き?」
「好き、だけど」
「よかった。時間は十一時くらいがちょうどいいかな。集合場所は夜に連絡するね」


犬飼くんはお弁当箱を鞄にしまいこんで立ち上がった。急に準備をしだすので呆気にとられていると、「今日はボーダー。昨日言ったよ?」と苦笑された。


「もうちょっとおれに興味持ってよ、寂しいなぁ。じゃあ明日、よろしくね」


ひらひらと手を振り、犬飼くんは教室を出ていった。静かになった教室に、私の大きなため息はよく響いた。そのまま崩れながら机に突っ伏す。いつのまに、出かけることが決定していたのだろう。わからない。もうなにもわからない。明日、台風でも来てくれないかな。空を横目で睨む。腹が立つほどにからっと晴れた空だった。









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