相愛のフリューゲル






壁、塗り替えたんだな。久しぶりに実家の前に立って、抱いた感想だった。私がこの家を出たのは汚れがじわじわ目立ちはじめた頃だった。それがあまりにも真っ白になっているので本当に自分の家か疑ったが、うちの表札と隣家の「諏訪」と力強い書体で彫られた表札を交互に見てほっと息をついた。


「名前」


実家の門扉に手をかけたその時、懐かしい声が聞こえて、夢なんじゃないかと思った。隣家の玄関にたたずむ男。諏訪洸太郎はつかつかと早足で私のもとまで来ると、乱暴に腕をつかんだ。抵抗する理由も意思もなにもない私は、流されるまま、そのまま諏訪家へと連行された。おばさんへの挨拶もそこそこに、洸太郎の部屋に押し込まれ、年季の入った折り畳みテーブルの前に座らされる。


「茶ァいれてくっから待ってろ」


どこにも行くな、と洸太郎の目が言ってる気がした。私は無言でうなずいた。
久々にお邪魔した洸太郎の部屋は、勉強机の置き場所も、本棚に並ぶ本も、あの頃のままだった。ベッドだけが消えている。何年か前に一人暮らしを始めたと聞いたから、新居に持っていったのかもしれない。
しばらくして洸太郎が戻ってきた。


「なんでこっちにいるの?一人暮らしは?」
「用があって戻ってきただけだ」


お盆をテーブルに置いてどっかり座り、お茶を目の前に置いてくれた。ふわふわと湯気がたっている。


「私が帰ってきてびっくりした?」
「別に。おばさんに聞いたしな」
「ええと、怒ってる?」
「……オメー、返信くらいしろよな」


まだ熱いマグカップを両手の指でぴたぴた触る。一週間かそれ以上か前に、送られてきたメッセージ。「どっか食いに行かねーか。そっち行く」。返信、してなかったっけ。「ごめん」と呟くと、洸太郎は顔をしかめながら「いいけどよ」とそっぽを向いた。


「荷物、全部実家に送ったのか」
「うん。今日からまた三門市民だよ」


マグカップに息を吹きかけながら答える。向かいに座る洸太郎は頬杖をつき、窓の外を見ていた。空には重たい雲がかかっている。いまにも降り出してきそうだった。


「聞かないんだね」
「何が」
「なんで帰ってきたのか」


洸太郎は何も言わない。この男はいつもそうだ。余計な口を挟まない。もうわかっていることだし、きっと母から事情は聞いているだろうし、私は早々に口を割った。


「どうやったら普通になれるんだろう」


他の人はできてるのに、なんであなたはできないの。あの先輩、本当に役に立たない。この部署で結婚してないのきみだけだね。私があなたの年齢の頃には子どもが二人いて。
ある日、職場の最寄り駅に着くと目眩がするようになった。布団から出るのに時間がかかるようになった。布団から起き上がれなくなった。洸太郎からあのメッセージが届いたのは、そんな時だった。諏訪洸太郎、その名前を見て、空っぽの頭にふと浮かんだ。三門に帰ろう。それまでが嘘みたいなスピードだった。辞表を出し、アパートを解約した。なんだ、早くこうしたらよかったんだ。でも。


「私、ほんと、ダメだなぁ」


気を抜くと、布団にくるまりながら一日の始まりと終わりを眺めていた時に感じていた、あのうしろめたさが這い上がってくる。あっという間に職場の人たちに囲まれて、駅のホームのベンチが見えて、そのままうずくまって、パンプスと地べたしか見えなくなる。「普通」が足首を掴む。やっと一歩踏み出せたのに、三門に戻っても、結局私はダメなんじゃないか。


「名前、おい、名前」


はっと顔を上げる。洸太郎が身を乗り出して覗き込んでいた。


「オメーの言う『普通』がなんなのか、俺にはわかんねぇけどよ」


もごもごと口を何度か動かし、しばらくして洸太郎は大きく息を吐き出した。


「ダメじゃねぇよ。オメーに助けられてる人間だっていんだよ。そういう奴らの言葉だけ信じてろ」


ぶっきらぼうに早口で言い捨てると、ぐいっとお茶を飲んだ。あっつ、という小さいうめき声に、思わず笑ってしまった。久々に口の周りの筋肉を使った気がする。


「うん……心配してくれて、ありがとう」
「毎日花とか野良猫とかの写真送ってきてた奴から音沙汰なくなったら、そりゃ心配にもなるわ、アホ」
「うん、今日からまた送る」
「勝手にしろ」


畳の上に置かれた洸太郎のスマホから通知音が鳴る。画面を見た彼の表情がかすかに緩んだ。


「はえーわ」


テーブルに置かれたスマホには、私がいま送った写真が表示されていた。いつ撮ったかはもう忘れてしまったけど、真っ黒に焦げたハンバーグの写真。洸太郎はスマホを取ると操作をはじめた。程なくして私のスマホが鳴る。洸太郎とのトーク画面に、新規一件。青ざめたキャラクターのスタンプが表示された。空気が肺に入って、また外に出ていく。私はいま、呼吸ができている。そんな当たり前のことを、深く認識した。


「どこ行こっか」
「は?」
「夜ご飯。誘ってくれたの、本気だって信じてみたのですが、冗談でしたか?」
「……冗談じゃねぇよ。オメーの好きなもん食いに行くぞ」
「ありがと」


マグカップに触ると、お風呂のお湯の温度くらいになっていて、そっと両手でそれを包み込んだ。じんわりと伝わる熱が心地いい。洸太郎に気づかれないよう、私は静かに目を閉じた。




















タイトル、お題はこちらからお借りしました。
10連CP本タイトル




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