三雲修 少年は恋を知る
飼育員の合図でイルカが高らかにジャンプをする。たちまち大きな歓声と子どもたちのはしゃぎ声が場内を埋めた。
「修くん、見た?いまの子すっごい高く跳んでたね!」
先輩はぼくの肩を叩きながら興奮ぎみに感想を言った。そうですね、と返事をすると先輩の笑顔がさらにやわらかくなった。
ぼくは先輩のこの笑顔が大好きだ。喜びや楽しい気持ちが少しずつ広がるように綻んでいくその様子に釘づけになる。
一ヶ月前のぼくが聞いたら驚くだろう。先輩が告白してくれたあの日まで、ぼくは彼女を「よく気にかけてくれるいい先輩」としか思っていなかったからだ。
「修くん、好きです!私と付き合ってください!」
本部の廊下で呼び止められ、振り返ると同時に飛んできた大声。一瞬誰なのかわからなかった。冗談を投げかけるいたずら顔の先輩はどこにいったのか。意志の強そうな表情に対し、その目は自信なさげに揺れていた。
「はい」
気づいた時には返事をしていた。しまった、と思った。しかし時はすでに遅い。先輩の不安そうな目が大きく見開かれ、顔にたちまち笑みが広がった。そして「ありがとう!よろしくね!」と言うと「修くんが私の彼氏になってくれましたー!!」と叫びながら廊下の向こうに走っていき、自販機の陰から飛び出してきた空閑と千佳とハイタッチを交わした。
先輩のことを恋愛対象として見たことがないのになぜこんな無責任な返事をしてしまったのか、と罪悪感に苛まれた。嘘だと言われるかもしれないが、あの不安そうな目と一生懸命気持ちを伝えてくれる姿を見た瞬間、目の前がちかちかして、胸をぎゅっと掴まれるような不思議な感覚に襲われ、口が勝手に動いていたのだ。
その後二人の都合が合う時は本部への行き帰りを共にした。主に先輩がその日あった出来事を話し、ぼくは聞き役に回る。瞬きする間に、と言っても大げさではないくらい先輩の表情はくるくる変わる。その一瞬一瞬を見逃したくないと思い始めたのはいつからだったか。気づけば何かしら用事を作って本部に行くことが多くなった。「すっかり骨抜きですな」ある日、支部の玄関先で空閑がニヤリと笑って言った。どこで覚えてきたんだ、そんな言葉。……なんて言えず、それ以外の言葉も言い返せなかった。その通りだな、と納得してしまったから。同時に自覚した。ぼくは先輩に恋をしている。
しかしぼくはいまだにこの気持ちを伝えられずにいる。先輩はまっすぐ自分の想いを伝えてくれたのに。
付き合い始めてちょうど一ヶ月。今日こそぼくは、先輩に告白する。
「おーい、修くん?」
「えっ」
先輩の声により現実に引き戻され、顔を上げる。先ほどまでの華やかなステージは消え、飼育員がショーの後片付けをしていた。右隣を見ると、先輩が心配そうにこちらを見ていた。
「イルカショー、終わったよ。ちょっと疲れた?」
「あっ、いいえ。少し考えごとをしてました。すみません……あの、先輩」
「えーと、この後に展示されてるのは……ごめん、何か言った?」
「……いえ、なんでもないです」
伝えようと決意したものの実行するのは難しい。展示スペースはもう半分くらい見て回っている。どういうタイミングで伝えるのが正解なのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。
次のエリアに入ると一気に視界が薄暗くなった。壁沿いに小さな水槽が一定の間隔で並べられている。イルカショーを観覧していた人たちはとっくに他のエリアに行ってしまったようで人はまばらだった。
「なんだか落ち着くね、この空間」
腰を屈め、先輩は水槽内の魚を目で追う。ぼくも横に並んだ。
先輩の瞳は初めて見る魚たちにより好奇心に満ち満ちている。かと思っていたら、途端にス、と伏せられるまぶた。あの時と同じ、目の前がちかちかとまたたく気持ちがした。
ああ、好きだなぁ。
「え?」
急に先輩がこちらを見上げた。何が起きたのかわからず黙っていると、先輩はふいと顔を水槽に戻した。
「あ、ああ!魚?この魚かわいいよね!私も好きー!」
不自然にはしゃぎだす先輩。その様子と言葉から一つの可能性に思い当たった。
「もしかしてぼく、何か言ってましたか……?」
先輩は水槽に目を向けたまま小さくうなずいた。
体中から汗が噴き出した。ぼくは先輩を前にするとなぜこうも反射的に行動してしまうんだろう。いや、反省は後だ。今しかない。肺にこれでもかと空気を入れる。
「好き、です。先輩」
息をたくさん吸ったはずなのに、出てきたのは掠れたような声だった。
先輩は何も言わない。こちらから何か言った方がいいのかと思案していると、先輩の目からポロッと涙が一粒こぼれ落ちた。
「どうしました?!」
何かまずかっただろうか。慌てるぼくをなだめるように先輩は首を振ると、違うの、と小さく呟いた。
「私の押しに負けて彼氏になってくれたと思ってたから……好きって言ってもらえるなんて思わなくて」
胸がつまった。
ぼくがはっきりしないせいで先輩をそんな気持ちにさせていたなんて。
「その、ぼくはあの日まで先輩のことをそういう風に見たことがなくて、でも」
「意識されてないのは告白する前からわかってたけどさ……それ言っちゃう?」
「ご、ごめんなさい」
「でも、私は修くんのそういうところも好きなんだよね」
先輩はハンカチで涙を押さえながら小さく笑った。
「不安な気持ちにさせてしまってごめんなさい。あの時、まっすぐに気持ちをぶつけてくれた先輩に惹かれたんです」
「本当に?」
先輩は茶化すようにまた笑った。しかし目はあの時と同じで不安を帯びていた。
「本当です」
そんな顔させたくない。
先輩の目を見据える。ぼくの気持ちが少しでも伝わるように。
「先輩のことが好きです」
今度はしっかりと言葉が喉を通って外に出た。
先輩は唇を引き結んで俯いた。そして弾かれたように顔を上げると、ぼくに一歩近づいた。
「じゃあ次のデートの時に、私の好きなところを十個教えてね」
「え?!」
困惑するぼくを見て、先輩はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。
どうしよう。十個に絞るなんてできるだろうか。それより次のデートはいつにしてもらおう。
悩みに悩んでいると右手にあたたかいものが触れた。視線を向けると、先輩の左手が遠慮がちに絡められている。
「……だめ?」
「駄目じゃ、ないです」
少し汗ばんだ手をぎゅっと握り返す。
先輩がぼくの顔をのぞき込む。
「次のデートも楽しみだね」
微笑む先輩の顔が水槽の青白い蛍光灯の光を受け、いつもより大人びて見えた。
またあの「ちかちか」が目の前に現れる。
先輩。好きです。
頭の中に浮かぶ二文字に気づき、ぼくは額を押さえた。