カルーアの指先

ぼんやり、滲みかけた視界が少しずつ開いていく。瞼の裏にチカチカと走っていた光の線が、開いた先の景色でも飛び回る。それが収まるのを待ってから、俺は漸く辺りを見回した。
白い天井、シックな掛け時計、本の敷き詰まった背の高い本棚。
閉じられたカーテンのおかげでそれらの景色は暗くてほんの少し見づらい。いや、それともカーテンのせいではなく今が夜なのか。ひらひらと、頭上に設置されたエアコンの風に揺れるカーテンの裾から、光の差し込む気配はない。
そうか、夜か。あれは夢か。
すっかり見慣れた、しかし夢の中では一欠片も出てこなかった景色に、安堵のたっぷり含まれた息を吐く。今思えばただの過去の映像リプレイだ。だが夢の中では、あれは確かにリアリティをもってそこに在る。

『殺ってなくてよかった……』

ぱちりぱちりと瞬きをして、改めて現実を捕まえる。
結局あれから、有言実行とばかりに俺はフィンと共に長く根を張っていたあの土地から出た。持っていかなければいけないような大したものは生憎と持っていない。身分証や通帳、用心のために手元に置いておいた現金と、自衛のための拳銃一丁。あれだけ長い時間共にいた「相棒」さえも置いて行った。スーツケースひとつに易々と収まってしまう程度の荷物。それだけ抱え込んで、俺はあの町を出た。
この先の予定など何も考えてはおらず、フィンが潰すと言っていたから組織からの追手などという脅威のことについても真っ白で、しばらくはどこかのモーテルでも渡り歩いて、まずは住処を探そうと思っていた。幸い金には困ってないし、住処を得てから仕事探し、という余裕たっぷりな順序を決め込んでも全く問題はない。
世間話をするように、それをフィンに軽く告げた。
結局俺たちの仲がどういったふうに進展したのかは俺の中であやふやであったが、これくらいのことは告げておいてもいいだろう。そう思ったからである。

「何を言っているんだい、シェリー」

その世間話を途中で遮って、折角の綺麗な顔を歪められるだけ歪めたといった顔で、教えたばかりの俺の名前をまた女々しく変えて呼びながら奴はさらりと言ったのだ。

「狭いだろうが、しばらくは私の家に。落ち着いたら新居を探そう」

君と私の、ね。
人は限界まで驚くと眩暈がするのだと初めて知った。あんなのはフィクションだろうと笑っていた時代が最早懐かしい。
フィンの本来の仕事場というのは随分と都会で、元々いたあの町よりもずっとゴミゴミとしていて、そして高いビルが多かった。きょろきょろとしているといかにも田舎者だ。そう思って奴の部屋に行くまで景色を見るのは我慢していたが、それを笑われてからは我慢するのも馬鹿らしくなった。あれはなんだ、と一々奴に聞きながら、俺は初めての都会を満喫したのである。
そして一番驚いたのは奴の家だ。高層マンションの最上階、とまではいかないが、上から二、三階目。アホほど高いところで、かつアホほど広い。

「どこが狭いだよ!」

俺が全力で叫んだにも拘らず苦情が来なかったあたり、設備も申し分ないのだろう。そんな場所に、奴は一人で住んでいた。

「本当に、大したことはないのだよ。酒飲みしか趣味がない私に、金の使い所などたかが知れている」

何でもないことのようにそう言ったフィンは、新居が決まるとその家を二束三文の値段で友人に売った。どんだけだ、こいつ。と思ったのは内緒である。
そんなこんなで最終的に俺たちが写ったのは、俺の田舎によく似た港町であった。潮の香りがほのかにするのどかな町で、見かけによらず位置的にはそこまで(少なくともフィンの仕事に影響しない程度には)ド田舎というわけではない。確かに都会よりは退屈そうであったがそれ以上にずっと落ち着いた。
小さな家を買い上げ、最低限の家電だけ持ち込み、あとはDIY。手先が器用でよかった、こういったものに几帳面でよかった。腐るほどあった時間は有意義に潰され、ようやく生活がスタート。
そして俺は探偵からの、無職からの、主夫というジョブチェンジを果たしたのである。
それが、ほんのおとといの話だ。初めて会ってから一か月と少しが経過していた。
そこからの記憶は曖昧。とにかく今は、ぬるい空気が肌全体を包んで気持ちが悪かった。本当に今が夜であるならば、あのひんやりとした空気が恋しい。換気がしたい。ふらふらと腕をあげて先日油を差した窓を開けようとするが、その腕はほんの少しだけ上がって、そして落ちた。なぜだろう、酷く重い。

「……?」

不思議を抱えたまま、身体を起こす。
手順を細かく言うなれば、身体を仰向けから横向きにして、肘をついて、肘に体重を乗せて体を前倒すように浮かす。

「…………」

もぞり。………
一手目から体が悲鳴を上げた。仰向けから動こうものなら胃の中身が全部戻ってきそうな、どこか遠くに覚えのある感覚がこみあげる。
頭の中にはいくつも「?」が浮かんだ。俺の身体はいったいどうしたのだろうか、と。

「ああ、起きたかい」

身体を戻し、ぐるぐるする頭をなんとか落ち着けようとしていると、聞き慣れた声が鼓膜に飛び込んでくる。いつもならこの声にも和やかに応じてやれるのだが、今は到底無理だ。飛び込んできた音は頭がい骨でバウンドして頭の中で縦横無尽に暴れまわる。こめかみを押さえ、眉根を寄せてしまうのはとっさのことで、どうしても止めようがない。

「まだ身体はご機嫌斜めのようだね」

そんな俺の様子を見ながら、声の主はベッドの端に腰掛けて俺の頭を撫でる。声は先ほどよりよっぽど密やかで、その心遣いがありがたい。

「フィン……」

「ただの風邪とのことだよ。ここ最近バタバタしていたから、きっとそのせいだろう」

優しい声が何とも情けない気持ちにさせてくる。ようするに、たかだか疲労程度で体調を崩したということか。

「気に病むことはない。君は働きすぎなくらいだったし……気づかなかった私も愚かだった」

掛けられた布団を少し直して、その上から俺の腹をゆっくり撫でる。もう一度寝かしつけようとしているのか、その手つきは子供にしてやるように優しい。目の上へのキスも同じだ。だが目覚めてからまだほんの少し。そんなにすぐにまた寝つけるものかと問うてみればその答えはあっさりとNOの形をとる。ならばいっそ、と。

「ゆめを、みた」

俺は随分と寝ていたらしい。先ほど彼の名前を呼んだときは気づかなかったが、改めて出した声は酷く擦れていた。フィンも気づいてはいなかったのだろう。すまないね、と一言言って、俺に水の入った吸い飲みを差し出してくる。気づいてしまうと痛みはやってくるものだ。ひりひりとした喉で何とか冷たい液体を飲み込むと、身体の中から少し楽になるようだった。

「夢を、見たんだ」

寝る気はない、というのを聡い男は汲み取ったらしかった。小さい俺の声がよく聞き取れるように、フィンの顔が近づいてくる。いっそ隣に寝てくれれば、とも思うが、風邪を移すわけにもいかない。ダブルベッドに一人はどうもさびしいが口をつぐんだ。

「それには私も出てきたかい?」

「鬱陶しいくらいに」

「それはよかった」

「一か月前のアンタはほんと、胡散臭かったよな」

「君は変わらず可愛いままだがね」

小さく笑いながら、フィンは俺の額を撫でる。汗で気持ち悪く貼りついた髪の毛を払って、傍に置いてあったフェイスタオルで拭った。タオルはふわふわとしていて、思わず頬を寄せた。子ども扱いされるのも納得な、ガキ臭い仕草である。

「かわいい……?」

「そう、可愛い」

ああ、少し熱が上がってきたのかもしれない。かけられた言葉も上手く咀嚼できなくなって、ぼんやりと、霞んだ視界が逆戻りしてくる。さっき眠れそうにないと言った頭の住人は嘘つきだ。瞼はすっかり重力のお友達、離れた下瞼が恋しい甘えん坊。

「過去は逃げないよ。今度は楽しい未来を夢見てくれないか」

閉じることを促すように指が瞼をなぞる。
閉じたくないと思った。
夜の瞼の裏側はどうあがいたってなんだって暗く重くて、そんな場所に明るいものも楽しいこともあるなんて思えない。
だからやめてくれ。
そう止めるのは俺の心のうちだけで、俺の身体も、フィンだって、今は敵側に回ってしまっている。敗色濃厚、一パーセントの可能性もない。

「さけがのみたい」

閉じてしまった視界の黒に飲まれながら、一言吐き出した。
そこにいるかもわからない彼は小さく笑って、なんとかまだ沈むことなく形を保っている俺の唇に指先で触れる。

「治ったら、いくらだって」

「あびるくらい」

「うん」

「いまがいい」

「それは駄目だ」

「けち」

「何とでも言うがいいよ、でも駄目だ」

「けち……」

とにかく動かし続けた。
そうしないといずれは寝てしまう。眠ることがほんの少しだけ怖くて、体を揺することも今は出来ないから、ただの悪あがきだとしても。

「さけがのみたい」

本当は飲みたくもなんともない。仕事を辞めたあの日以来、アルコールなんて一滴も口にしていなかった。依存気味だったはずの身体は何も言わずにおとなしくしていて、自分でも少し意外に思った数週間前を覚えている。
それなのに、とっさに出てきた言葉がこれとは笑わせる。

「仕方ない子だよ、シェリー」

唇から指が離れて、声も途切れて、身体の上からフィンの感覚が消えていく。
ああ、置いて行かれてしまう。
そう思って目を開けようとしてみても、すっかり二つの瞼はくっついて離れようとしなかった。何と忌まわしいことか。
体中の感覚が鈍くて、起きたいのに起きたくないような気がして、ああ、もうだめだ。なんて思った時だ。

「これで我慢してくれると、嬉しいんだがね」

ぴとり、と。
唇に濡れた何かが当たる。何かじゃない、ついさっきまでそこにあったものと同じものだ。ああ、と声を出そうとすると、出来た小さな隙間から一つ二つ、滴が入り込む。

「あまい」

頭の中にぽつんと二つ思い当たるものが出てくる。一つはカップ、一つはグラス。一つは温かく、一つは冷たい。どっちだとも思うが、おそらくは決まっているだろう。これには朝がよく似合う。

「あまい……」

ぬるい液体が舌から喉へ落ちていく。
あまい、あまい、そう呟きながら滴の行方を追っていく。
その甘さがどうにも、俺の知っている味に似ているものだから、俺はいつの間にか悪あがきを忘れてしまった。



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