置手紙は「XYZ」

一週間、二週間は淡々と、静かに、そして思ったよりも緩やかに過ぎていった。真夏のじっとりとした空気は鳴りを潜めだし、まだほんのりとした暑さは感じるものの朝昼は涼しさが目立つようになった。夜空の星たちもその位置を少しずつ変化させ、今では次の季節の星座たちが時折視界の端にちらつくようになった。
街並みを歩く人たちの装いも華やかな色から落ち着いたものへと変わり、厚みもほんの少しだけ増した。
そんな目まぐるしい変化の最中、俺は一人置いて行かれることを望んでいるかのように静かに過ごしていた。
息をひそめ、体を縮こめて、ただ気づかれないように過ごしていた。
朝は太陽の起きるほんの少し前に事務所を出て、陽が落ちてから帰ってきたと思えば電気もつけずにそのままソファに沈んで眠る。
そんな生活のせいか肩や腰が最近痛い。そういうと目の前にいる仕事仲間はケタケタと笑って下世話なからかいの文句を吐き出した。
ああ、下品だ。あいつならばきっとこんなことは言わないだろう。
思い出すのは今度の標的の顔。楽しいと感じてしまっていた酒場での語らいが頭の中に再生される。
結局奴とは時々、少なくとも片手を超える回数の夜を共にした。
場所は俺が教えたあのチープな酒場。示し合わせたのかと聞かれれば大体は偶然だ、俺が見つけたり奴が見つけたり、まちまち。
本当は接触を持つべきではない。接触を持てば持つほどこちらの顔は多くに知れ、足が付きやすくなる。わかっている、わかってはいるがついつい声をかけてしまうのだ。此方に気付いた時のあの嬉しそうな顔を一度見てみてほしい。あの綺麗な顔だ、あの整った顔が満面の笑顔をたたえて優しく、かつ、飢えを必死に押し込めてこちらを見据えるのだ。また見たいと思ってしまっても仕方がないというのが本音。初めて会ったとき、彼の性癖を知って全力で後ずさった私はその視線に刺された瞬間にどこかへ逃げ去ってしまっていた。
自覚している。私は彼の虜になっていると。
だが、それはもう過去形にしなければならない。
私は冷えた目をして携帯に送られてきた依頼メールをもう一度確認した。

【Toディジェフティフ
ターゲット:フィンレイ・テイラー
宿泊先:ホテル・アレクシー
方法、時間指定ともになし
ただし、期日は三週間後までとする】

問題は最後の項目。期日は三週間後までとする。
その三週間後まで、もう時間はなかった。もっと詳しく言えばあと二十四時間を切っている。切迫した状況だ、といっても焦る必要は全くない。
決行は今夜、場所は奴と初めて会った日仕事をしたあのビルと決めている。今夜も奴があのホテルに泊まっていること、部屋番号も確認済みだ。手筈はすでに整っている、いつも通りに、何の一つも問題はない。
あとすべきことは、その頭に標準を定め、引き金を引くことのみ。
「大丈夫だ……」
そう、大丈夫。やれるはずだ。
自分に言い聞かせるようにつぶやく。仕事仲間はその様子をガキみたいだとまた笑った。吐息からアルコールの濃くむせ返るような臭いがする。
この男のもとにやってきて今日で三日目。奴に会わないために活動範囲を変えようと屋根を借りていたが、もういいだろう。
一言二言礼を述べ、宿代に札を何枚か置いてその男に背を向けた。
「おいおいおーい。ちょっと待てよ」
餞別、持っていきな。
最後にこういうことをしてくるからこの男は何だかんだ縁を切れない。
餞別と称して投げられたのは一本の瓶だった。バカルディのホワイトラム。
「仕事前の禁酒はつらかったろうに」
男はアルコールにとろりと濁った眼でそう言った。
確かにこの三日、酒を飲むと何かと思い出すからとノンアルコールのものしか口にしていなかったのだが、まさかばれていようとは。
この飲んだくれ、流石に裏の社会に身を置いているわけではないらしい。まぁ、見直すまでもないことではあるのだが。
「ありがとうよ」
その瓶を腕に抱えたまま、俺は根城としていた町に戻った。
まだ昼間だ。相棒の整備の時間を抜いたとしても、決行予定である夜まではほんの少しではあるが時間がある。気が急いて早く出てきてしまったのだろうか、そんな自分に苦笑しながら、俺の足は自然とマダムのあの店に向いていた。馬鹿な男だと笑うなら笑ってくれて一向に構わない。避けるためにわざわざよそに行ったのに、帰ってきた途端にこれだ。どうしようもない男になってしまっていることは間違いなないのだろう。
「悪いな、マダム。開いてるかい」
「ああ、あんたか色男。いいよ、おいで」
まだ開店してすぐであったらしい。だがすでに数人の男たちが席を陣取っているその店内は比較的静かで穏やかであった。
「久しぶりだね、あんなに間を置かずに来ていたのに」
そう聞いてくるマダムを適当な言葉でかわし、何を頼もうかといつも通り酒の棚を見る。ラインナップは以前と変わっていない。三日なんて大した時間ではないから当たり前のことだろう。だが変化をそこには期待していたのだ。奴とみていたものが今でもそこにある、そう思うと自分でここに来たくせにどうも憎らしく感じてしまう。感じたとてどうしようもない。この店も、そこにある酒も、マダムも何も悪くない。ただ俺の性根が腐っているだけのこと。
「こんな時間から酒はお止めよ。あんたまだ若いんだから」
迷うでもなく思考をぐるぐると回しているとそんな言葉が目の前のマダムから飛んできた。
ノンアルコールなんてどうだい。
そう付け加えた上で、マダムは母親がするみたいに俺の頭を撫でた。
もう子供じゃなくなってから随分と時間がたつ。それなのに、今母はどうしているだろうか、なんて一度も考えたことがない。なのになんでだろう、そんな親不孝者にさえ、この手は酷く優しく感じる。
「そう、するかな。まだこの後も仕事だし」
頭を押さえてマダムの手をどかしながら、俺はうつむいて小さく言った。顔の筋肉が上手く動かせなくて、どこか歪な表情になっている気がする。ちらりと目線だけで確認すると、俺をこうした張本人はどこか意地が悪そうに笑っていたのだ。
「何にする?大抵のものは出来ると思うがね」
「そうだな……」
正直ノンアルコールのカクテルにはあまり詳しくなかった。向こうにいた三日間はノンアルコールと言ってもジンジャエールでその場をしのいでいて、ちゃんとした凝ったものを注文していたわけではない。だがどんな味かわからないものを注文するのも気がひける。
どうするべきだろう、頭の中を引っ掻き回して答えを出そうとしている時に、その声は聞こえてきた。
「シャーリーテンプルはどうだい」
すっかり聞きなれてしまった、腹の底まで響くようにずっしりとくる低い声。今は一番会いたくないと思っていた、しかし心の奥底では期待していたその男が、今目の前にいる。
「ジンジャエールとグレナデンシロップを混ぜたカクテルだ。グレナデンの甘い口当たりとジンジャエールの後味と炭酸が特徴。最後に乗せるレモンのすっきりとした香りが爽快な一杯だよ」
「アンタ……」
「これから仕事に精を出す予定の君にはぴったりだ」
奴はそう言って俺の隣に陣取ると、マダムとアイコンタクトを交わして注文を確定させた。
仕事って、どっから聞いてたんだよ。
あっけにとられた俺は半分諦めたように、目の前でマドラーを操るマダムの手を見ていた。それくらいしか見るものがない。どこに視線を向けていようが、どうせフィンに捕まる。
「しばらく街から離れていたのかい」
「ちょっとした旅行でな、さっき帰ってきた」
「それでこれから仕事?多忙すぎやしないか」
「身体は丈夫なもんでな、心配しなくても大丈夫だ」
こっちを向いて。
そんな一言が言葉の裏から見え隠れしている。
どこかさびしそうな、例えるなら端末で打ち込まれる顔文字のような印象を持たせるそれはどこか愉快で、先ほどまで固まりきっていた表情筋が緩んでいくのを感じる。
ああ、今俺笑っている。
こんなに簡単に、人の表情とは、俺の表情とは変わるものだったか。
知らなかった、目を背けていた一つの発見だ。今の職に就くようになってから、もちろん作り笑いをすることはあったが、こんなに自然と人前で笑うなんてのはめったになかった。それが、こんなに簡単に。
「そんなことよりアンタだよ、お仕事は順調か?」
だがそんなことに今は構っていられなかった。発見を再び見なかったことにして、そしてそんなことと一蹴して問いかける。
奴の仕事。警察上層部、恐らくは秘密情報工作員かなにか。
どんな目的で今この町に滞在しているかはこの際どうでもいい。問題はその目的の達成度。すでに完遂させてこの町から逃げ出されては困る。一応今日の宿泊予定から部屋を確保していることは確認済みだが、念には念を入れて。
「仕事?ああ、順調だよ。もっとゆっくりでもよかったくらいだ」
苦笑交じりに奴は言って、ふと視線を前に向けた。その視線の先には先ほど頼んだ琥珀色のカクテルが汗をかいていて、俺はそれに口をつけようと手に取る。
「残念だよシャーリー。実はというとここに来るのはこれで最後だ」
時間が止まるというのはまさにこのことだろうと思った。愉快なことというのは一度ならず二度までも起こるものだ、どうか笑ってほしい。これから殺そうと思っている男にもう会わないと一言言われたくらいで、なぜこんなにも衝撃を受けなければならないのか。それは俺自身にも信じられないものであったし、頭の中にいた仕事一辺倒な俺には大爆笑をいただいた。ああ愚かだ、愚かしい。こんなに俺は馬鹿だったのか。目の前にいる男に溺れきった俺はそんなこともわからないようだけれど。
「抱えていた案件が昨日終わってね。今日は休暇をもらっているからここに滞在するが、明日にはこの街を出なくては」
「そう、か……」
俺は自然な返事が出来ているだろうか。ちゃんと彼の目を見ることは出来ているだろうか。表情はまた凝り固まったものになってはいないだろうか。
背中には嫌な汗がだらだらと流れ、ぞくぞくとした悪寒と共に体温がいくらか下がった気がする。
ざわざわと波立ったグラスの中身を、どうにか落ち着けばいいと願って一口含む。ぴりぴりとした舌のしびれと、それを撫でていくグレナデンの甘味。いつもならば素直にうまいと称賛するだろうそれが、今はどこか蚊帳の外にいる。
「君が少しでも惜しんでくれているようで嬉しいよ」
ああ、やっぱりどこでぼろが出ていた。奴が左手で俺の頬を撫でる。俺より少し高い体温がやんわりと触れては離れていく。そうだ、これが惜しいという感情だ。これから俺のことをもっとむしばむであろうものだ。
「俺もな、実はこの街を出なくちゃいけないことになってる」
「え?」
本当の事だ。この業界にいるものの多くは、一定の場所に居を構えることはしない。転々とその根城を変え、どこにも居つかないようにする。俺は異端だった。もう何年この街にいるだろう。故郷から出てきてからずっとここにいて、もう根っこまで生えていそうだ。関わってきたその道の人間からはずっと警告されてきた、今がちょうどいい機会だろう。
「どこにいくんだい」
「遠いところ。ずっとずっと遠いところへ」
「正確には?町の名前は?」
「内緒だ、教えてどうなるものでもねぇし」
「手紙が書ける」
「ガキじゃねぇんだよ。いくつだアンタ、もう三十路だろ」
子供のように詰め寄ってくる目の前の男を見るのは正直楽しかった。
この男はいつだって自分より大人で、何だかんだ自分はいつも振り回される側でいて、最後くらいは小さくとも逆襲が出来たかと思うと。
「明日にでも発つつもりだったんだ。だから俺も今日で最後。記念に一杯奢らせてくれよ」
取り出したのは先ほどもらったばかりのホワイトラムの瓶だった。そこまで上等なものではない、だがこの程度の方が記憶に残らないでいいだろうと思った。人からのもらい物の流用であるし、尚更。
「マダム、これで一杯作ってくれないか」
グラスを磨きながら少しさびしそうな顔で俺たちの話を聞いていたマダムは俺のお願いを大人しく聞いてくれた。材料を取り出すと、先ほどと変わらない鮮やかな手さばきで混ぜていく。ホワイトラム、ホワイトキュラソー、レモンジュース。「XYZ」と呼ばれるその酒は、でかい山の時以外は飲まない俺のとっておきだった。
「ほら、ぐっと一気に行けよ」
「冗談が上手いなシャーリー。私を酔わせてどうする気だ?」
一つのグラスを中央に、視線が交差する。二人とも、視線をぴたりと当てたまま動かそうとはしない。酒には手が付けられないまま。
その酒を飲む飲まないは些細なことだ。どうしようが俺には関係ない。これを俺が奴に奢った、俺にとってはこの事実だけがそこにあればいい。これで貸し借りはなしになった。
「じゃあ俺はいくよ。さよならだ、フィンレイ」
綺麗になったその体で、俺は酒場から出た。
そこにはほんの少し赤くなってきた空が広がっていて、時間というものの経過をありありと知らせてくる。
そういえば、やつと初めて会った時もこんな色の酒を飲んだな、としみじみ思った。悲しくなった。
そしてこれは余談であるけれども、俺が奢ったあの酒はカウンターに残り続けたらしい。ずっとずっと、ぽつんと一つ。


*  *  *


夏の空も秋の空も、変わらずに幼い俺の遊び道具であった。
母さんが寝静まった後こっそり家から抜け出して、家の前の草原に寝転がって、細くて小さくて白い手を精一杯上へと伸ばした。
今日の空には何がいる?あれはくじらだ、あれはみずがめ、あそこにいるのはやぎだし、秋の四辺形を含んだペガサスだって。
うっかり寝てしまったりしないように小さく一つ一つ口に出して確認しながら、幼い俺は星に夢中になっていた。
あの頃はよかったなぁ。綺麗なものは綺麗で、尊いものは尊い、好きなものは好きだと純粋にそう思えたし、はっきりと口にも出せた。
今じゃあそんなことすら難しい。嫌な大人になってしまった。
体温でぬるくなったコンクリートの上で、ビルに囲まれて狭くなった空を眺めながら俺は今の俺に関して嘆いた。嘆いたところでどうにかなるものでもないし、仕方ないと諦めるのが常であったけれどそうせざるを得なかったのだ。
この間ここに来た時よりも、大分風が冷たくなった。体が冷えると気も滅入る。さっさと済ませてしまうのがいいだろう。
コンクリートから背を離して起き上がると、目の前には星とは似ても似つかないぎらぎらしているだけの人工の光が満ちていた。
それらはちかちかと目の細胞を刺激する。穏やかな光に慣れきった目がその暴力に涙したが、今はそれが若干ありがたかった。
服の袖で荒っぽく目元をぬぐうと、傍らに置きっぱなしにしてあった相棒に手をかけた。
暗闇に紛れたそいつはいつもとかわらずずっしりと重く、手への馴染みにも変化はなかった。持ち上げて膝に乗せると、撫でたくなるほど滑らかで硬質な身体がそこにはある。
「今日も頼むぜ、相棒……」
それは本心だろうか、それとも自分をその気にさせるための見せかけの言葉だろうか。今はそんなことを気にしている場合ではない。
相棒は雲一つない空から覗く月光に照らされて、自信たっぷりにその光を反射している。その光が俺の言葉への答えだった。
膝から降ろし、きちんと立てて固定してやってから俺は一つ息をつく。
まだスコープを覗くことは出来ていない。目的の部屋は1286号室。十二階にあるスイートである。そこにいるはずなのだ、あの男は。早く確認して、一発でその頭を撃ち抜いて、撤収して……それで終わりにしたい。
だがこの体はなかなか動こうとしなかった。理由はまた甘ったれた色恋云々なのだろう。何度だって言ってやるが、愚かしいこと。
「仕事なんだよ、しかたねぇだろうが……」
言い聞かせるようにして、俺は相棒のすぐ傍に横たわった。
スコープを覗くと、オキュラーレンズにはいつも通り曇りの一つもない。その奥の奥にはホテルの一室が映り込んでいる。豪華な部屋だ、それ以外の表現がどうも見つからない。そしてそこにはその部屋によく似合った男が一人。今日は仕事用の、余所行きな格好をしている。趣味のいいグレーのスーツ、オールバックに固めた黒髪。初めて会った時と同じ格好。なんて皮肉だろうか、まさかこんな偶然があるとは。
「アンタかっこよかったよ。そりゃあもう、とびきりな」
でもばいばいだ。
そうしようと思ってしまえば行動は早かった。
無駄な思考をすべて追い出してスコープの先に集中する。
標的は先ほどの位置から動いてはいない。照準を合わせて、セーフティーを外し、引き金に指をかける。
心臓、肺、脳、これらの臓器の動きをリンクさせるようなイメージ。
息を吸って、吐いて、また吸って、止める。苦しくなった体の感覚を指先と目に集めて、じっとタイミングを待った。
標的は動かない。こちらがそうするのを待っているように。
勘違いであることはわかっていたけれど、そう思わずにはいられなかったのだ。

ドシュッ。
カチャン……

重く腹の中に潜り込んで吐き気を催させるような発射音と、吐き出される薬莢がアスファルトにぶつかる耳障りな高い音。
そして目の前の景色は見ないことにした。どこからか漏れ出した水の膜が、見ない方がいいと覆ってくれたから。スコープから目を外せば、あの景色は本来の距離である1キロ向こうへ離れていく。見苦しく縋りつくなんてことはしたくなかった。
あーあ、とわざとらしく呟いてから、俺は体を起こして撤収の準備を始めた。
まだ温かいサプレッサーを外し、ストックを畳み、各パーツを分解してケースにしまう。
落ちた薬莢を拾う気にもなれなかった。ジャケットの内ポケットは空のままで、少し寒いような気がした。そうだ、家に帰ったらあの部屋にある趣味の悪いコレクションは全部捨ててしまおう。何もせずこのまま街を出るつもりだったが、一つやることが出来た。

PiPiPi

撃ってからきっかり3分で撤収作業は終了した。早いことはいいことだ。そのアラームを兼ねて鳴り響いた着信に、俺は少し顔をしかめながら通話ボタンを押す。耳に取り付けたインカムからは、ボイスチェンジャーか何かを使って歪ませた声が入り込む。
「確認した、ご苦労」
「今回もちゃんと『お使い』は出来ただろ?」
「ああそうだな、先方も満足だ。報酬は払っておく」
それだけの簡単な通話を終わらせて、俺は携帯の電源を切った。さて、終わりだ終わり。さっさと用事を済ませてこの街を出よう。
俺はビルの階段を下りまだ喧騒の満ちる街中をゆらりと歩いた。
仕事が終わったというのに、感動も達成感も、ましてや感傷もなにもなかった。
俺が薄情な人間なのか、それともフィンへの感情はただの勘違いのそれであったのか。それはわからない。
とりあえずとして今自分の中にあるのは、習慣とは恐ろしいもので、ただ酒が飲みたいという一つの欲求だった。
こればっかりは自分に呆れる。だがホテルに行くわけにもマダムの酒場に行くわけにもいかない俺は、どうにかしてこの欲求を満たさなければいけない。
ああ、なんて現金で身勝手な身体。
自分に対して生まれてくるのは手酷い罵倒だけだ。
若干の落ち込みを覚えながらなんとか一軒のバーを見つけると、カウンターの隅の席に陣取った。暗いと思われるかもしれないが、こうした目立たないところでちびちびやるのが好きなのだ。こればかりは誰にも邪魔はさせたくない。
「ご注文は?」
初老のバーテンが小さい声で問うた。店の中はどこのバーにでもあるようなもので、小さい音量でジャズがかかっていた。いかにもな雰囲気であり、それを配慮してなのだろう。
「XYZ……二杯」
口に出た言葉はほとんど無意識であった。とっておきの酒を、二杯。前半だけならまだわかるのに、意味不明なのが後半だ。自分の分だけならもちろん一杯だけでいいはずだ。なのに
「二杯、ですか」
「ああ、頼むよ」
念押ししてきたバーテンにもそう返す始末。俺の頭はいかれてしまったのだろうか。飲みきれない程ではないからまだいいが、大分きついと思う。しかしこれまたおかしいことに、来たその酒を飲もうとは思えなかった。
自分の分と思われる一杯のグラスをとり、湖面を揺らして戯れる。
白く濁った液体。靄のかかった今の頭の中。その二つがどこか似ているような気がした。似ているこれを飲み干せば頭の中を満たす靄も一緒に消えていくのではと、色々な希望に限りなく近い幻想を抱いてみた。幻想に後押しされて一思いに呷ってみたけれど、結局靄は深まるばかりで、ずきりとした痛みまでのし代わりに着けて帰ってきた。まだ手つかずで残されている一杯は、じっとその白い目で俺を見つめている。
そんな目で見るなよ、こっちだってまいってるんだ。
空のグラスとぶつけて高い声を出させると、俺はそれを置いて椅子から少し腰を浮かせた。代金を出す必要はない、ポケットから財布を出してそのままカウンターの上に置く。
バーテンは他の馴染み客についていて、こっちにはしばらく来そうにない。
この隙に出てしまおう。そう思っていたのに。
「隣にいっても?御嬢さん」
肩に置いた手がそれを邪魔する。
幻聴がする、幻覚が見える。
濃い灰色のスーツにオールバックにまとめあげた黒い髪。
俺の答えも聞かずに隣のスツールに座ったその幻は、目を丸くする俺を見るとおかしそうに笑った。
「君のそんな顔を見る機会は何回かあったが、今のが一番だな」
「アンタ……」
「野暮なことは今は言わないで。単刀直入に用件だけ言っていこう」
そうして幻は言葉を重ねることで段々と現実に変わっていった。
自分の想像通り、彼は警察上層部のお抱え工作員であること。今回の仕事が俺の雇い主の検挙であること。狙って俺に近づいていたこと。先ほど俺が殺したのはただの替え玉であったことなどなどを話した。
理解が追いつかないが、とりあえず俺がこの三週間の中で色々と騙されていたことだけはわかった。それならば幻のままでいてくれた方がまだ苦しかろうが綺麗な思い出だったじゃないか。そんなことさえ思う。
だがそれよりも目の前の存在がちゃんとこの世にいるという事実が胸の中が一つ重い。
よかった。
冷えた身体がほんの少しだけ熱を取り戻す。
「それでなんだが、君の端末を提供してもらいたい。拒むなら押収という形になるが」
「いいよ、くれてやる。連絡はこれだけだ、別に事務所のパソコンもくれてやってもいいが何にもないぞ」
「承知した」
「俺もこれでムショ行きかー」
だったら最後に浴びるほど飲んでいくかな。
そんな軽口をたたきながらカウンターに突っ伏す。まずは目の前にある手つかずのXYZを飲み干して、フラッシュバックにキール、カシスソーダ、もう何でもいい、片っ端から飲んでいきたい。そんな気分だ。
早速と目の前のグラスに手を伸ばすと、その間に邪魔が入る。
「やめておきたまえよ。そんなに強くないことはわかってる」
「最後の晩餐ならぬ最後の酒宴だぜ?」
「それなんだが君は勘違いをしている」
君が刑務所に送られることはないよ。
以前突っ伏したままの俺の頭を大きな手が撫でた。かくいう俺は本日二度目の驚き。
自慢ではないが何人殺してきたかもわからない俺が、刑務所送りにならないと?何を言ってるんだこの男は。
「完全に私の我儘だがね。君のことは一言も本部に報告はしていないし、報告する気もない。君はあくまで私の仕事の本筋で出た情報の補足的な役割でしかなかったんだ。なにぶんデカい山だったから、情報源は多い方がいい。君のことは個人的に興味があったから私独自の手を使って調べたが、警察という組織に置かれたデータベースの中でまだ君はまっさら綺麗な状態だよ。何も問題はない」
開いた口が塞がらない。今聞いた話を裏返せば俺が捕まる捕まらない如何は目の前のこの男次第ということだ。それも別に悪いわけではないが、いっそ今捕まえてくれと思ってしまっても仕方ないだろう。
「アンタ俺をどうしたいんだよ、ほんと……」
「もうわかっているんじゃないのかい」
そうして男は俺が伸ばそうとしていたグラスを横取りして先に口をつけた。白が消えていく、喉が動いて飲み下していく。そんな様子をじっとただ見ている。
惜しいという気持ちは全くなかった、ただそこにあるのが当然といったような、お似合いな感じがして、まぁ上手く言えないけれども。
「こんな酒を寄越すくらいだ、期待してしまったよ」
「?」
「知らないのかい?」
私のシャーリーはこういう駆け引きは不得手かな。
男としてそんなことを言われたらむっとせざるを得ないだろう。
どうせそんな経験まるでねぇよ、田舎から出てきてずっと仕事に明け暮れてきた苦労人だよ。……仕事の内容はさておき。
「つかアンタのでもないしシャーリーでもねぇよ」
「今更だな。それとも本名を教えてくれる気になったかい?」
どうせ調べたというのだから俺の名前なんてとうの昔に知っていることだろう。存外目の前にいる男が意地が悪い。
じろりとその顔を見上げると、今か今かと俺の口が開くのを待っているようだった。突っ伏していた姿勢から体を持ち上げ、片肘をついた状態で奴の方を向く。
向いた方向には俺なんかより一枚も二枚も上手な色男がいてこっちを待ち構えているもんだから性質が悪い。
結局は全部こいつの思い通りじゃないか。
「俺の名前は……」
シェリルだ。
そう告げようとした口元は噛みつかれて音を出すことなんて出来なかった。何とか出てきた吐息すら奴に飲み込まれて、何もなせずにどこかへ消えた。こんなことに意味などない、彼を満足させるという一点を除いてしまえば。
「他の者に聞かれるのは不快でね」
遠くへ行こうか、私のシェリー。
そう言われてしまえば俺に残された選択肢ははいかYESだけ。
承諾しか許さないとでも言うように彼は初めて会った時のように強く俺の手を握った。
硝煙の香る大きな荷物は置いて行ってしまおう道連れは彼と、アルコールの微かな香りだけでいい。


置手紙は「XYZ」
(XYZ:永遠に貴方のもの/後はない)


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