カシスソーダの囁き

探偵業というのはよくドラマであるようなことは全くない。警察と組んで事件解決、だとか、奇怪な事件が依頼として舞い込んでくる、だとか、あんなのはまさにフィクションだ。現実はもっと夢がなくて退屈としたものである。
実際探偵という職業についている俺が言うのだから間違いない。現在進行形で俺はすっきりとしたほとんど物のないビルの一室で、せめて、というお情けで置いているデスクに腰掛けながら眠気覚ましのインスタントコーヒーをすすっている。
ブラックコーヒーの苦さと開け放った窓から入り込む光の眩しさが覚醒を促してくれた。昨日のアルコールがまだじんわりと残っている頭は、痛みを訴えることはないもののじっとりと重い。こんなとき蜆の味噌汁でも作ってくれる嫁か彼女かがいれば違うのだろうが、そんな存在は俺にはいなかった。
「ま、いたらこんな仕事してねぇか……」
もしそんな存在がいたら探偵業なんか畳んで、どこかの会社に籍を置いて家族のために汗水たらして働いていることだろう。だがそんなものは夢のような存在であり、夢は見ないと決めている。正直こんな奴のところに嫁に来る女なんていないだろう。
仕事と言えは猫さがしか人捜しか浮気調査。人の秘密を暴くのがほぼメイン。性格のいい仕事とは言えない。ただ何がいいと言えば定期的に仕事さえくれば稼ぎがいい。なんとか色々とコネを使って軌道に乗せたこの事務所はある程度定期的に仕事が来た。どういったコネかは伏せておくけれども。
「今日のご依頼は、っと……」
今日の分、として机の上に置いてあった書類に手を伸ばす。宛名のない茶封筒は普通すぎて味気なくて、まさに退屈なこの仕事を体現しているようだった。中身に目を通してみればそれはいつも通りの浮気調査の依頼で、ああ、やっぱり。とどこか冷めた気持ちになった。依頼人は政府高官、対象はその細君。添付された写真に写ったその御夫人は記載されている年齢の割には美しく、そして大分若く見えた。これが一昔前に騒がれた美魔女というやつだろうか。10か20年齢を偽っても許されるだろう。個人的な考えを述べてしまえば手を出したくなってしまう男の気持ちもよくわかる。既婚者と分かれば勿論アウトコースど真ん中だが。
「…………あーあ」
なんともなしにやる気のない声を出す。
こういう仕事はどうも気乗りがしない。男の浮気ならばまだ心の中で男を屑だゴミだと罵倒して皮膚のその下まで暴いてやれば気も晴れる。何度かそれをやったせいでいらない恨みを買ってしまったこともあるが後悔していない。だが女性相手となるとそれにも抵抗がある。あの柔らかそうな肌と細い手足、大きい目の潤む様子。庇護欲を擽るどころかわし掴まれるあの容姿にめっぽう弱い。事務的な報告だけをまとめて提出して、あとは御本人方だけでどうぞ。そんな仕事ぶりになってしまう。どうせ今回もそうなのだろう。相手の男にも心当たりがあるそうだし、あとはホテルに当たりをつけて監視カメラの映像でもあさってしまえばきっと証拠はつかめる。
終わらせようと思ってしまえば即座に終わらせることだってできる。そしてこういった気を滅入らせるような仕事はさっさと終わらせてしまうに限るのだ。
デスクの上に備え付けてあるパソコンのモニターを起動させ、まずは地図のデータを呼び出す。地図上には赤い点で逢引に使えそうな施設が点々とマークされている。その中からご婦人の活動範囲と愛人候補の活動範囲を除外し、また駅五つ分よりも離れた距離にある施設も除外して、残ったものの件数を見る。一応この周辺は開発も進んだ都会と言っても過言ではない地域だ。そういった施設はそれなりにある。それでも、ある程度の数は絞れるものだ。一応、両手足の指の数よりは下回る数までにはなった。両手まで絞りきれればよかったがそれは高望みというやつだろう。あとは監視カメラの映像を入手して、それをただ何も考えることなくその映像に目を通していけばいい。少々、手に入れるまでが面倒だが。
「前とパスコード変わってなかったらいいんだけどなぁ……」
そんなことはない。なんて自分自身に返してやりながら背筋を伸ばして指を鳴らす。こんな時でしか着けない眼鏡の位置が気になってかちゃかちゃと何度か直す羽目になった。最後の準備とばかりにキーボードに貼られた滑り止めシートの調子を確認して、一度シャツの腰部分に手を擦り付けてから手を所定のキーの上に置く。
細く長く息をつく。目がちかちかとしてこれから訪れる痛みを予感させてきた。でもやめるわけにいかないのがこの仕事の嫌なところ。色々と情報をもらってしまった以上「いやいややっぱ無理です」とは言えないのだ。
「あーやだやだ、こんな仕事」
選んだのは俺だけども。
そこからほぼ半日という時間、俺はモニター以外のものを見ることも、他の音を聞くことも、もちろん動くことすらなかった。
画面にびっしりと埋め尽くされたプログラム言語。上から下へとそれは一定速度で流れ続け、いくつかの項目は俺の手によって所々書き加えられて別のものへと変わっていく。熱を上げる機体が冷却ファンによって冷やされる音がゴウンゴウンとうるさく響いた。目が忙しなく動く、上から下へ。指先も休むことなくキーを叩き続ける、それは一つの狂いも許されない。
高々映像データを奪うだけでどれだけの疲労を体に強いているのか。
これは明日は動けるかどうかもわかったもんじゃない。
まだ頂上へ登り切っていなかったはずの太陽はもう既に落ち切っていて、昨日見つめていた暗い空が再びそこには現れていた。
だがそれを今見るつもりもそんな気分でもなかった。
パソコンを開いたなら、どうせ疲労を抱え込むならばそれは一度がいい。
机の上から無造作に掴み取ったのは一枚のメモであった。
フィンレイ・テイラー。ビジネスマンらしい走り書きの文字で書かれた名前と連絡先。俺はパソコンを操作してまずは名前を検索に掛けた、だがヒットした顔ぶれに昨日見たあの男の姿はない。昨日の男の身なりを思い出す。それは簡単に掘り起こされてきた、グレーのスーツにオールバックに固めた黒髪。そのスーツの価値はおそらく高い。オーダーメイドだと言われても納得できる丁寧な仕立てと滑らかな生地。公務員であっても特に高い地位にいるはずだ。俺のターゲットとして挙げられてくるならば尚更、そうでなければおかしい。
なのにヒットはゼロ。
情報操作。浮かんだ一つの言葉が頭の中にぴたりとはまった。
そう言った細工が出来るところは限られてくる。政府関係者、省庁関係者、その中でも地位の高いもの。あたりはついた、あとはそこをさらっていくだけである。だがそれにも何時間かかることか。
「一息入れるか……」
すっかり根を張りそうになっている椅子から腰を上げ、節々に痛みを感じながらも足を伸ばす。そういえば朝のコーヒー以来胃に何も入れていない。ちょうど頃合だし何か食いに行こうかと財布をポケットに突っ込んで事務所から外に出る。取り付けた二重の錠前でしっかり扉をふさいでから階段を二階分降りて地面に足をつく。一階と二階のオフィスからはもう電気が消えていた。爛々とつく自分の職場の電気に苦笑してから、どこで食おうか思案しながら歩き出す。
どこがいいだろう。四番街のファストフード、三区画先のサンドイッチ、通りを挟んで向かいの中華料理店。遠出をする気はないにしろ、選択肢は山ほどある。いつもは食いたいものを決めてから出るために即決して店へ向かうが、たまにはこうやって迷うのもいいだろう。気分転換も兼ねられてちょうどいい。
少し季節はずれかもしれない黒のジーンズの足をゆったり動かして、凝り固まった肩をさりげなく紺色のシャツの上から揉みながら歩く。まだ二十代ながら年を感じる、そんな仕草で街を渡る。
随分と気分がいい、心の臓が解れて、リラックスできているのがよくわかる。もう帰りたくない、このままふらふらとしていたい。許されるならどこかで一杯やりたい。そう思った。
「シャーリー?」
その声で、その名前を呼ばれるまでは。
振り返るとそこには、どうにも見慣れない男がいた。
長めの、空色の目を少し隠す長さの髪の毛。目元と口元についている色っぽい黒子。黒いVネックに袖を捲ったカーキ色のカジュアルシャツ、白のクロップドパンツといったラフな格好。
どうにも声とは結びつきそうにない容姿をしている。だがしかし声は間違いなく頭の中に浮かんだ人物のそれであるし、そもそも俺のことをその名前で呼ぶのは一人しかいない。
「フィン、……か?」
「ああ、やはり。昨日とは恰好が違うから戸惑ったかな」
本人だった。さっきまで俺の頭を悩ませていた張本人が、おそらく政府筋の重要人物であろう人間が、こんな街中にラフな格好で一人で。
「な、何してんだアンタ!!」
「何とは……ちょっと遅めの夕飯を。ついつい昼寝……いや、夕寝をしてしまって」
たまには外に出るのもいいかと思ってね。などと至極軽い様子でフィンは言った。少なくとも俺のような男をけしかけられるような存在なわけでがこの男はその点を自覚しているのだろうか。しかもそういったものへの備えもその軽装では期待できないだろうし、まさに不用心といった感じだ。立場も忘れて溜息が出る。
「やぁ、でも君に会えるなんて幸運だ。この近所に住んでるのか?」
「……まぁ、そんな感じ」
「ならいい!おすすめの店でも紹介してくれないか、お礼に奢ろう!」
「ちょっ、はぁ!?」
ぐいぐいと手を引かれ当てのない方向へ足を動かされる。
案内を白と言っておきながらこの強引さはどういったことだろう。手を引いている本人は実に楽しそうで、今に鼻歌でも歌いだしそうな顔をしていた。
「フィン!止まれ馬鹿!」
掴まれた腕を逆に引き返しなんとか止まらせる。少し驚いた顔で振り向いたフィンの黒色の頭を空いた手でぐしゃりと掻き混ぜる。
「どうかしたかね」
「逆方向だ!!」
結局俺の胃袋はガッツリ物を貯めこむよりじんわりと焼かれることを選んだらしい。九丁目、少し離れたところにあるつまみの上手い酒場。俺がフィンを案内したのはそこだった。
そこはもう遅い時間であるためか、酒場はにぎわいを見せていた。昨日訪れたバーとはまた違った雰囲気と、むせ返るようなアルコールの臭い。すたすたとカウンターまで何でもないかのように足を進めると、その後ろにぴったりとフィンがついてくる。カルガモにでもなった気分だ。
「よぉマダム。久しぶり」
「ああ、よく来たね色男。今日は御仲間も連れてきたのかい」
「御新規の客、呼んできたぜ。それと色男はやめてくれよ、そんな大層なものじゃねぇの知ってるだろ」
カウンターの奥にいる女性に話しかけると一つ二つと軽口が飛ぶ。すらりとした身体、つややかな髪、整った顔のパーツ。極上の女と称するにふさわしいその女性はこの酒場の主だ。ここに来る客は彼女に敬意を表して彼女を「マダム」と呼ぶ。彼女が本当にそう呼ぶべき身の上なのかは知らない。だが彼女がそう呼ばれて返事をするものだから、皆そう呼んだ。
「謙遜はするもんじゃないよ、色男。御新規さんはありがたくいただくがね。こっちもお前と負けず劣らずの色っぽさじゃないか」
「初めまして、マダム。貴女のような美しい方にお会いできて光栄だ」
髪を掻き上げ昨日の姿にほんの少しだけ近づけると、フィンは笑顔でマダムに挨拶した。ありきたりの世辞だがそういった言葉の方がマダムにはよく響く。技巧を凝らした言葉は薄っぺらいと以前彼女は言った。どうやら気に入ったようでフィンの事をじっと上から下まで眺めたマダムは、俺とフィンの前に一つずつグラスを出した。
「御新規さんにサービスだ、一杯奢ってやるよ。色男、あんたもついでだ」
「「ありがとう、マダム」」
現金なことに俺たちの目はマダムを通り越して後ろにある酒の棚にいく。ビール、ワイン、ウィスキー、いろんな種類の酒の瓶や樽がそこにはある。一度入れてもらったことがあるそのカウンターの下にはリキュールやシロップ、果実などが置いてある。ここに来れば飲めない酒というのはめったにないだろう。
でもここは酒場だ、雰囲気から、カクテルのような甘い酒を飲むのはどこか気がひける。実際ここでカクテルを頼んだのだって片手で足りるくらいの数なものだ。
「シェリーがいい。辛口で」
「アモンティリャードだよ」
「構わない、ついでに軽食をいくらか頼む。二人とも胃が空でね」
「あいよ」
作って来るから場所かわんな。
そう言ってマダムは自分の城からするりと抜け出た。奥にある厨房への扉、そこをほんの少しだけ開けてその隙間にするりと入り込む様子は猫のようで、彼女の顔立ちと少しだけリンクする。
俺はと言えば彼女の言葉通り、元々彼女のいたその城内へと入り込む。少し行儀は悪いがカウンターに腰掛けて足を上げるようにしてなんとか内側に入り込んだ。なんとか無事に着地すると、ばちりとカウンターを挟む形になったフィンと目が合う。
「長く扇情的な脚を持つと苦労するようだ」
「皮肉は結構だ、注文は?」
くすくすと笑うと彼はまた奥の棚へと目を向けた。きょろきょろと何かを探しているようにも見える。彼が飲むとしたらなんだろうか。優男な今の見た目に合わせるならば洒落たワイン。シックな機能の装いに合わせるならばウィスキー。ずっしりとくる低い声に合わせるならビールが似合いだ。流石にカクテルはあるとバレたとしても作れない。そこいらで妥協してもらうしかないのだが。
「カシスソーダ」
「おいおい……ビンゴかよ」
こういう予感はすぐ当たる。
今日はどこから推測を立てたのか、出ないわけがないという確固たる自信の元フィンは変わらぬ微笑みで告げてきた。
どうもバツが悪い。ついつい頬を掻きながら頭の中で考えていた至極まっとうな言い訳を吐き出す。
「マダムが来るまで待てよ。俺に作れるわけないだろ」
「やはりメニューにはあるのだね」
「ああ、ご名答だ。道筋は言わなくていいぜ、俺がアホ面晒すだけだ」
手をひらひらと揺らしながら苦笑する。その様子を見ても奴はオーダーを変える気はないらしく、どうやらこのままマダムを待つようだ。爪を撫でたり、甲から指先までのラインを辿ったり、手遊びをしながら時折眼鏡越しに視線を送ってくる。
だがこちらに答えている暇はなかった。俺の姿を見つけた顔なじみが時折酒をねだりに来る。それを一蹴しながらちゃんとした客に酒を注ぎ、時折奥へマダムの様子を見に行けばまだまだ掛かると今度は俺が一蹴されて。もう一度言うが夜も更けてゴールデンタイムと化している酒場のカウンターだ。やってくる、体を預ける人数は半端じゃない。これじゃただの体のいいアルバイトだ。これは酒一杯分、フィンのも合わせて二杯分でもきかないぞ。
「君は人気者のようだ」
小さく呟いて、フィンはつい、と自分のグラスを前へと差し出した。その意味を図りかねて目の前の男の顔を見つめ返すと、最初からずっと変わらない、そこには微笑みがあるだけだ。
「いや。私のお酒がまだだよマスター」
「は?」
トントン、と小さくグラスのそばを指で叩く。すぐその指はひっこんで、相方の手と絡んでは不敵なポーズをとった。カウンターに突いた肘、絡められた量の指は口元を隠す、そして目は上目使いでこちらをじっと見た。
完全に落としに来ている仕草だと思った。だが無理なものは無理である、今はほんの少しだろうがここのカウンターを預かる身だ。マダムの名前が肩に乗ってると言ってもいい。そんな状態で半端な酒が出せるかと自分に問えば全力のNOが返ってくるのは当たり前だ。
「…………もうしばらくお待ちを」
「もう飽いたよ。不味くてもいいから君に作ってもらいたい」
お前が構わなくても俺が構うんだよ気づけ。
なんてことが言えたらよかったのだが、少なくとも今は無理だ。
目の前から刺さってくる……というより生暖かく期待しているような視線に耐えきれる気がしない。
お願いだ、早く帰ってきてくれマダム。必死に顔をそらしながらそう祈るが、決まってこういう時の願いというのは裏切られるものだと知っている。
「何やってんだいあんたたち」
今回はいい方向にだったけれど。
「マダム」
「ほら、軽食。さっさと向こう戻りな」
「あ、ああ……」
行きと同じように帰りもカウンターをまたぐようにして戻る。マダムから一度小突かれたが痛くはなかったので良しとしよう。大人しく場所に戻った俺の前には先ほど頼んだ酒の入ったグラスが鎮座していた。相変わらず手際がいい。口をつけようとグラスを上げる。
「なんだい色男、あんた酒の一杯も作れないのかい」
「!!!???」
「私がいくら頼んでもだめでね」
「あんなもん材料混ぜるだけじゃないか!」
まさかの告げ口に開いた口が塞がらない。
ドンドン、とカウンターに叩きつけるように置かれた二つの瓶。マダムからの痛い視線と先ほどから変わらないフィンからの視線。その二つから逃げるように背を向ける。
「作ってやんな。分量間違えたってそんなひどい味になりゃあしないよ」
すっかり敵にまわってしまったマダムはノリノリだ。こうなってしまえばもう仕方がない。
「どんだけ不味くても文句言うなよ」
言ったら帰るからな。
そう念押しして瓶を手に取る。カシスリキュールを一滴指に落として濃さを確認する。割るのはいつも飲んでいる炭酸水だ、硬くなることもない。マダムから大体の量の目安を聞きながらグラスに落としていく。普通は専用の器で量って落とすものだがここは気取ったバーではなく気安い酒場だ。そんなものを置いているはずもない。
リキュール45に炭酸105おそらくそれくらいの割合で注いで、フィンご希望のその酒は出来上がった。
高々いっぱい作るだけで精神的な疲労がひどい。こんな事だったら適当でいいから一人の時に作ってやるべきだった。
「ありがとう」
要望が叶ったフィンはすっかりご機嫌で、一口二口とどんどんそのグラスの中身を減らしていっていた。時々グラスの中身に目線を向けて、それから俺に移して、どこかうっとりとした様子でいる。鼻歌でも歌いだしそうなその整った顔が今はほんの少し憎い。
「美味い。私が今まで飲んできた酒で一番だ」
「ああそうかい、それはよかったことで」
もう軽口を返してやる気力もあまりない。自分の分の酒を作ってもらったクラブハウスサンドと共に胃に押し込みながら、人心地ついたと息を吐く。
周りは入ってきた時と変わらず賑やかなままだ。時計を見るともうそろそろ12時を回ろうとしている時間。あと二三杯飲み交わせばまた彼とはバイバイすることになるだろう。そう思っていたのだが、今度はほんの少し悪い方に予想が裏切られた。
「すまないね、シャーリー。私はそろそろ行かなくては」
時計を確認しながらフィンが一言言った。その声は喧騒に埋もれるか埋もれないかの音量で、内容のせいもあってか、俺に「え?」と間抜けな顔で聞き返させた。
「これから一仕事入っていてね。埋め合わせはまたするよ」
「今日偶然あっただけの男が何言ってんだよ」
「また会うさ、きっとね」
その自信はいったいどこから来るのか全く理解が出来ない。財布から札をだし、この前のようにグラスの下に挟む彼の指をじっと見ていた。そこそこに焼けて、皮膚が硬くなって角ばっている男の手だ。一杯で随分頭に酔いが回ったらしい。その手から視線が外せなくて、これがもうもう見れないんじゃないかと思うと歯がゆさすら生まれそうだ。
もしやかもの問題ではなく、接触してはならない対象であることは棚にあげられてしまっている。ふざけるな俺、その荷物をさっさと床にでも叩き落としてしまうといい。
「じゃあ、また」
二つ折りの財布をパタンと閉じて、男はきびきびとした足取りで酒場から姿を消した。
残された俺はマダムと二人きり、むせ返る匂いの中こっそりと頭を抱える。
「アンタもやるねぇ、色男」
一杯のグラスを俺に差し出して、マダムはルージュで染まった唇を三日月形にして言った。
「あの御新規さんからだよ。アンタらもおアツいこと」
グラスの中身はさっき作ったばかりの赤い色をした酒だった。
ああ、頭が痛い。今は酒なんか見たくない。
出されたそれを憎いとばかりに飲み干して、グラスをカウンターに叩きつける。
酩酊する頭、ちかちかと金色の光が頭の中をよぎるのだ。
「厄介すぎるぜ、畜生……ッ!」
ちらりと見えた財布。開けないと見えない内側に刺さった警察バッチ。この光はあれと同じ色をしていた。


「カシスソーダの囁き」
(カシスソーダ:あなたは魅力的)

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