キールに融けた思考


空が好きだった、それも日の落ち切って黒く澄んだ夜の空が。
子供の頃はそれくらいしかすることがなくて、草の上に寝転んでは雲の行き先だとか星が全部でどれくらいあるかだとか、そんな途方もないことを考えていた。
その行動は今ではすっかり癖になってしまったようで、草の上ではないにしろ、俺は今でも空を見上げている。
体温でぬるくなったコンクリートの上で、ビルに囲まれて狭くなった空を、たった一人で。
昔に比べて筋肉やら骨やらで重くなった手を持ち上げて、一つ一つの星座をなぞることだって忘れない。
あれはこと座のベガ、あれはわし座のアルタイル、あれは白鳥座のデネブ。さそり座の尾に触れてみたり、たて座の曲線をゆるりと撫でてみたり、そんな遊び。
そういえば昔、母さんに教わったっけ。あの星たちは死んでしまった人たちで、俺たちをずっと見守ってくれてるんだって。
子供の俺は馬鹿正直に鵜呑みにして、毎晩祈ってみたりしたけれど、いつのまにかやめてしまった。
あんな習慣、やめておいて正解だろう。
なんてったって俺は今、そのお星さまを増やす仕事をしている。
「さぁて、お仕事といこうか」
コンクリートから背を離して起き上がると、目の前には星と近しい人口の光が満ちていた。
ちかちかと目の細胞を刺激する。穏やかな光に慣れきった目がその暴力に涙する。
服の袖で荒っぽく目元をぬぐうと、俺は傍らに置きっぱなしにしてあった相棒に手をかけた。
暗闇に紛れたそいつはずっしりと重く、だがしっくりと手に馴染む。
持ち上げて膝に乗せると、撫でたくなるほど滑らかで硬質な身体がそこにはあった。
子供のころの自分はこれが本物だと信じるだろうか、幼いころはそれなりにモデルガンに興味を持った時期もあったが、それと間違えることだろう。
だがこれは本物だった。
PGM Ultima Ratio Commando2 Rifle
フランスで開発された軍用ライフルである。
悲しいかな、これが今俺が一番信用しているものである。
それは雲一つない空から覗く月光に照らされて、自信たっぷりにその光を反射している。
それを膝から降ろし、きちんと立てて固定してから俺は一つ息をついた。
これを使ってすることなど一つに決まっている、しかもこれが初めてではない。
だが憂鬱に思うなというのも無理な話だろう。俺がこれからやることで、何人の人間が路頭に迷うことか。それがわからない程俺は馬鹿じゃなかった。
「でも、やるしかないんだよなぁ……」
相棒の傍に寝そべりスコープを覗く。
オキュラーレンズにはいつも通り曇りの一つもない、どんなに遠くだって俺に見せてくれることだろう。
今日それが見せるのは向かいのビルの中腹、とある会社の重役が使っているフロアである。
そこに一人の男がいる。身なりがいい、年は五十代といったところだろうか、執務室と思われる部屋にいる、一人きりで、もう日付も変わろうとしている時間に、パソコンを凝視して。
「何を見ている……」
ああ、俺の悪い癖だ。そんなことは今回の仕事には全く関係ない。
知りたがりはこの業界じゃあ長続きしない。そんなことはわかりきっているのについつい、考えてしまう。
どうせ帰ったらあの端末をハッキングでも何でもしてしまうのだろう。我慢弱いのも俺の短所だ、直さなくては。
今こうしていられるのも、恐らくは仕事の功績と上の気まぐれなんだろうから。
無駄な思考をすべて追い出してスコープの先に集中する。
男は先ほどの位置から動いてはいない。照準を合わせて、セーフティーを外し、引き金に指をかける。
心臓、肺、脳、これらの臓器の動きをリンクさせるようなイメージ。
息を吸って、吐いて、また吸って、止める。
苦しくなった体の感覚を指先と目に集めて、じっとタイミングを待った。
男はまだ動かない。椅子にずっしりと腰を沈めて、目の前をじっと見つめている。座り心地が悪いのか、腰の位置を直している。一回、二回と浅く座って、三回目は深く……今だ。

ドシュッ。
カチャン……

この音は、実はこっそり気に入っている。
重く腹の中に潜り込んでくるような発射音と、吐き出される薬莢がアスファルトにぶつかる涼やかな音。
そして目の前の景色はあまり面白くない。整然としていたはずだった執務室は汚い赤色が飛び散って荒れ果てた。
これ以上見ているのはどうも気持ちが悪い。スコープから目を外せば、あの景色は本来の距離である1キロ向こうへ離れていく。
うえ、とわざとらしく呟いてから、俺は体を起こして撤収の準備を始めた。
まだ温かいサプレッサーを外し、ストックを畳み、各パーツを分解してケースにしまう。
落ちた薬莢は記念品だ。ジャケットの内ポケットにしまいこんだら、左胸をポンポンと叩く。家に帰ったら日付を刻んで飾っておくとしよう。もう何個目かもわからないコレクションの一つになる。

PiPiPi

撃ってからきっかり3分で撤収作業は終了した。早いことはいいことだ。そのアラームを兼ねて鳴り響いた着信に、俺は少し顔をしかめながら通話ボタンを押す。耳に取り付けたインカムからは、ボイスチェンジャーか何かを使って歪ませた声が入り込む。
「確認した、ご苦労」
「今回もちゃんと『お使い』は出来ただろ?」
「ああそうだな、先方も満足だ。報酬は払っておく」
「それさえしっかりしてくれりゃあ文句はねぇさ。もう切るぞ」
話しながら、俺の足はすたすたとビルの非常階段を下っていた。背中にずっしりとしたケースの重みがのしかかったが慣れたもの、一歩一歩確かな足取りで下へ下へと目指していく。
耳のインカムからはまだ電話の声が響いていた。さっさと切ってしまいたいのに。
「30分後に次の仕事のメールを送る」
「おいおい、そりゃあちょっとはや」
「じゃあな、ディジェスティフ」
無情にも俺の言葉を断ち切って通信は切られた。恐らく言葉通り30分後には次のメールが届くことだろう。
この仕事をしているとブラック企業なんてまだ優しいものだと思えてくる。
脱力してしまった体はぐったりと手すりにもたれかかった。
「ディジェスティフ、ねぇ……」
フランス語で食後酒。この仕事をする上での俺の名前。
初めての仕事の時、先ほどの電話の相手に世間話をしたのだ。仕事終わりは酒に限る。浴びるほど飲んでこの胸糞悪い気分を紛らわしたい。と。
おそらくそこから来たのだろう。二回目からの仕事のメールの宛名はディジェスティフへ、となった。
何回訂正を入れようがそれは直らない。そして俺の仕事終わりの酒はついに習慣となった。皮肉なことである。
こうしている今も、喉元がアルコールを求めてひくりと鳴った。
「さっさと行け、ってか?」
自分の体にさえ溜息が吐けてしまう。
近場のバーを頭の中で検索して最短ルートを検索してみると、一番近いのはまさかの先ほど仕事をしたビルの隣だ。でかい市なら一軒くらいは抱え込んでいそうな高級ホテル、その最上階。普通の人間ならばそんな危ない橋は渡らない。死体が転がったまま放置されたビルの隣、つまりいつ警察が来てもおかしくない場所。そんなところに犯人たる自分がのこのこ行くか?答えはノーだ。普通なら。
「………………行こう」
どうやら俺は普通じゃないらしい。
さっきよりもずっと速い足取りで階段を下る。非常階段だ、誰にも会うこともないし、監視カメラすらない。あったとしても現場から1キロ離れたビルなんて調べるわけがない。そう思うとなりふりも構わないものだ。最後の4,5段を飛び下りるとビルの外へ。もう
夜も更けかけているというのに通りは人が多かった。これから夜の街へ繰り出すのだろう、そんな彼らの中へ紛れ込む。
背中のケースはどこかに預けたほうがいいだろうか、この格好で行って火薬の匂いはしないだろうか。
そんな毎回考えている悩み事をただ頭の中で彷徨わせるだけで時間は過ぎる。
そこはもう目的のホテルで、気づけばエレベーターに乗り込んでいた。こういう時スーツを着ていると楽だ、着替える手間をかけなくて済む。
エレベーターの扉が開くと、さりげないジャズの音が耳をくすぐって心地が良かった。酒に火照った身体にはちょうどいいのだろう若干強めな冷房が、やっと着いたという実感を沸かせる。店内は意外にも人がまばらで、ちょうどよく空いていたカウンターの端を陣取る。
暗いと思われるかもしれないが、こうした目立たないところでちびちびやるのが好きなのだ。時折話しかけてくるものが居たりするが、そうした奴は好きじゃない。
「ご注文は?」
聞こえるのはバーテンの低く落とした声だけで十分だ。
「フラッシュ・バック」
酒さえ届いてしまえばこっちのものだ。舐めるようにちびちびとやって、飽きたら飲み干して次の酒へ。胃で混ざり合おうが気にはしない、つぶれることも半分目的だ。
「フラッシュ・バックです」
やってきた赤色は目にも鮮やかだった。先ほど見てきたものとは雲泥の差がある。
ほんの少し含めばじんわりと咥内と喉に熱を持たせて、涼しいと感じていた空気がすぐに適温になる。
これが必要なのだ。赤を塗り替え、高揚をすり替え、また明日を何事もなかったかのように送っていくための準備が。
幸い味も悪くはない、あたりと呼んでも差し支えはない。
今日はこれで潰れてしまえ、そう思って、俺はまた少しだけグラスの中身を口に含んだ。口の中で転がして嚥下する。
ちびちびやるといっても時間がたてばそれなりに量も増える。
3杯目を飲み終えたときにはもう終わりにしようと思えた。
足はまだ大丈夫そうだが頭がくらくらとしてきた。今ベッドにもぐりこめば即座に眠りに落ちることだろう。
財布から取り出した札をコースターの下に挟み込む。
このまま夜風に当たりながらゆっくりと歩いて帰ろう、そう思って腰を上げかけたその時だ。
「キールです」
目の前に置かれた新しいグラス。その中では先ほどまで飲んでいたものに近い赤色がゆらりと波を打っていた。
もちろんこれを頼んだ記憶はない。
顔を上げてバーテンの顔を見ると、柔らかな笑みを浮かべて左手で指し示す。
「あちらのお客様からです」
こういうのは男が女にやるのが定石なんじゃないだろうか。
示された先にいたのが女ならまだ許せたが、どう見てもそこにいるのは男。しかも俺より年上に見える。グレーのスーツの趣味は悪くないが、オールバックに固めた黒髪はどうもお堅そうだ。そいつは俺が目線を向けるとどこか渋い、女好きのしそうな微笑みでこちらに手を振った。
「隣に行っても?美人さん」
寒気がした。お堅そう、と言った先ほどの印象をそっくりひっくり返すようなセリフである。
そして男は答えも聞かないまま俺の隣にやってきた。一度は俺のグラスの底にある札に目を向けたが何も言わない。無視を決め込むつもりらしい。
「何だ、あんた。俺はもう行くぜ」
ついつい下げてしまった腰をもう一度上げる。
癪だがこのまま奢られるわけにもいかず、財布からもう1枚札を取り出してグラスの下に押し込んだ。だが押さえつけられるべき札はふんわりとしたまま、俺の手に重しになるグラスはない。
「あと一杯だけだ、飲めないのかい」
「元々出るつもりだったんだ、タイミングの悪いあんたの落ち度だろ」
「君に見惚れていてね」
「あのなぁ、そういうのは女に言いな。男が好きなら余所に行け。俺にそっちの気はねぇよ」
「私は君に惚れたのだよ」
「しつけぇ男は嫌われるぜ」
バーテンは成り行きを見守っているようだった。
周りを見てみると残った客は俺とこの男だけで、慰め程度だったジャズの音量が少しだけ上がっている。
ちらりと時折かち合う視線が居た堪れない、というか痛い。
出すもんは出したんだ、さっさと帰っちまえばいい。
そう思ってついに席を立とうとしてみれば掴まれた右手が痛い。
「このしつこさが売りでね」
ふざけんなおっさんぶんなぐるぞ。なんて子供みたいなことは言えなかった。血管が狭まるほど握られているのか、手先にじんわりと熱がたまる。やめてくれ、指先は商売道具の一つなんだ。睨もうものならまた微笑みで返ってきそうだからやらないが。
「放せよ」
「一杯だけでいい」
「ほんっと気持ちわりぃ。触んなよホモ野郎」
「振りほどけない力でもないだろう」
嘘つけよ、ミシミシ鳴りそうだぜ。なんて言ったら負けを認めるようなものだろうか。
もう逃げようとするのもだんだん面倒になってきた。
そもそもなんで逃げようとしてるんだ?酔ったから早く帰りたい?酔いなんてとっくに醒めた。避ける理由がすでにない。さっきつい言ってしまったがホモが気持ち悪い?…………いまどきそんなもん山ほどいるもんだしなぁ。
「…………わぁったよ、一杯だけだ」
これが最後だ、この一杯で気持ち良く酔い直して俺は帰る。
3度目の正直な座り直しを行い、すっかり汗をかいたグラスに触れる。
一口含めば、やってくる熱さはフラッシュ・バックよりは低い。ワインベースというところからだろう。でも透明感のある色はこちらの方がずっと好みで、飲むというよりずっと見ていたかった。
男の望むとおりになってしまうとはわかっているけれども。
「赤が好きかね」
「……それなりに」
男はにこにことこちらを見ている。それがなんとなくイラついてまたグラスの中身を少し減らした。
男はいろいろと話してくれた。
名前はフィン。年齢は30(俺の4つ上だ)。職業は公務員(お堅そうってのは合ってた)。趣味は酒飲み。今のところこのホテルを仮住まいにしてる、理由は教えないそうだ(興味もない)。男にしか反応できない身体らしく、そのせいでもちろん独身(2回目だが興味がない)。とにかく、聞けば聞くほど呆れた身の上だと思った。
「君の名前は何というんだい、美人さん」
「あんたに名乗る名前はねぇよ」
お返しにとでもいうような問いかけに答える気はしなかった。本名を答える気はさらさらないし、別に適当な偽名であしらっておけばいいのだが、どうもその適当な名前が見つからなかったのだ。
「つれないね」
「簡単に釣れるやつが好みならその手の店に行くんだな」
「冗談」
釣れなさそうなものを釣るのがいいのだと男は言った。ツンとすまして、興味なんて全くない、といった顔を見せる人間を虜にするのが楽しいのだと。
反吐が出る。
「俺の酒、もうすぐなくなるけど」
にっこり笑いながら意地の悪い言葉を吐く。
余裕ぶって笑っているこの男の慌てる顔が見たい、というちょっとした悪戯心から。
別にそんな顔が見れなくても、まぁそれくらいの遊び相手なんだな、っていう感想くらいなもの。大して意味のない言葉遊びだ。
そんな遊びに対する答えがなんだ。
「では、少し本気を出すとしよう」
こいつ、すっげぇ大人げねぇ。

*  *  *
結果を言うと、最後の一杯、と言われていた酒は二杯、三杯と化けていった。
あの男の本気というのが凄かったのである。凄かった、という表現は陳腐だと自分でも思うが、凄いとしか言えない程だった、と思ってほしい。
何が凄いのかと聞かれればその話術と観察力だ。
豊富な話題、俺の一挙一動から興味のあるなしを判別する目、耳に心地いい声色と、それに含まれる熱。
完全にペースに乗せられた。
こんなところにわざわざ来ているところから酒好き、ということはばれると思っていたが、まさか天体観測の趣味や本来の職業までばれるとは。
「大丈夫かい、シャーリー。一人で帰れるかな?」
心配というものを張り付けた顔で男は白々しくもそう言った。
シャーリー、というのは今男の読んでいる小説の主人公で、女探偵なんだそうだ。女であることは差し置きつつ、探偵。俺の本職である。本当に、どんな所からその答えに行きついたのか、正直皆目見当がつかなかった。俺なんかより、こいつのほうがずっと向いてる。
「送り狼はごめんだ……ゆっくり酔いでも覚ましながら帰るさ」
「タクシー代くらいは出させてくれるね?」
「女じゃねぇんだ、放っておけよ」
なんだかんだで男、フィンとはそれなりに好意的に接するようになった。単純と言えば単純だが、大の男二人が酒を片手に共通の趣味で何時間も話し込んだんだ、仲良くならないほうがおかしい(勿論恋愛感情的なものは芽生えていない。向こうは知らないけれども)。
話を切ったのは俺でもフィンでもなく、閉店時間を告げるバーテンの申し訳なさそうな声だった。まだまだ話足りない、といったふうにフィンは連絡先のメモを寄越す。
「最近は暇を持て余している、君のためにならいつでも時間を空けよう」
「……まぁ、気が向いたら」
仲良くなった、と言っても最後の最後まで俺は釣れないままの男だったらしい。
店、というかホテルを出ると空は雲で覆われていて、あれほど見えていた星は全く見えなかった。
折角いい酔い覚ましになると思っていただけに残念、少々ふてくされながら家までの長い道のりを少しずつ歩き出す。
そういえばずっと忘れていたことがあった。
『30分後に次の仕事のメールを送る』
今更になってあの上司の電子音が浮かんだのだ。
とうの昔に約束の30分は過ぎ去って、過ぎ去ってから何時間経ったのか。受ける受けないにしろ、今夜中に返信した方がいいのだろう。そしておそらく、受けないといっても強制的に受けさせられるのだろう。さっきの電話の様子からしたら明らかだ。
とにかく、とポケットから端末を取り出してメールを確認する。
それは確かに電話のきっちり30分後に届いていて、俺を苦笑させた。
「さぁて、今回はどんな……」
言葉が止まる。ああ、そうさ、当然だろう。なぜなら、そのメール画面には、
「はは、冗談きついぜ……」

【Toディジェフティフ
ターゲット:フィンレイ・テイラー
宿泊先:ホテル・アレクシア
方法、時間指定ともになし
ただし、期日は三週間後までとする】

こんなメール画面と共に、先ほどまで酒を飲み交わしていた相手の写真が添付されているんだ。
二回目の酔い覚ましは、血の温度を一気に下げる。まだ深い仲になったわけでもない、殺そうと思えば抵抗はないはずだ。それなのに。
「っ、こいつは、御似合いだな……」
酔わされていた脳髄が、ひくりと笑った。




「キールに融けた思考」
(キール:最高のめぐり逢い)

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