枯れた涙は目に染みる

僕がいつもいる心の中の空間というのはいつも心地が良かった。
いつも包まれているような感覚。体温に近い柔らかな暖かさが体中に触れて回って、微睡から抜け出せない。いつヨハンが僕を必要とするかわからないからうっかり眠るわけにはいかないのだけれど、ここは気持ちがよすぎる。足の先からとろとろに溶けてしまって、いつこの空間の一部に還ってしまうかわからない。それは「僕」というこうしている意志を亡くすということだから、やっぱり少し怖いけれど、まぁそれでもいいかな、なんて、僕は愚かしくもそう思っているのだけれど、僕とぴったり同じ手がそれを止めてくれる。
うとうとして感覚のなくなりかけた僕の手を痛いくらいに握って「寝てんじゃねぇ」なんて憎まれ口を聞いてくる。痛いよ、って何度僕が言っても放してくれなくて、その手が必死そうに見えて、まるで小さい子供みたいで可愛くて、僕は大好きだった。ちょっと意地悪してこの中に閉じこもるくらいには、気に入っていた。それなのに、今はそれが

ない。

「ヨハン……?」
それは唐突に訪れた。最初に感じたのは、胸の中に感じた嫌な軽さだ。いつも二人分抱えているこの胸はどこかずしりと重くて、苦ではなかったけれど、ほんの少しだけ僕らの歩みを鈍くした。重ねて言うが、本当に、心の底から、苦なんかではなかったのだ。体の異変を訝しんで、僕は片割れの名を呼んだ。目を押さえて、あの空間へ還ろうともした。だが何度呼んでも彼からの応えはなかったし、目の前には黒がポツンとあるだけだ。何もない、寂しい、陳腐な表現だけど胸に穴が開いたような、その穴からどろどろとした焦燥が生まれて。寝起きだった僕は何とか最低限の外に出られる恰好を整えて研究室まで走った。体が嫌に軽くて、いつもよりずっとずっと速く走れた。それが憎たらしかった。
「先生っ!」
駆け込んだ僕を先生はいつも通りの冷ややかな目で見ていた。支離滅裂になりそうな言葉たちを震えた指でなんとかかき集めて、僕は一言「ヨハンがいない」と、そう言った。その一言に先生は目を見開いてほんの少しだけ驚いて、それから、その外見に似合った、好奇心の強い少女のようなきらきらとした眩しい笑顔を向けてきた。
「あいつが消えた!そしてお前が残った!主人格が消えたか!」
そこから先生の動きが早かったのか、僕の頭が止まったのかわからない。気づいたときには先生はそこいら中に積み上げてある書類の山を喜々として崩していた。僕はただ茫然とその様子を見ている。山がひとつ、またひとつと崩れる。あの山は僕が作ったやつだ、あれはヨハンが作った。この部屋に集まってくる書類の数は他の学科の比ではなくて、二人で相談しながらどう分けるか決めたっけ。山の数がそろそろ二桁に入ろうかという頃、先生はようやく一冊のノートを掲げた。
「この日を随分と待ちわびたぞヨシュア。お前かヨハンか、それはわからなかったがずっと待っていた」
ぱらぱらとそのノートをめくり何か書き込むと、先生は僕の肩をつかんでにっこりと笑った。
「喜ぶといい、お前は私に愛される義務を得た」
愛される「義務」。その一言で察した。この人は、この女は、この科学者は、僕のことを、……きっともう、逃げられないのだと。
「まずは検査をさせよう。お前になにかあれば大きな損害になる。乗っ取りを企てる悪性の別人格というのはよくあることだが、お前は比較的良性だし、実際に乗っ取りが成功した例というのは酷く少ないからな……くそっ、最近のヨハンのデータを取っておくべきだった。あいつの最近の気味の悪さはこの兆候か」
乗っ取り?誰がそんなことを考えるものか、この女は何を言っているのだろう。僕が、どんな気持ちでここまで来たか、ここまで来てどんなに打ちひしがれているか。人のことが何もわかっちゃいない、これで精神心理学者など、笑えたものだ。ヨハンだって、気味が悪い?何を言う、いい兆候だったじゃないか。前に比べて随分と優しくなった。嫌いだった暴力も控えられるようになった、よく笑うようになった、きつい言葉も頻度は随分減った、友達だってできた。それを、気味が悪いなんて。そんな、あの子を否定するような……
「あなたなんて、大嫌いだ……」
そんな言葉とともに、ぼろぼろと滴が落ちる。ヨハンの中で僕が生まれて、それから今まで、初めて流した涙だった。目の奥が熱い、鼻がじんと痛む、胸の中が絞られていくように苦しい。震える手を口に当ててなんとか嗚咽をこらえるけれど、小さく漏れ出したそれはまた熱さと痛みと苦しさを増やした。
「……ヨハンの真似事か?やはり統合されると吸収した人格の特徴も多少は現れるものなのか……いいぞ、貴重なサンプルだ」
先生はどこか電話をかけていて、僕が睨むと嬉しそうに笑った。もう希望なんてない。僕は膝をつくと床に肘をついた。もう堪えることもやめてしまった嗚咽が垂れ流され、先生は電話を切った。目の前でハイヒールの靴音が止まったかと思えば、顔を上げろ、と頬に手が添えられる。
「さぁ、行こう。少し長い時間はかかるが問題ない。必要なものは向こうで調達すればいいし、休学届けは私が出そう。そもそも私の研究の手伝いだ、そのまま単位をくれてやってもいいが……お前は望まんだろうしな」
先生がひどく優しい。僕はこの優しさを知っている。
研究の手伝い、なんて笑わせてくる言い方だと思った。僕はこれからどうされるんだろう。カウンセリング、脳波のモニタリング、薬物の投与、カメラやレントゲンによる体内観察、場合によっては実際に体を開いて観察されるかもしれない。またここに帰ってこられるのは何年後だろう、そもそも帰ってくることなどできるのだろうか。ゆっくりと体を起こし、頬に残っていた雫を手の甲で拭う。綺麗な体、僕とヨハンが大事に使ってきた体。空っぽな体、今は僕一人だけになってしまった寂しい体。もうこの体に彼が帰ってきてくれることはないのだろう。きっとこの体はすでに僕を受け入れてしまって、少しずつあいた穴を埋めていくことだろう。いや、目の前にいるこの人に無理やり埋められてしまうのかもしれない。もうわからなかった、何もかもがごちゃごちゃにかき回されて、何をどうすれば、何がどうなれば正しいのか。
助けて、ヨハン。
帰らないと自分で決めつけた片割れに未だみっともなく縋ろうとするくらいには、僕はもうどうしようもないと思った。
『しょうがねぇ奴だよ、お前は』
にやにや笑いながら、またそんな可愛くない口をきいてくれるんじゃないか、なんて。じんわりと再び滲み出した涙に気付いたのか、先生はハンカチを取り出して僕の目元に当てた。黒がまた戻ってくる。一人になってしまった証拠が、目の前にまた帰ってくる。
『泣くなよ、精々全力で足掻くくらいしやがれ』
「ああ、ごめんね。そうしよう」
それが僕が生み出したただの幻聴だったのか、それともふがいない僕に彼が残してくれた断末魔だったのか。そんなことはどうでもいいけれど、それは確かに彼の声をしていたのだ。それに僕が応えないわけにはいかなかった。
「ヨシュア」
「ごめんね、先生。僕はやっぱりヨハンでいたかった」
小さな体が壁にぶち当たるのを、まるで他人事のように見ていた。書類の山が少女を覆い隠し、もがく腕の動きを鈍らせる。僕はふらりと立ち上がって、先ほど入ってきたばかりの扉へ駈け出した。上へ上へと行くことも考えた、だがそんな考えは即座に捨てて、僕は外を目指した。綺麗な体、僕の、ヨハンの、僕たちの体。それを無様にゆがませるようなことをしてはいけない。足掻くとはこういうことだ、出来る限りの最善を、どんなに無様でもいいから、
「走らなきゃ……っ」
頭の中では硬質な銀色が赤に埋もれる様子がありありと浮かんでいる。その理想に向かってひたすら走り続けた。大学生の、しかも研究漬けだった人間の体力なんてたかが知れている。止められる可能性のあるエレベーターなんて使えないし、地道に階段を駆け下りていくしかない。上がっていく息、乾いてひりひりとしてきた喉、ぶるぶると震えだす足。そんなものだ、情けないと笑うがいい。でも僕は満ち足りていた、失ったはずのものを、少しだけでも取り戻した気になっていた。目の前にある扉から漏れ出す光を見つければそう思っても不思議ではない。
たとえ幻想だったとしても。

「待っていたよ、私の可愛いモルモット」

その光に手が届くことはなかったけれど。
邪魔な影が、僕らを覆ってしまったけれど。







「もしヨハンとヨシュアの人格が統合されて、ヨシュアの人格のみが残ったら」というifでした。

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