柚是遥という人は

柚是遙、とは、西軍の中において少しは名の知れた軍人である。
西国屈指の貴族、柚是家の嫡男であり、文武両道、しかもどの分野においてもその名はしっかりと歴史に残されるだろう成績を残している。見目も麗しく、その姿を見て是非妻として、と自らを売り込む女性も少なくはない。将来はふさわしい女と婚約し、その領地を正しく管理し、次世代の育成に努めていくのだろう。周囲は遙に貴族としての生を望み、そうするものと決め込んでいた。
しかし、遡ること十数年。遙がまだ十代半ばと言った頃合いである。
「父様、私は軍に志願したく思います」
細い手足、柔らかな身体……遅い成長期を前にして、遙は厳格な父に毅然としてそう告げた。父親は当時のことを振り返ると、今でも頭を痛める。軍に志願するにしたとしても、衛生兵や軍師を志望するならばまだよかった。まだ本人にとって未知の世界である医学を実践で学びたい、また持ちうる知識を軍を率いることで試したい、そう言った目的であるならば、まだ。しかし、遙の中にそうした考えは全くない。
「男としての自分を、軍という規律ある組織の中で磨いてきたいのです」
軍人、ただの一兵卒として、戦場に立ちたいのだ、と。
父親は勿論反対した、母親も泣いて彼を止めた。柚是家は子宝に中々恵まれず、子供は遙ただ一人。遙が間違いでもあって命を落とせば、柚是家はこの代を持って消えてしまうことになる。その危険を誰がはいそうですかとあっさり飲み込むことか。
そのことを何度父親は彼に説いただろう。時には手まで出たことがあった。その白い肌が赤く腫れ上がる様子を見て、手当てをしようとしたメイドは思わず言葉を失った。
家中が遙の軍入りを反対した。
この頃……つまり十代、成長期前の遙は髪も長く、その線の細さ、また名前から女児と間違えられることも多かった。そんな遙が、軍の過酷なトレーニングに耐えられるとは誰も思わなかったのだ。それに、軍といえば良くも悪くも男の世界。そんなところに大事な息子を放り込んで傷物にされてしまったら……そう考えると血の気がさっと引くような思いだった。
しかし、遙も決して譲ることはしない。
女と間違えられ、女のように丁寧に扱われ、蝶よ花よと育てられる。そんな人生がこの男の自分に降りかかるなんて反吐が出る。幼いながらも、すっかりこの頃から遙には男としての理想をはっきりとした形で持っていた。その理想を自らのものにするためにも、一番過酷な軍という環境に身を置きたかったのである。
入りたい、駄目だ。この平行線が何ヶ月続いただろう。周囲の人間が、これはもしかしたら年をまたぐのでは?いやいや決着がつかないのでは?と心配するほどに両者ともに頑なだった。その平行線を終わらせたのが母親の一言である。
「そこまで決意が固いのでしたら、信頼できる方にお預けしましょう」
泣き腫らした目をした母、妻の言葉に、父子は頷くしかなかった。言いたいことはもっとあっただろう、納得しきれない部分もあっただろう。しかし、人を、しかも近しい女性をここまで泣かせてまだ喧嘩をしたいかと聞かれれば、二人はともに首を振るのだ。
そして当時柚是家と交流のあった軍人家系として白羽の矢が立ったのが芦野紀家であった。芦野紀家には当時少尉として小隊を率いていた泰臣という嫡男がいた。その男の下ならば、と父は渋々遙に許可を出したのである。そして父の希望通り、遙は泰臣の指揮する小隊に配属となった。そこから十数年間、遙は泰臣の下で軍人として働き続けている。壮絶に壮絶を重ねた、地獄にも等しい場所だというのに。

***

その日は久しぶりの帰省の日であった。
年老いた父親と母親の結婚記念日。誕生日には夫婦だけでささやかに祝っているらしいが、この日だけは柚是家ではパーティを開き盛大に祝うことにしている。日頃から軍人として盆やクリスマス、正月さえも犠牲にして働いている遙だが、この日だけは必ず家に帰りパーティに参加していた。今年も同様だ。軍服のままでホールに顔を出すと、両親がにこやかな顔で彼を迎えてくれる。
「ただいま、帰りました」
「ああ、よく帰ってきた」
「おかえりなさい、遙。さ、早く着替えていらっしゃい」
父は何も言わないが、母は遙が軍服で目の前にいることを嫌がっているようだった。軍服も立派な正装だ、パーティに出る分には問題はない。しかし、着替えてこい、と言う。部屋に帰ればまた新しいスーツが揃えられていることだろう。年に一回、この日だけしか袖を通されずにほこりを被る可哀想な服たち。
しかし、こうして軍人として籍を置けるのもまた母親のおかげ……遙は大人しく従った。折角のめでたい日だ、わざわざ口論をすることもないだろう。
着替えてホールに戻ると、両親の周りには何やら人だかりが出来ているようだった。遠目からじっと見ていると、それは比較的付き合いの浅い、遙とあまり面識のない人間らしい。
『これは今私が行っても面倒なことになるだけだな』
給仕からシャンパングラスを一つ受け取ると、遙はそっと壁の花を決め込んだ。
この家に来るのも一年ぶりのことになる、遙は感慨深いと言った風に辺りを見回した。
バルコニーに繋がる窓にかかった深紅のカーテン。昔は新緑だったのにいつ模様替えしたのだろう。
頭上で輝くシャンデリア。一つ一つ細工を磨くのは大変だと、メイドたちが零すのをよく聞いていた。
磨かれて顔が写りそうな大理石の床。よく滑って泣きじゃくっていたのは苦い思い出だ。
壁に掛けられた肖像画。父と母と、幼い自分。あまり昔の自分を見るのは好きではない、やはり女のようで情けない。
周囲で談笑する人々。見知った人は皆年老いている。自分と同じような年齢、またそれより若い者はちらちらと視線だけ寄越してくる。あまり気持ちよくはない。
年々、年を重ねるごとにこのパーティの居心地の悪さが増していくのを遙は感じていた。明確な理由はわからないのだが、何故か背中がこそばゆいような、ちくちくと刺さるような感じがする。話をするような人間もいないこの空間で、遙はまさに孤独であった。
「遙、ちょっといらっしゃいな」
呼び声がかかり、遙は弾かれたように視線を移す。母だ、誰か人を連れている。
ブーツのかかとを鳴らし、ホールを横切るように両親の元へ向かう遙を、会場中がじっと見ていた。
母親が連れていたのは二人の令嬢であった。どちらも遙との面識はない。
まだ二十にも満たないのではないかと思われる幼い娘と、二十半ばといった雰囲気の女性。
笑顔で挨拶を交わし、たち振る舞う様子はまさに貴族といった風だった。二人の令嬢のどちらとも、それなりの家柄なのであろう。
「母様、どうしました」
「あのね……あなたももういい年頃でしょう?そろそろお嫁さんでもどうかしら、と思って」
母親の一言に令嬢たちが顔を赤らめる。
なるほど、縁談の話か。遙は努めて冷静に状況を把握した。
父も母も大分年老いてきたのを遥も感じている。結婚を決め、そろそろ軍を退け、というのが両親の考えなのだろう。
一時は認めたものの、やはり両親は遥が軍にいることを快くは思わなかった。
事あるごとには「帰ってくるように」と手紙を書き、上司に嘆願し、こうして帰省すればまた説得される。片手を失った時が一番ひどかった。直属の上司である泰臣に、また芦野紀家に対して恨みを募らせ、またこれで帰ってくるのではと喜びもし、最終的には強硬手段にまで出ようとした。大分心の状態がよろしくない。
母が年々やせ細っていくのを遥は感じていた。本来ならば、それに気づいた時点で退くのが正しい貴族の孝行息子なのだろう。しかし、遥はそうなることは出来なかった。
「私は……まだ未熟者です。家庭を持つにはまだ早すぎます」
「いますぐにと言うわけではないのよ。ゆっくり絆を育むのもやっぱり必要だわ、お付き合いだけでもどうかしら」
母親の手がそっと遥の左手を包む。その手は熱を持たない金属製だ。
「私としては、今すぐこちらへ帰ってきてほしいものだけれど……そうはいかないのもわかるわ。でもね、帰ってくる理由だけでも作ってほしいのよ」
柚是家の当主として帰ってくる、という確約。
母親、それに黙ってはいるが父親がほしいのはただそれだけだ。
そこに遥の意志、感情などは一切考慮されていない。柚是家、というのがこの人間たちの全てだ。成長するにつれそうした面が見えてくるようになり、遥はどんどん両親が苦手になっていくのを感じた。
「こちらのお嬢さんは鷺沼家の理彩さん、こちらのお嬢さんは水崎原家の智咲さん。どちらも素晴らしい方よ。あなたの身体のこともちゃんと理解してくれているわ」
左手が、母からバトンを渡すように二人の女性に渡る。
言葉を発することはない、ただ微笑み、慈しむような目で遥の顔と左手を順番に見つめる二人。
理解してくれている?何を?
遥はただただ気持ちが悪かった。目の前の母も、傍らにいる二人の女も。
どの女にも個がない。ただ家のために存在するような、それこそ機械にも等しいような存在ではないか。それと結婚し、子をなし、その先の人生を添い遂げる?考えられないし考えたくもない。
冷静にと努めていた思考が真っ赤になっていくのを感じる。
いけない、いけない。そう思っても、遥自身にこの衝動を止められたことはなかった。頭の中には一人の影が浮かんでいる。しかしその影は隣にないし、ましてやこの場で名前を出すわけにもいかなかった。
赤くなっていく、ただ赤く、それだけで埋まっていく。ああ、ああ、
「ご歓談中失礼いたします、柚是様。ご挨拶に伺いました」
視界にちらつく純白のマント、その影から除く先ほど遥自身が脱ぎ捨てた軍服。遥のものより幾分か低いバスの声色。数時間前に名残惜しくも視界から外した緑髪。
「芦野紀の倅か。久しいな」
「ご無沙汰しております、御当主。奥方様共に御健勝で何よりです」
軍帽を脱ぎ、その高い位置にある頭を下げるその男。芦野紀泰臣、遥の直属の上司にあたる人間である。
「泰臣……ッ!」
「おっと、公式の場では芦野紀大佐と呼んでもらおう。柚是遥大尉」
ぽふ、と頭の上に乗った軍帽を取り払うと、母の顔が遥の目に入った。
幼少を共に過ごした優しい母の面影はそこにはない。ただひたすらに憎い、親の敵でも見るかのような目で、泰臣を見つめている。
ぞっとした、悪寒が背筋を駆け巡るのを遥は感じた。遥が腕をなくしたことで、母親は泰臣に対して確かな憎悪を抱いてしまっていた。
信じて預けたのにと、数年前に聞いた恨み言が、遥の中で再び繰り返し流れ込んでくる。液体しか入っていないはずの胃から、何かがこみ上げてきそうだ。
「遥?」
母の声。
右手で泰臣の軍帽を握りしめ、遥は礼も言わずに駆けだしていった。その背を、その場にいる全員がただ呆然と見送っている。
「…………頼めるかね」
「勿論です」
マントをはためかせ、その背を追う泰臣。ざわざわと賑わう人の波を分け、消えていった背中を辿る。磨き上げられた大理石の床が鳴る。シャンデリアの光が目に眩しい。
あまりパーティという場を好まない泰臣は、抜け出せて万々歳といった心持ちであった。
遥は泰臣から見ても可愛い部下の一人である。自分のせいであることはわかっているが、ああいった態度で親と確執を作ってしまうのはあまり喜ばしくない。
せめてフォローくらいはして当然のことだ。
行き着いた一つの部屋の前で、ノックを三回。返事はない、だからといって入らないという選択肢はない。
窓枠に縋るような格好でへたり込んだ遥の背を、泰臣はそっと撫でた。
「悪いな」
何が、とは言わない。その何が、に該当するものが、泰臣には多すぎる。一つ、二つ、傷だらけの大きな手が背を撫でる度、遥の呼吸は荒く、そして細くなっていった。喉が嫌な音を立てて鳴る。顔が赤らみ、額に脂汗が浮く。
「落ち着け、息吐け。もう俺とお前しかいやしねぇよ」
ヒッ、ヒッ、と不規則に鳴る遥の身体を抱え込み、その頭を自らの胸に押し当てる。
こうした状況に遭遇するのは初めてではない、こうするのが一番である、と泰臣はすっかり学習していた。
泰臣の心音に合わせて、吸って吐いてを繰り返す。汗の代わりに涙が流れるようになってから、ようやく遥は落ち着いた。赤い瞳からぼろぼろと滴がこぼれるのを見て、泰臣は気まずそうに頬を掻く。遥本人には絶対に言えないが、なんだか女を泣かせているような気分になるのだ。小さい頃の、女児と間違うほどだった彼を見ているから尚更。グスグスと泣くその姿に、どうしようもなく庇護欲が湧く。
「難儀だねぇ、お前も」
軍人は貴族と違って、特に血にこだわりはない。武勲をあげろ、己を鍛え、技を磨き、国に全てを捧げろ。ただそれだけでいい。血が途絶えそうになったときには、孤児でも拾ってこの家に染め上げればいい。泰臣もその家風にならい生きてきた。彼の身体に出来たいくつもの傷跡は、軍人になったあとよりも、なる前に作った傷の方が多い。人から見れば、泰臣の人生も大分波瀾万丈に満ちた辛いものだろう。しかし、泰臣からしたら遥のほうが大分辛いように見えた。自分が身体に傷を負うように、遥は心に傷を負っている。
心の傷は治るのだろうか。
遥の伸びた背筋を見る度に、泰臣は考える。
いつか傷ついた心が限界に達して、陶器のように割れてしまうのではないか。この凜とした背が、自分の前で消えてなくなってしまうのではないか。
考えても仕方がないことだとはわかっている。それなのに、考えずにはいられないのだ。
柚是遥はひどく脆い。それを知ってしまったからには。


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