「私があなたを殺したの」

嫌な予感がしていたの。あのとき、私は悪い夢を見て。私はこの未来を知っていた。
それなのに、私はあなたを一人にした。
私があなたを殺したの。

冷たい体はまるで氷のようで、その涼やかな美しさを際立たせた。白いベッドに寝かされたその体には致命傷以外の傷は見当たらず、そのぽっかり空いた穴さえ隠してしまえばただ眠っているだけにも見える。ついつい、手を伸ばして心音の有無を確認してしまうほどだ。だが、ドレスの狭間からちらりと見える暗褐色がその幻想を粉々に打ち砕いてしまう。

『ああ、私がよく見るやつ』

そう思ってしまったのだ。
それさえわからなければ、まだ泣き喚き真実を疑うことが出来ただろう。だが彼女は、三枝木御苑はかしこかった。かしこかったから、彼女は泣けずにいる。ぐるぐるとした感情を吐きだすことが出来ずに、物に当たり散らしている。彼女自身が彼女を追い詰め、彼女が自身の最愛を改めて殺した。

「志鶴」

覗から漏れ出た声は小さく、またか細かった。絹糸のように細く、なのに弱く頼りない。様々な感情のつるされたそれは、今にも切れてしまいそうだった。

「私があなたを殺したの」

気丈な彼女が一粒泣いた。その滴はまるで最期を惜しむように、その滑らかな頬をゆっくり落ちていく。その長い間、彼女はずっと考えていた。彼女の中にある最愛との、三笠志鶴との思い出を、初めから一つ一つ思いだしていった。その一つの時間は酷く短い。頬から滴が落ちた時、彼女の時間は昨日の夜中まで遡っていた。
戻りたい、でも戻れない。
そんなことは分かっている、でも願わずにはいられないの。
全て最初から承知の上で、彼女は静かに目を閉じた。そして最後に残った記憶の一欠片に浸っていった。ずるりと、もう浮かびたくないといった風に。



「しづる。志鶴、ねぇ起きて」

部屋に唯一ある大きな家具であるベッドがギシリと鳴った。
時刻などわからない、窓ガラスの外が黒一色に染まり切った空間。今の季節、これが六時だろうと三時だろうと一時だろうと区別がつくわけがない。とにかく、まだ夜、それだけが確かな空間。まだしばらくは眠っていても大丈夫だろう。そんな時間帯に目を覚ました御苑は、どこか焦った様子で隣で眠る恋人の身体を揺さぶった。その男だろうと女だろうと魅了する顔はくしゃりと歪んでいる。額にはじんわりと汗をかき、目には水の膜すら張られている。恋人の身体に触れ、その水分量は増えたようだ。膜の限界は近い、今にもその身を弾けさせ滴を零そうとしていた。

「なに、御苑、どうしたの」

その様子に志鶴はひどく驚いた。彼女の目元に触れ、弾ける前にその膜を壊しにかかる。それでも新たに膜が作られていることに気が付くと、ゆっくりと起き上がってその豊満な肢体をカーテンの隙間から差し込んでくる月明かりに晒した。その動きの途中に出来た小さな隙に、御苑はその首に抱きついた。一ミリたりとも離れることなく胸をピタリと合わせ、その肌で互いの心音を聞いた。とくり、と彼女の中の生きている音が自分の肌を叩く。それを確認してやっと、御苑の中に生き返ったような心地が広がった。

「ねぇ、どうしたの」

もう一度、同じ質問が御苑の耳に入ってきた。問われた御苑はまだじっと志鶴の音を聞いている。

『これはしばらくは聞かないわね』

返答を諦めて、お返しに、と志鶴も御苑の音を聞く。今まで聞こえていなかったのが不思議なほどに、音の主張が強い。それはもう音ではなく、ただの振動であった。とんとん、と強く肌が叩かれている。よく見れば、御苑の白い肌はいつにもまして色がない。志鶴は首をかしげた。

「悪い夢でも見たの?そうなの?」

それくらいしかないだろう、そう思って出した答えはピタリと当たっていた。当てられた御苑は首に回した手の片方をほどいてパシパシと志鶴の肩を叩く。痛い痛い、そう彼女が引きはがそうとすれば抵抗した。

「あたし、あした、いや。いかない。しづるもいっちゃだめ」

改めて強く志鶴の肌に埋もれながら、御苑は小さくそう言った。あした、明日。明日の予定が志鶴の頭を駆け巡る。
明日はそうだ、船に乗る予定がある。
それはチェンバース号という豪華客船だ。本当は志鶴たちの上司に寄越された招待券だったが、色々な経緯を経て二人に回ってきたのである。志鶴も御苑も、正直船内で行われるパーティーや施設についてはどうでもよかった。下手にざわついたところに行くくらいなら、二人でのんびり引きこもっていた方がいい。だが志鶴が御苑の思いを受け入れて数年、二人がお付き合いを始めて数年、考えてみれば一度も二人きりで旅行、なんてしたことがなかった。この機会を逃してしまえば次はいつになるかは分からない。鈍いと言われる志鶴でさえここまで考えが及んだのだ、聡い御苑が気付かないわけがない。二人とも、そこまで大げさではないにしろ楽しみにしていたのだ。それを彼女は、いやだ、いくな、と言う。

「悪い予感がするの、悪い予感しかしないの。お願い志鶴、おねがい」

いかないで、行かないで。
そう何度も何度も、まるで怯えた小さな子供のようにつぶやく彼女を、志鶴は見たことがなかった。同じ子供であっても、志鶴の中にいる御苑はいたずら小僧そのもの。いつも無邪気で時折癇癪を起す、それが彼女の常であったというのに。

「大丈夫、大丈夫よ」

彼女の耳の近くにある髪をまとめて摘み、直接流し込むように囁いた。

「悪い夢を見た、ただそれだけ。夢よ、夢。忘れてしまいなさい」

彼女が子供になるのなら、私は優しい母になろう。私はそれを知らないけれど、何度も夢に見た理想の存在になろう。
出来るだけ優しく、言葉も囁き方も、それを心掛けた。肌に彼女の爪が食い込む、その感触を感じながら、志鶴はじっとそれが収まっていくのを待つ。
じっと、じっと、少しずつ。彼女の怯えが薄れて再び眠りにつくまで。

「私がいるわ、平気よ」

寝息が聞こえてくる頃には、外の闇がほんのりと薄くなっていた。もうすぐ朝になるだろう。もし御苑の言うとおり出かけるのを止めるなら、もう一度志鶴も眠っていい。彼女の体温が移った温かに寝台に寝転がり、心地いい微睡に身も心も預けていい。
だが、先ほども思ったようにせっかくの旅行だ。厚意で回してもらった貴重な機会とチケットを無駄にするのも悪い気がする。それに気紛れな彼女のこと、寝て起きたらまた気が変わっているかもしれない。
ならば、

「この景色も、悪くはないわね」

ぱちりと開いた志鶴の瞳が、夜の明けかけた紫色の空を映した。それは、彼女が見た空の中で一番鮮明に脳に焼きついたことだろう。
そう、一番。
これが、彼女の最後の夜。


大丈夫よ。
そう言ったのが遠い遠い昔のように思えた。
ごめんなさい、目の前にいる人たち。
ごめんなさい、どこかに行ってしまったあなた。
大丈夫といったのに、こんなにあっさり壊れてしまうなんて。自分でも少しおかしいくらい。
笑ったら怒られてしまうわね。
ごめんなさい、ごめんなさい。
私がもしも見つかってしまったら、あなたは泣くかしら。自分を責めて、傷つけてしまうかしら。
私が、心だけになった貴方と会わないように祈っている。



「私があなたを殺したの」
(身体を)
(そして心を)

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