「あたしのお人形になりなさい」

出勤した途端に言われた言葉に、ついつい目を丸くした。出勤というだけで憂鬱なのに、気分がさらにがくんと落ち込む。
そんな心の内も知らないで、目の前にいる警護対象者はにっこりと笑い、俺の手を引いて部屋の奥へ奥へと進んでいく。その部屋は見慣れていて、内装はよくある年頃の女のものだった。目の前にいる彼女を見ればまぁ当たり前というような、どこにでもありそうというのが最初に見た時の感想だった。
それよりもさらに、特に強く思うことは一つ。女の匂いがする。甘く強く濃い匂いがする。毎日毎日、仕事の度にどこか酔いそうなその匂いを嗅がなくてはいけない。それがどうしても嫌で、俺は入口のそばに立っているのが常だった。匂いと空気の混じり合う場所。まだ匂いは強かったが、それでも中よりはましだ。そう思っていたのに今はそれも叶わない。
入口よりもずっと濃いそれに眩みそうになりながら、ずるずると引きずられていく。手を振りほどくのは簡単だ。だが、それだけのことを面倒だと感じてしまう自分と、仕事だから仕方ないと諦めてしまう自分を、どこか遠くからまた違う自分が見ていた。

「あたしはね、あんたみたいな男の子が欲しいの。いやらしい意味じゃなくてよ?あの人との間にね」

用意されていたた椅子に座らされ、目の前にカップが置かれる。中に入っているのは紅茶のようだが、その香りは全くこちらには届かない。注がれたそれには、手をつける気になれなかった。ただでさえ鼻が曲がりそうなのだ。こんな状態で飲む紅茶なんて、まずいに決まっている。
ちらりと目を向けた向かい側には女が座り、にっこりとこちらに向けて微笑んでいた。
何か言った方がいいのだろうか、それとも黙っていた方がいいのだろうか。話しかけようにもそもそもこの人の名前は何だっただろうか。
結局口下手である自分が何を話そうとしても無駄なような気がして、俺は膝の上で手を握った。まさに手持ち無沙汰、というやつだ。

「綺麗な顔をしてるわ、無愛想なのが残念だけれど。本当にお人形さんみたい」

聞こえてくる言葉には何も返しようがなかった。
綺麗なんて言われても、嬉しくなんかない。その言葉は俺なんかのためのものじゃない。
俺は本当に綺麗な顔を知っている。この女はそれを知らない。
俺はほんの少しの優越感と、女への憐れみと、自分がその両方を抱いているのを感じた。おかしい、そうぼんやりと頭の片隅で思った。

「自分は、そんな大層な物じゃありません」

一言つぶやいて、また口を閉じる。女は驚いて、なにか考えるように唇に人差し指を当てた。その唇に紅は引いていない。だがその色は淡い桃色をしていて、綺麗だった。勿論、当然のこと、あの人には遠く及ばないけれど。そして指が離れたと思ったら、それはにっこりと月のようになる。

「なら、綺麗になりましょう。納得できるようにね」

お人形さん、最後にそう呼んで、女はまた俺を立たせた。二の腕に添えられた手は細くてポッキリ折れそうだったのに、指の熱に強さを感じる。その手は俺の名前を奪っていったのだ。その熱は俺という存在の名残なのだと、そう思うことにした。



「おいで、崇一」

取られた名前はあっさりと返された。返してもらったものに落ち着くかと思ったら、そわそわと落ち着かない心地は今でも、またさらに加速している。
爪の先に塗られた黒い塗料に視線を合わせて落ち着こうとしても、その手は彼女に取られてしまった。俺のものなのに、結局まだ俺は人形のままだった。

「綺麗になったでしょう。あんた、このまま幹部会にも行けるわよ」

そんなところに行くなんて冗談じゃない。そう思ったがこぼれてくるのは小さな乾いた笑い声で、自分でも意外だった。
いつのまに用意されていたのだろう、いつもの破れてもいい既製品ではなく、俺用に仕立てられたスーツ。手など入れたことのない髪はワックスで緩く固められた。何か塗られてせいで、唇が違和感を訴えている。まだ鏡は見ていないが、その顔に起きた惨劇を想像するだけで恐ろしい。
気持ち悪さはそろそろ吐き気へと変わっていこうとしていた。
早くこの部屋から出たい、そして水でもかぶって全部落としてしまいたかった。
とにかく息が苦しかった。そんな俺の様子になんて、目の前の女は気づいてすらいない。
そっと掌に口紅の色を移した。

「写真でも撮って、好きな女にでも見せてやりなさいな」

女は楽しそうな声色でそう言って、俺の首を絞めるネクタイの色を選んでいた。
ぞっと、寒気が背筋に走っていくのがわかる。
好きな女?そんなものはいない、いたことがない。
俺の心の中にいるのはあの人だけだった。物心がついた時から今までずっと、そしてきっとこれからもあの人だけだろう。
帰りたくなった。家に、あの部屋に、あの人の所に。

「あら、これなんて可愛いじゃない」

桜色のグラデーション。淡い色をしたそれは特に抵抗もなく首にピタリと収まった。
一つ二つ頷くと、女の手がするりと動いてタイを締めていく。慣れた手つきだった。襟の形を直し、首を一度撫でてから離れていく。

「ほんと、やっぱりあんたみたいな息子がほしい」

女はもう一度言って、俺の背中を叩いた。
帰ってもいいよ、そう言われて心が少し軽くなって、身体が少し重く感じた。そしてそわそわと忙しなく落ち着きのない気持ちにさせる。それが顔に出てしまっていたのだろうか、女は小さく笑った。

「あんたの彼女は幸せねぇ」

言葉にはやはり何も返さなかった。一礼し、すっかりなじんでしまった香りに別れを告げて部屋の入口に立つ。ああ、と一つ振り返った俺の顔は少し歪んでいた。

「俺みたいな息子なんて、止めた方がいいです」

出来そこないですよ。
部屋を出て走り出す。あれだけ落としたがった化粧もそのままに、使い慣れた携帯で画面も見ずにダイヤルを回した。

「もしもし?」

今すぐそっちに帰るから、貴方が俺を人間へ戻して。


「酔」


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