初恋こそ叶わない

今まで恋だと思っていたものが、全て塗り替えられてしまった。
きっとこれこそが初恋なのだと、頭の中で誰かが囁いた。その囁き以外何も聞こえない。外からの音は心臓の音にかき消されて何一つ入ってこなかった。頭の中もすっかり空っぽになって、瞳さえあの人以外を映すことを拒否していた。
これが恋だ。私の初恋だ。
すらりと細くて高い背。綺麗に整え、結われた長髪。長い睫毛に縁どられた黒真珠。肌はきめ細かくて白くて、触れたらきっと滑らかなんだろう。
思わず指でなぞる。しかしそうしても無駄だった。いくら触れてもそこには薄っぺらい紙の感触があるだけ。
焦がれたのは、紙の向こう側にいる人。
その事実が私に諦めろと告げてくる。世界が違うのだと。いくら願ったとして、直接顔を拝めるかすらわからないと。
周囲の人間もそう言った。私がこの人について語る度笑って、熱が入ると行き過ぎだと止めた。
その度どこかむっとした気持ちになる。
やる前から諦めてどうするのか。やるだけやって諦めるのならまだわかる、しかしそんな情けない事では諦められる筈もない。
人間、やればなんだってできるものだ。

*  *  *

ふと昔のことを思い出した。
数年前、私がこの業界に入ろうと思った小さな切っ掛け。数年前、と言ってしまうと短く感じるけど、その間にあった紆余曲折苦労の数々を考えれば重く長く感じた。しかし、その重さがやっと報われるのだ。
そう思うと、緊張でがちがちに固まった身体が羽のように軽くなった気がする。この胸の中にあるのはただ期待だけ。ふわふわとして、私を幸せにしてくれるものだけ。
ぎゅ、と手を握りながらその時を今か今かと待っている。
コンコン。
軽いノックが二回。
返事をしようとした声が少し上ずった。恥ずかしい。
「失礼します」
さっきまで味気ないと眺めていた扉がまるで宝箱の蓋のように見えた。
その人は憧れていたあの時から、時が止まっていた。その姿に僅かの褪せもない。
すらりと細くて高い背。綺麗に整え、結われた長髪。長い睫毛に縁どられた黒真珠。見るからに白くてきめ細やかな肌。
唯一違うのは片方の目が髪で隠れていること。しかしそんなことで揺らぐ美しさではない。
「お待たせしてどうもすみません」
コツコツと鳴らす靴の音、歩みの所作。そんな所までも綺麗だった。机を挟んで対面につかれると、ふわりと香水か何かのいい香りがする。
「初めまして、合歓垣です。どうぞよろしく」
合歓垣志雄さん。私の初恋。
間違える訳もないけれど、言葉と共に渡された名刺を確認する。
本人だ。私の憧れ、焦がれた人。
「合歓垣、さん」
「はい」
「合歓垣、志雄さん」
「はい」
少し困った風に笑う。あぁ、オフショット企画でたまに見られた顔。違う、そうじゃない。困らせちゃいけない。初日からこんな失礼なことしちゃいけないのに。
折角、この人と同じステージに上がれたのに。
「貴方に憧れて、モデルになろうと、思って……」
「あぁ、なるほど」
言い訳を、一つだけ。
抱えていたファイルから書類をいくつか取り出して、志雄さんは小さく笑った。
緊張しているのがバレバレだったのか、志雄さんはぽつぽつ話をしてくれた。
その憧れはもう捨てないといけない。
また次の目標を見つけないといけない。
いろんなものを見て、飲み込まないといけない。
常に礼儀と笑顔は忘れずにいなければいけない。
プライベートでも気を抜きすぎてはいけない。
色々と、話してくれた。この業界で生きていくための、初歩の初歩。その中でも一言目が私にとってはひどく強烈で、胸が痛くなった。いや、痛いなんてものじゃなかった。ぐしゃりと胸が潰れてしまうと思ったほど。
「私なんてすぐに超えてしまうさ。君、可愛いからね」
サインをした書類をまとめて仕舞いながら、志雄さんは一言なんてこともなさげに言った。私の傷心が聞かせた幻聴?一瞬何を言っているのかわからなくて、え、と溢すと、あんなに憧れていた黒真珠が私を映す。
「憧れなんてロクなもんじゃない。自分の過小評価はよくないよ」
そう言って志雄さんは私を立たせると、部屋の外へと促した。
気分が上がったり下がったり忙しない。混乱しながら何とか体だけは動かす。
今日は説明と書類へのサイン、あとは簡単な見学をしておしまい。どうやらこれから建物の中を案内してくれるらしい。
ああ、でもどこかふわふわとして落ち着かない。
ずっとずっと遠かった好きな人に初めて会えた。
好きな人と話ができた。
好きな人に、可愛いと言われた。
漸く呑み込めてきた事実を淡々と並べて、それだけで顔が熱くなる。今時小学生でもやらないような初心な恋をしていた。酸いも甘いもとっくに知り尽くしたと思っていたのに。
ちらりと横目で覗き見た志雄さんは、何処から案内したものかと思案している様だった。
気づかなかったが、いつか写真で見た白い手は手袋で覆われていて、その手を口元に当てながらぶつぶつと何か呟いている。伏し目気味なその表情はどこか色っぽくてかっこよくて、こっちの吐息にまで色が付きそうだ。
やっぱり、好き。
改めて思う。
恋人とかいるのかな。昔男の人が嫌いってインタビューで言ってたけど、実際どうなんだろう。イメージ重視で作った回答って可能性もあるけど……
考え始めるとどうにも止まらない。じっと志雄さんの顔を見つめたままになってしまう。
「よし、決めた」
志雄さんが思考を止めて、いざ、と動き出したその時だった。
「志雄ちゃん」
背後で小さく声がした。人のいない静かな廊下だけど、少し距離が開いているせいで、聞こえるか聞こえないか、といった声。好きな人の名前じゃなかったら、多分聞き取れなかっただろう音。
「漆葉?」
志雄さんが振り返る。私に一つ断ってから、声の方へ小走りで近づいていった。
「志雄ちゃん」
もう一回、名前を呼んだ。よく聞くと綺麗な声をしている。
私より少し高い背。細い身体。涼やかで中性的な顔。全体的に、綺麗な人。
志雄さんが呼ぶのを聞いて聞き覚えがある名前だと思ったけど、その姿も見た記憶があった。確か、今売り出し中のアイドルだ。友達が綺麗だのかっこいいだのとはしゃいでいたのを思い出した。志雄さんの方がよっぽどかっこいい、と言い合いになったっけ。
志雄ちゃん、だなんて、呼び方がどこか子供っぽい。少しだけ、羨ましい。まだ若そう。同い年か、その下か。
ぽそぽそと、何か話をしているのが聞こえる。内容までは聞き取れないけれど、どこか楽しそうな雰囲気がある。
ちゃん付けで呼ぶくらいだから、仲がいいのかな。自分もいずれはそう呼べるようになるだろうか。いいや、それよりまずは覚えてもらうことから始めないと。今は唯、同じ会社に所属しているだけに過ぎないから。
ぼんやりとそう思っていたところで、視線を感じた。あまり気持ちよくない、ぎょろりとした視線。
「志雄ちゃん、あの人誰?」
視線を感じた途端会話が聞こえるようになって、思わずびくりと肩が震える。漆葉、さん、と目が合って、彼女はにこりと綺麗に笑った。何処か作り物めいた、綺麗な笑顔だった。
「新人のモデルさん。みんな出払ってるから私が案内役をしてる」
「志雄ちゃんが担当するの?」
ドキリとした。事前にマネージャーが付くとは言われたけど、まだ紹介は受けてない。志雄さんだったら嬉しいけれど、もしそうなったとしたら心臓がもつ気がしない。想像したら引いたばかりの頬の熱がぶわりと帰ってきた。
「私一応漆葉の「専属」マネージャーなんだけどな。解雇ってことかい?」
「冗談、そんなことするわけないよ。ずっと僕といてね」
「はいはい、お姫様」
軽口の交わし合い、のはずだ。きっと、ふたりにとってはよくあることなのだろうと思う。思う、けど、どこか……
「浮気を許すほど、僕優しくないからね」
軽口、ではない、気がした。
細腕が長身を抱き締める。その腕は慣れと自信に満ちていて、然もそうあるのが当たり前とでも言うようにすっぽりと志雄さんを包むんだ。
よしよし、とあやすように背を撫でて、じゃれつくように近づいた頬同士を擦り合わせてる。
ちょっと、とか、待って、とか、志雄さんの焦った声。でも声に含まれるのは焦りだけで、嫌悪とかそういうのはない。
真っ赤に色づいた頬だとか、緩んだ目元だとか、ぱくぱくとした口だとか、行き場をなくした白い手だとか。
さっきまでは気配もなかった人らしさを見た。自然体の合歓垣志雄が、見せつけられている。
それは恐らくは一分にも満たない時間、それなのに、何処までも長く感じた。
その姿を見て惚けていたところで、ぎょろりと、もう一度視線が私を射抜く。
あぁ、なるほど。


[ 16/16 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -