とある蝶の話 (烏香&蓮見)

バタフライエフェクト、という言葉を聞いたことがあるだろうか。
蝶が起こす小さな羽搏きが、やがて激しく大きな嵐を起こす。非常に小さな出来事が、やがて起こる大きな事象への切っ掛けとなること。
ふとしたとき、私はこの言葉を思い出す。それは朝起きた時であったり、用事を済ませようと家を出た時であったり、いつものように仕事場に入ろうとした時であったり、一日を終えようとソファで一息ついた時であったり、まちまちだ。
しかしそれを思い出したとき、如何なる時であっても、私は自分の背筋に嫌な汗が滲んでいるのを知っていた。体が何かの異変を訴えていることを知っていた。私が、私自身が無視している警報をこの耳に届かせようとしているのを知っていた。
ただ、私はその警報に耳を傾けることなく日常を続ける。
朝起き、身の回りのことを簡単に済ませ、やるべきことに一日の大半を費やし、それから残った時間の八割でバーテンダーとしての仕事をこなし、二割眠る。
眠る、と言っても、それはまさに蝶が一枚の葉の上で休むのと大して変わらない。葉が揺れればまた飛び、虫が近づけば飛び、雨のしずくが落ちても飛ぶ。
その綺麗な翅は臆病で過敏で捕まえるのが難しく、あの子は逃げられるたびに泣いた。私はそれを慰めて、二人で昆虫図鑑の蝶の頁を眺めたものだ。
私の眠りは過ぎる程に浅く、人々が気にするどころか気付く事も無い小さな物音でも私の眼はぱちりと開いた。眠りと覚醒の領域が酷く曖昧で、時々眠っていても意識があるときがある。
眠気は確かに存在している、しかし、眠るということがどういうことであったか、安らぎというものがどれ程甘い蜜であったか、私は既に忘れてしまった様であった。
他人事の様に言うがそれは確かに自分の事で、眠れないという事はその日に受けた疲労と苦痛を抱え込むこととほぼ同じことであった。
溜まっていく疲労、重くなる手足、霞む思考、体温の調節を諦め汗を掻きながらも震える身体。
その全てが警報で、無視し続けるというのにも限界がある。しかし私は愚かしくも子供のようで、その限界をどうにも認められずにその歩みを止められない。
其の弱った歩みを、誰かが蝶に譬えた。だから、私はそんなときにその言葉を思い出すのだろう。
今だって、そう。
見慣れたカウンターの下にしゃがみ込み、先ほど落としたグラスの割れた破片すら集められないでいる。一緒に落ちて散った琥珀の液体はくすんだ色をして、くるくると世界は回っていた。揺れて、揺れて、自分は何だったか、何をしていたか、何処にいたか、そんな基本的な情報でさえサラサラと零れていってしまいそうな、そんな。

「烏香君」

傍らで支えてくれている初老の男性。月に数度、こういったときのヘルプとして雇っているバーテンダー。
こんな緊急対策を講じている時点でどうしようもないのだが、今回も任せるしかない。
吐き気をこらえるため口に手を当てたまま、じ、と目線で訴えると、男性は小さく「おやすみなさい」と言って私に肩を貸した。
外の空気を吸って、吐き気が少し薄れたところで男性を店の中へ戻す。ベストを脱ぎ、シャツのボタンを外し、服の締め付けを僅かに緩めると大分楽になる。
眠りたい。
その一心でふらふらと足を進める。どこから見ても頼りない歩みだろう。視界がぐらぐらとして、目を開いているだけで、否、閉じていても酔いそうな感覚。
何処へ向かおう。家までは少し遠いし、今進む方向とは正反対だ。
何処へ向かっているのだろう。知っている道だ、数回しか行ったことがない、しかし一月に一回は必ず歩く道だ。
ふらふら、倒れそうになりながら、転びそうになりながら、歩く。
笑ってしまった。赤ん坊でも、今の私よりはもっと上手に歩くだろう。あの子は歩くのが上手で、私が支えてあげる必要もなかった。否、あの子と初めて会ったとき、あの子はもうとっくに歩けるようになっていた。否、あの子は私の足に捕まって初めて立ったはずだーーー
とん、と扉にぶつかった。とあるビルの、分厚い鉄で出来た扉だった。
其処には何かプレートが付いていて、恐らくはこの建物の名前が書いてあるのだろう。しかし私の視界でそのプレートは柔らかくとろけていて、文字が書いてあるのかどうかすらわからない。
ここはなんだろう、変なところに迷い込んでしまったようだ。
私はここを知っている、ここは私にとっては馴染みのある場所だ。
頭が割れて、勝手なことをごちゃごちゃと言い出す。
ああうるさい、黙っておくれ。あの子だってこんなにうるさくはなかった、隅で大人しく本を読んでいたじゃないか。私の傍に寄ってきて「あそんで」と強請ったじゃないか。母君が見えなくなるとすぐに泣いて私を困らせたじゃないか。違う、あの子はとてもいい子で、違う。
力任せに扉を叩くと、その扉に鍵は掛かっていなかったようだった。衝撃で僅かに開いた扉、中は暗く静かで、廃墟を思わせる。暗い中には観葉植物や応接セット、重厚な棚などが見えて、オフィスとして現役であることを理解する。
その中で一筋、光が漏れ出ているのを見つけた。

「ああ……これはこれは、存外に早いお着きだ」

軽い音を立てて光が面積を増す。開けば開く程その中で影が主張する。
黒い人がそこには佇んでいる。
黒い髪、黒い瞳、黒いシャツ、黒いパンツ。
そしてその人はひどく白い。
白い肌、白い厚手のカーディガン、白い履き物、白い杖。
この人は誰だっただろうか、私はこの人を知っているだろうか。知らない等とは口が裂けても言えないだろう、私がこうしているのは誰のおかげだったろうか。だれのせいだっただろうか。
その人は杖を使って器用にその体を支えて、ゆっくりとこちらに進んできた。
近づけば近づく程に細い、近づけば近づく程に大きい、近づく程にその影の色は濃くなって、近づく程その目の輝きは増す。

「おかえり」

彼は笑ったろうか、彼は怒っただろうか。
あの子に私はどうしたろうか、笑ったろうか、怒っただろうか。あの子は最後に笑っていたな。涙を流してそれは汚く笑っていたな。それが何よりも美しいと思いながら、二度と見たくないと思う程にこの心を叩き潰したのを覚えている。そしてそれは度々、意識を落とすその間際に瞼の裏で輝くものだから、私は其の度心を潰す。
その欠片が傷を作って痛いから、私は飛び立って逃げてしまうのだ。


  *  *  *


昔、蝶を捕らえるのが得意であった。
指先に止まった蝶を、疲れを癒そうとぱたんと閉じたその翅を、そっと後ろから摘み上げ、そのまま小さな籠に入れてしまう。
籠の中で、蝶は逃げようともがく。翅を広げ飛ぼうとしても籠の空は低い。飛びたくても飛べないその様は憐れで可愛らしい。
時々、力の加減を間違えたのか、翅が歪んで飛べない個体が出る。歪んでしまった翅をひくひくとさせながら、何もなせずに籠の中をふらふらと歩く。その姿を見ると何とも言えない気持ちになって、その綺麗な翅に口付けさえしたくなって、死んでしまったその後はわざわざ歪んだそのまま標本にした。
普通のものも、歪んだものも、すぐに死んでしまった。
餌をあまり食べず、最後には諦めたように大人しくなって、いつの間にかそっと横たわっている。
あの子は確か、私に「眠っているの?」と聞いた。そして私は、その子は幼いから分かりっこないのに「死んだのだよ」と答えた。あの子は小さく「そう」といって、葉っぱを数枚そこらからとってきて、横たわる蝶に被せた。「おやすみなさい」と、そういって、また目を覚ますのだと信じてやまず。
あの子は優しい子であった。過ぎるほどに優しい子であった。
あの子とは誰の事であったかな?あの子に問うてみることにしようじゃないか。
懐かしい回想に胸を僅かにときめかせ乍ら、私は慣れた機械を操作する。
扉を開いて、彼を押し込んで、閉じて、目的の階のボタンを押す。動き出すエレベーター、圧迫感に彼は床に座り込む。

「今回はまた、随分溜め込んだようだ」

烏香。
彼の名前を呼んでやれば彼は大人しく顔をあげ、どろりとした瞳にこちらを映す。死んだ魚の様な瞳、と表現するのをたまに聞くが、そんな優しいレベルの話ではない。
どろりと濁った瞳の奥で、何かが弾けているのが見える。ぱちぱちと、何かが瞬いては消えていくのを見る。虫の目が光に反射している、玉虫色の輝きがこの深い黒の奥で息をしている。
私だったら、今の彼をそう表現するだろう。作家でもなければ詩人でもない、そんな私の陳腐な語彙での話だが。
じっと見つめていても、彼は何も言わない。感情らしいものが見える気配がない。
其の様子に成程、と一人納得しているうち、到着を示すベルが鳴った。
ベルが鳴っても開かないそのドアを、ポケットから取り出した鍵で開ける。このビルの最上階、つまり現在いるこの階は、社員すら入れない私のプライベートスペースである。エレベーターでこの階に止まる事は出来るが、鍵を持たない者には入れない仕掛けになっている。コントロールパネルを開き、空いている穴に鍵を差し込んでようやく、エレベーターはゆっくりと扉を開けた。

「出ないようなら置いていくぞ」

エレベーターから降りればそこでは薄暗い空間に一本の道が続いている。道の両端には一定の間隔で扉。その扉の奥には様々な用途で使われる部屋がその用途に合わせて誂えてある。しかし、今は目的の部屋さえあればいい、その他の部屋の事など至極どうでもいいことだ。
一つ、二つと扉を乗り越えて、用があるのは廊下の一番奥。唯一突き当りに存在する部屋。
ゆっくりと扉を開き、さぁ、と彼を中に招き入れる。入れようとする。しかし、彼がこの部屋に素直に入ったことなど、この部屋を使った記憶をいくら漁れど一度だってありはしない。
抵抗らしい抵抗が出来るわけでもないくせに、ふる、と一度首を振り、いやだ、と小さく口に出し、そのまま、部屋の中をじっと見ている。
何よりもそれを望んでいるくせに、どうしたってなけなしのプライドが邪魔をしてがっつくことが出来ない。
そういったところも好ましく思っているし、気分が乗ればここで多少遊んでやってもいいとは思うのだが、今日は然しそんな気分ではない。
プライドなど、折って叩き潰して擦って砂にして風に流してしまえばいい。
風に乗るのはお得意だろう?お前はそうして飛ぶのだから。
普段なら確実に力では敵わないが、弱っているというならば話は別だ。
杖でつついて無理にでも押し込んでしまえば、もとより大した抵抗など無いのだ、細い身体は吸い込まれるようにして部屋に入っていく。
白をたっぷりと敷き詰め、それしかなくした部屋に、黒が落ちる。
部屋の面積の八割以上を占めているのはそれは大きな寝台。それ以外にあるものと言えば、寝台の横にぽつんと置かれた白く塗装された椅子。
高層階にありがちな窓はない。もちろん換気用の小さなものは開けてあるが、それだけだ。
バランスなんて取れる筈も無く、なんとか寝台に倒れこむように着地した烏香。それが起き上がることが無いよう杖を突きつけながら、ゆっくりと椅子まで移動する。私にとってはこれでさえも重労働なのだが、可愛い弟のためならそれも許そう。甘んじて受けることとしよう。
椅子に座り、突き付けた杖を捨て、小さな頭をそっと枕に押し付ける。

「お眠り、烏香。『兄さん』はもう、見ていられない」

烏香は目を見開き、一度身体を固くして……それから事切れたように力を抜いた。
細く、聞こえるか聞こえないか、見て取れるか取れないかの呼吸を繰り返し、しかしじっとこちらを見ている。
薄く口が開いて、白い歯と柔らかく動く赤い芋虫の舌が見える。
今からここに花が咲く。鮮やかで香の濃い、どれをとっても最上の花が咲く。それに自ら埋もれようとする蝶が笑う。

「にいさん」
「ああ、そうだとも。兄だとも」

この時だけ烏香は私を「兄さん」と呼んだ。いつもは蓮見、蓮見と名前でしか呼ばないくせに、こんな時ばかり私をそう呼んで、私を湧き上がる愛しさで胸を詰まらせて殺そうとする。だから私も、いつもは「お前」というけれど、この時ばっかりは名前で呼んでやるのだ。

「きょうはなんのおはなしをしてくれる?」
「烏香が聞きたい話をしてやろう。何が聞きたい?」
「にいさんのはなしはみんなすき、ちょっとむずかしいけど」
「私からしたら烏香がする話の方がずっと難しいがな……前の、雀が薔薇に食べられて太陽に融ける話だとかな」
「かがみがとけるとみんなバラバラになってさいごにはつきだけがのこるんだよ。それでみんなしあわせになるってかしこいありがいったんだ」
「影が百八十度回ると海が干上がるんだろう?」
「そうなの?そんなこといったかな。それよりくらげはそらからおちるときもぐらにたすけをもとめるかな?」
「溺れる者は藁をもつかむというからな、そういうこともあるだろう」
「わら?わらはちがうよ、わらはくものうえでわらいながらねこにこおりをなげつけるんだ。そうしたらしゃちにしかえしされてうみのそこでかいといっしょにパーティーをするんだ」
「そうだったか、そうだったな……その話、哲生にしてやったら喜ぶんじゃないか?」
「てつお?」

彼は楽しそうな飛び切りの笑顔のまま、悪意の一欠けらすら知らない顔で言った。

「それはだあれ?」

この意味の無い問いかけを何度繰り返しただろうか。何度彼はあの可愛い弟を忘れただろうか。飛び立った後の彼の残滓は無邪気で残酷で正直で忠実だ。
私と同列であること、「兄」であることを捨てて、ほかの弟たちなんて全て忘れて、私の唯一人の「弟」になった気になって、私を独り占めした気になって。
それが私には如何も愉快でならなかった。こうも人は変わってしまうのかと、理科の実験を見る様に純粋な気持ちで驚き心が躍るのを感じた。どくどくと体を流れる血液が勢いを増して、血の気の無い此の肌にほんのりとした色を指すのを感じた。高揚がぐちゃりと頭を掻きまして、どうにもならない。

「兄さん」

ふと烏香が呼ぶ。問答でもなく譫言でもなく、比較的確かな声音で。
ああ、この時間ももう仕舞いか。
些か惜しいものを感じながら「なんだ」と努めて優しく返してやる。自分の声だが、随分と吐き気を促すものだ。

「もうね、わたしはねむいよ」
「ああ、そうか。もうよい子は眠る時間だろうな」
「ねむるの」
「ああ」
「はっぱを、ね。とって、かけるんだよ」
「そうだな、お前はいつもそうしていたな」
「おやすみ、って、いって」

そうしたら、またとべるでしょう。
そうして烏香は小さな最期の息を吐いた。
私は彼に白いシーツの葉をかけて「おやすみ」と小さく言った。幼い彼がそうしたように烏香がそうしたように。
そうして彼は眠りについた。再び彼が傷つき、飛び立ち、捕らわれ、歪められるために。

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