レモンの皮膜

その少女の事を思い出したのは五年ぶりで、経年により随分とぼやけた景色の中で彼女は笑った。セーラー服を着て夏の眩しい光にさらされながら、彼女は確かに笑っている。
彼女とは、高校時代の同級生の事であった。名前はどうやっても、いくら考えても思い出せない。きっとあの頃に覚える気がなかったのだろう、もとよりそんなものは記憶にないのだろう。それでもなんとか、彼女の姿かたちだけはこの頭は覚えていた。それは彼女が、高校三年間常に俺と同じ図書委員会に所属していたからである。そうでなければ彼女は俺の記憶に残ることは愚か、俺の視界にはいることなくその一生を終えただろう。彼女は俺だけでなく、世間一般から見ても影が薄いと言われる部類の人間だった。容姿、成績は共に人並み、お人よしな性格で頼まれたら断れない、真面目だけが取り柄で、休み時間は友人と比較的静かに談笑している。特に変わったところのない、良くも悪くも目立たない、それが彼女の特徴だった。
「須藤君」
ある日、帰りのホームルームを終えてさあ帰ろうとしたその瞬間、彼女が俺の事を呼んだ。確か三年、春から夏に移り変わろうかという季節の事だったと思う。両手で鞄の持ち手を握り、俺の顔と首とに視線を往復させる彼女。俺はとっさに委員会の用事でもあるのだろうと思った。その時の俺は今と全く変わらず自覚のある不愛想で、そんな俺と話すのは嫌なのか、人は彼女を経由して俺に連絡を寄越した。特に嫌な感情を抱いたことはないし、彼女も何も言わなかったので定着してしまった風習である。
「…………委員会の連絡か?」
呼びかけるなり一向に話を始めない彼女に焦れてこちらから問いかける。若干俯きがちだった彼女は勢いよく顔をあげると、慌てた様子で口を動かした。わずかな苛立ちが伝わってしまっただろうか。
「そ、そうなの……ごめんね、ちょっと図書室で待っててもらってもいいかな?」
何か仕事でもあるのだろうか、そういうことならば断わることはできない。サボれば今後効かせたい融通があるときに不利になる。俺は頷いて、彼女より一足先に図書室へと向かった。カラ、と引き戸を開けたその先には常駐しているはずの年配の女性司書の姿がない。そのせいか室内はどこかひんやりとしていて、古ぼけた紙たちがその香りで存在を主張するのみであった。キョロ、とあたりを見回し、利用者がいないことを確認すると、俺は窓際に寄って、窓枠に届くか届かないかの背の低い本棚に腰掛けた。行儀が悪く人前では決してできないが、これが大分楽な姿勢なのである。
そこから広がるのは校庭の景色。野球部、サッカー部、陸上部、部活動に勤しむ生徒たちと、帰ろうとする制服姿の生徒たちの姿。聞こえてくる吹奏楽部の生徒の楽器の音。
いつもは気にも留めずに無視しているものだが、こうして見るとどこか感慨深いものがある。そんなことを考えながらどれだけの時間をつぶしただろうか。
「ごめんね、遅くなって」
そうしてようやく彼女が現れた。彼女の姿は先ほど教室で見たものと大して差はなく、職員室によって書類を預けられた、などということはなさそうだった。ならば待たされた理由は?と考えてしまうのは悪い癖である。このころの俺はとにかく時間が惜しかった。早く帰って、日課である幸せな時間に浸りたい。その気持ちだけが先走って、それだけの思いで行動していた。
「それで、用は?」
だからこそ、すぐ本題へ急ごうとする。俺は棚から腰を浮かすと、未だ入口の傍にいる彼女へと近寄った。ついつい早足になってしまってぐんぐんとその距離は縮まっていく。彼女は体を強張らせた。自慢ではないが、百八十の身長を持つ俺だ。その身長と仏頂面が合わさればさぞ怖かっただろう。今はそう思うことが出来るわけだが、当時の俺にそんな配慮が出来るわけもない。それほど大人になりきれているわけではなかったのだ。手を伸ばせば数秒。そんな距離まで近づいて数秒、慌てるのみであった彼女の顔が、覚悟を決めたように鋭くなった。
「須藤崇一君」
「はい」
そもそも接している時間も短かったのだが、そんな攻撃的な彼女を見るのは初めてで、名前を呼ばれたこともありつい返事をする。深呼吸をする彼女を間近で見ながら、おいおい、と内心苦笑した。何だこの状況は。放課後の人気のない図書室。男子生徒女子生徒二人きり。覚悟を決める女。こんなのよくフィクションの世界でありそうなアレみたいじゃないか。俺には一生縁遠いような、
「好きです、お付き合いしてくれませんか?」
告白、のようではないか。
そこから先の俺の記憶は途切れていて、気が付けばそこは家だった。どうやって家まで帰ってきたのか、彼女をどうあしらってきたのか、そうしたことは全く覚えていなかったが、自分がきちんと物事に対して驚くことが出来る人間であったのだと的外れな安堵をしたこおtだけは覚えている。自分は部屋にいて、制服のままでなぜか机についていて、ただ携帯電話を握って呆けていた。その画面には今までにはなかった彼女の連絡先が表示されていて、自分の行動を思い出せないことを心底悔やんだ。だがしかしそう悔やんでばかりはいられない。何はともあれ、無事に帰宅はしたのだ。そう言い聞かせて、まずはやらなくてはいけない雑事をこなす。家事を手伝い、食事と入浴を済ませ、予習復習と明日の準備。そうしているうちにみるみる時間は流れてもう夜の九時だ。
もう「お楽しみ」をしてもいい頃だろう。
俺はPCを取り出して、携帯とケーブルで接続する。その画面を見ながら正常に作動している機械たちの状態を確認すると、俺は電話帳から一件の番号を呼び出した。
【兄さん】
その三文字を見るだけで胸がときめくのを感じる。呼び出し音がするたびに鼓動が早くなるし、応答する声に熱が上がった。
兄と声をかわすその時間だけは、俺は自分が年相応、いやそれよりも幼く、また同年代の女子のようになることを感じていた。
兄との電話の内容は文字にしてしまえば酷く平凡だ。今日は何があったのかと報告し合い、愚痴があればそれも言って、聞いた方は励ましてやる。長電話は女の特権とよく聞くが俺たちも大概なもので、気づけばその平凡な会話も一時間は軽く続いたりした。長電話、とは言ったが二十四ある一日の時間のうちたったの一時間。ささやかすぎる。
『で?崇一の方は?今日何かあった?』
「俺……?」
気が付けば兄さんの手番は終わっていたようだ。不意に訪れた俺の手番。また意識が飛んでいたらしい、ちゃんと相槌は打てていただろうか。
そんなことを考えながら言われたとおりに何かないかと話題を探す。今日、今日あった事と言えば……
「女子から告白されたくらいかな」
『へーそっか、告白ねー……告白!?』
兄さんは随分と驚いているようだった。それはそうか、そういった話題は一度も出したことがなかったし、兄さんと比べたら俺は自他ともに認める不出来な弟、そんな話題が出ると思ってもいなかったのだろう。俺自身もびっくりだ、俺なんかが人に好かれるなんて。
『ついに崇一にも春が……!お返事した?付き合うの?』
「落ち着いてくれ兄さん……」
なぜだか喜んでいてくれている事もうれしいし、落ち着きのないあなたも基調で可愛いが、これでは話が進まない。とりあえず、と経緯を話し、明日まで諸々の話を保留にしてくれるよう頼むと、何がおかしいのか兄さんは笑いっぱなしだった。落ち着いてくれとは言ったが、その興奮はまだ収まっていないようである。少しアルコールでも入っているのかもしれない。
『でも、嬉しいなぁ』
ふわふわとした口調で兄さんが言う。
『崇一は、ちょっと不器用なだけどいい子だからね。それをちゃんと見てくれる子がいてよかった』
いいこ。たった三文字が胸に突き刺さった。
いいこ、いい子、そうか。
お れ は こ れ で い い ん だ 。
そう、免罪符をもらったような気がして、ふわふわと浮き上がるような気持ちが止められなかった。気を抜いてしまえばどこまでも、それこそ天にまでも昇ってしまいそうな心を押し込めて、それでも会話を続けていれば時間は一時間どころか二時間にも届きそうになっていた。兄さんは慌てた様子で電話を切り、俺はしばらく携帯を握りしめて余韻に浸っていた。落ち着いて、ゆっくりと息を吐いてからPCのエンターキーを叩く。浮かび上がったウィンドウ、スピーカーから流れだすのは先ほどと全く変わらない会話。今日も全く問題はない、音質も極上だ。
「俺は『これ』でいいんだね……」
腹の底からこみあげてくる笑いを押さえつけることは最早困難を極めていた。その録音をディスクに焼き、引き出しに仕舞い込む。引き出し一杯にぎっちり仕舞い込まれたディスク、新しくそこに収まるのは823枚目。数の分だけの優越感。
「これで、いい……」
そのとき、彼女の顔がちらついた。彼女の事を思い出した。
そうだ、返事はどうしよう。
いつもならああいった雰囲気になる前に一刀両断していたものだから、どうしたらいいのか皆目見当がつかない。どうしたらいいだろう、どうしよう、似たような言葉が頭の中を占めてぐるぐるとまわる。どうしたらいい、それすらわからないまま夜を明かす。翌日になって結局俺が出来たことと言えば、この胸の中にある靄を直接彼女にぶつけることだけであった。
彼女の事については何も知らない。だから好きでも嫌いでもない。
そう伝えることだけであった。
「お試しでいいの」
ぶつけた結果、彼女は嬉しそうにそう言った。
嫌われていない、迷われるだけまだ望みがある、それだけで嬉しいのだと。
全く女子らしい、引きずられるような思考だと思った。そして多少共感を覚えてしまう自分が憎い。
それから彼女は最早デフォルトなのではと思い始めてきたが、恥ずかしそうに俯いて、紙切れを一枚差し出してきた。青い涼やかな絵の描かれた、細長い紙きれ。指の間からちらりと「水族館」の文字が覗いている。
「よければ、今度のお休みにでもどうかな……嫌なら、いいんだけど」
地味な見た目にそぐわず、彼女は思った以上に積極的であった。友人にでもそそのかされているのかもしれないが、その行動力は拍手ものだろう。
だかしかし、だからこそ、彼女が少し可哀想に思えた。なぜこんな男を好きになってしまったのかと疑問まで生まれた。彼女は可愛らしかった。言ったように決して派手な外見ではないけれど、人目を気にして髪を直す仕草だとか、目を合わせた時に見えるまつ毛の長さだとか、自然な桜色をしている磨かれた爪だとか……そんな、見逃すようなさりげない箇所が、いいと感じる。もしもこれを見ているのが俺でなければ、この少女はきっとずっと笑って生きていけるのだろう。平穏で、大きすぎる幸せもなければ大きな不幸もない、身の丈に合った十分幸せな、そんな生活をこの先送っただろう。
俺が、彼女の中で一つの汚点となるのだ。
このときは過大評価も甚だしく、そんなことを思った。
「なんで、俺なんだ」
ぽつり、と滴のように言葉が落ちる。先ほどの思考がそのまま漏れ出てきたような質問だった。素朴なものであった。
彼女の事を今まで散々地味だの目立たないだの平平凡凡だの普通だのと言ってきたが、俺もそれに大した差はない。教室の隅にそっと佇んでいるような、そんな存在であったはずだ。
どうして?
その答えがどうしても知りたかった。
「優しいから、かな」
彼女が答えた。
「ずっと前に、捨て猫の面倒を見てる所を見たの。それから、気になって」
捨て猫、というワードには覚えがある。目についたら大体、しばらくは様子を見ることにしていたから。
「須藤君、あんまりそういうことしそうに見えないから少し驚いて……ギャップ、ってやつかな?」
なるほど、そうか。なるほど。優しさ、か。
「わかった、ありがとう。……チケット、貰えるか。俺でよければ行く」
俺はこのとき、彼女に対してあの猫たちと同じように接してやろうと決めた。彼女の言う「優しさ」をもって、ただそれだけを与えてやろうと決めた。
その週末、俺は約束したとおり彼女と共に水族館へ行った。出来る限り紳士的に、彼女を尊重して、彼女を楽しませようと、ただそれだけを考えて行動した。そしてその帰り、思いつく限りの最低な言葉で彼女を振った。その日、最初で最後と思って握った彼女の手は、今までに何回も潰した猫たちの首とよく似た細さをしていた。
青春、熟れ過ぎた果実のように甘ったるい思い出である。

*  *  *

「崇一君、大丈夫かい」
肩を揺さぶられて思考から引き戻されれば、そこは廃ビルの中であった。薄暗い、ひゅうひゅうと風の通りぬける、気味の悪い立方体の中。そこに勿論彼女はいない、あの懐かしい故郷の住宅街もない。今まで追っていたあの景色が夢か、はたまた幻想であるとようやく気が付いた。
「悪い夢でも見たんですか?汗が凄い」
柔らかい手ぬぐいの感触が頬に伝わる。あれこれと世話を焼いてくれる俺の「優しい」上司は、気が済むまで手ぬぐいで俺の顔を擦ると、満足げに目を細めた。床に座り込んで壁に背を預けた俺の真ん前にしゃがみ込んで、俺の顔を覗く。その視線で頭が痛くなりそうだった。俺は彼の琴線に触れかけているらしい。さっさと立ち上がって大丈夫だとジェスチャーする。彼はにっこり笑って立ち上がった。信じてくれたかどうかはわからない。
「すいません。手間、かけます」
「いいんですよ、代金もいただくことですしね」
上司から目線を外すと、そこにはまだ二人、上司の連れてきた部下……つまりは俺の先輩たちが何かを物色していた。
ごそごそ、ごそごそ。
まるで何かを探しているような動き。その何か、がわからない程、俺も馬鹿じゃない。ペーペーの新人じゃあるまいし、俺も大分この業界には慣れたほうだ。俺は自分のスーツの懐を漁って、数冊の小さな冊子とカードを取り出した。
「身分証はもう盗ってあります。処理してくださって結構ですよ」
処理。
他愛ない世間話として聞いてもらいたいのだが、死体を完璧に証拠を残さず処理するためには最低三人の人員がいるらしい。
依頼人である俺と、他に三人の男。
処理するのは大きな肉の塊。
その肉の塊が徐々に足の先から細かくなっていくのを見ながら、俺は再びぼんやりとして考えていた。生臭い血の匂いを嗅ぎながら、彼女の事を思い出していた。
もし、あのまま彼女と付き合っていたら……
考え事のお題は途方もないばかげたもので、いくら考えても想像の先にある答えは闇一色であった。考えても仕方がない。俺は今、ここでこうしている。それ以外の未来を、俺は軽々、ごみと同じように捨てたのだ。
「あ、それ待ってもらえますか」
頭を砕くその瞬間、ふらりとその塊に近づいた。平平凡凡、人並みなその容姿が月明かりに照らされる。歪にゆがんだその顔はわずかに彼女の面影を残して、その年齢よりぐっと幼い顔をしていた。
「さよなら」
ぐしゃり、とつぶす。その感触、香る芳香。
ああ、熟れ過ぎた果実がまた落ちた。

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