藤堂幸孝

朝目を覚まして、しんとした静かで冷たい空気で落ち込む。
鳥の声、車の走る音、子供たちの賑わい。分厚いカーテンの向こうにあるそれらが酷く遠くに聞こえて、勝手な疎外感に喉が締め付けられるのを感じる。
朝はいつもこうだ。
起きてしまったという後悔。暗い部屋と無音がもたらす孤独感。他者と比較することが生まれる劣等感。漠然とした未来への不安。
それが一気にやってきて、寝起きで脆い涙腺からぽろぽろと涙がこぼれて滲む。
誰か一緒にいてくれたらこうはならないのに、と恨み言を抱え込んだまま体を起こした。
温かい身体に触れていると安心する。煙草の香りが自分以外の存在を教えてくれる。呼吸の音は存外耳の中で響いて心地がいい。怠惰に誘われると勿論と望んでしまう。
これほど幸せなこともない、が、今はそうではない。とにかく今は少しはましな自分になろうと動くしかないのだ。
チカチカと光るランプにつられて端末を手に取る。
初期設定から変えていないロック画面は味気なく、じっと見ていたらこれだけでも落ち込めそうだった。
パスコードでロックを解除すると、いくらかの通知がやってきていた。付き合いでダウンロードしたゲームの通知、企業からのメールマガジン、リマインダーの通知。文字列が視界を滑っては消えていく。昨日は割と遅くまで仕事をしていたものだから、通知の数はそこまで多くはないようだった。その中に馴染みのものがぽつんと埋まっている。ぽつぽつと、2〜3個並んだメッセージアプリのポップアップ。わずかに添えられた内容の文章は他愛のないもので、ほっと息をついた。ようやく、起きてからまともに息をした気がする。
朝から自分の情緒が不安定であることにも、もうだいぶ慣れた。その大荒れな心のうちをコントロールするのにも、何とか慣れた。慣れるしかなかった。
掛け布団をめくりベッドから床へ足を下ろす。ぺたぺたと歩くフローリングは冷たかった。

ダイニングに備え付けられたキッチンは小さい。二口コンロと流し台を除いた作業スペースは、カップを三つほど置けばいっぱいになる程度の面積しかない。そこは随分と綺麗に片付いていた。
ケトルで湯を沸かしている間にカップを二つ取り出す。
片方には白湯を注ぎ、片方にはコーヒーをいれる。
行儀悪くも立ちっぱなしのまま淹れたての珈琲を啜った。咎めるものは誰もいない。
ゆらりと湯気をたてるそれらに触れているとじんわり指先から温かくなって、ようやく正常な思考が働いていく。ふふ、と堪えきれない笑いが口元からあふれ出てきた。
また馬鹿なことを考えていた。なんであんなことを考えていたんだろう。
終わってしまえばこんなものなのだ。あっけなく意味のない。

「…………つかれた」

しかしながら時刻はまだ朝で、なんなら起きて30分も経っていない。今日も家事に仕事に、幸いにしてやることは沢山ある。
ざらりと掌に朝食の錠剤たちを取り出して、白湯とともに一息に呑み込んだ。



家事を終えると時計の短針は10の字を少し過ぎたあたりまでやってきていた。
毎日こまめにやっていれば一人暮らしの家事はそこまで大したこともない。
食器洗いはコップくらいしかない。風呂掃除は風呂上りについでにやってしまう。洗濯も一回、シーツやらを洗うとしても二回で足りるし、一番大ごとである掃除ですら埃を落として掃除機で吸う程度。
水回りは週末に回して曜日感覚の維持に一役買ってもらうことを抜きにしても、まぁ、というレベル。
家にずっといる身としてはもう少し負荷があっても……と思うこともないが、これ以上と言われても思い浮かばないのが現状だ。比較的モノの少ない我が家をぐるりと一回り眺めながら、うん、と一つ頷く。仕上がりはおそらく悪くない。やるべきことが片付く、というのはいい気分だ。
いつもの流れならこれから少し体を動かしておくところだが、今は少し気分が向かなかった。
特に何か理由があるわけではないが、今絶対やらなければいけないという理由もない。ならば運動は夜に回してしまおう。
部屋の隅に固めて置いておいたカーディガンと外出用の鞄を手に取る。革製の鞄はまだ買って一年も経っていないものだが、これ一つをずっと使っているためか色が馴染み始めていた。細かい傷を撫でながら達成感を覚えつつ、中身を確認する。
財布と筆記用具、キーケース、タブレットにキーボード、息抜き用の文庫本。
中身はいつも変わらない。昨日も一昨日もずっと同じ中身を持ち歩いている。
その不変性が保たれていることに安堵して、玄関から外へ出た。
今日の天気は大分機嫌がいいらしい。
近頃は三寒四温の度を過ぎて、冬と初夏を繰り返す様な有様。そのせいか、心も体も調子を崩してしまってまともに動けない日が多かった。寒い日はどうにも調子が出ない。今日ももし冬のようなら出かけるのはやめておいても……と思っていたが、触れてくる空気は温かい。
空も雲が少なく、青の色が鮮やかで綺麗だった。射してくる光は眩しいものの、嫌ではない。
元々、外に出るのはあまり好まない人間だった。興味関心のあるものは基本的に室内のみで十分完結するものであったし、意味が感じられなくて。しかしながら、大人になって随分たつ今となってはそれではいけないとも思う、思えるようになった。
人間、日光を浴びねば健康に悪いともいう。

「…………いってきます」

いつものように一歩足を踏み出した。
朝よりも昼に近い頃合いの今は、閑静な住宅街といってもそこそこに人通りがあった。
飼っている動物の散歩だったり、公園へ遊びに向かう幼児と親だったり、買い物ついでに井戸端会議を繰り広げる主婦だったり。
長閑だな、と称していい、少し刺激の少ないような緩やかな日常。
不審でない程度に、横目でそれを眺めながら、すたすたと道を歩く。人よりも背が高く、それに伴って歩幅も大きいため時折前を歩く人を抜かしたり躱したりして歩く羽目になるのだが、すぐ前からやってきた小さな二つの背中には見覚えがあった。

「小岩のおじさま、おばさま」
「おお、幸孝か」
「奇遇ねぇ」
「こんにちは。お出かけですか」

それは父の知り合い、且つ比較的近所に住んでいるよう夫婦だった。
面識がある、どころか定期的に連絡も取るし、多すぎたもらい物はお裾分けに行く間柄。父の知り合いというには少し近すぎる。人に紹介するとしたら少し年の離れた友人、といったところだろうか。
おじさま……彼は、私の方に気が付くと少し眩しいくらいの表情で笑った。見慣れた笑顔である。
彼との出会いは最初は記憶がないほどに幼く、二回目は父の葬式であった。
父の関係は幼い頃からのものであるものの、犬猿の仲と称されるものだったらしい。
子供の私だからこそ態度には出さなかったものの、父への憎さが余って私にもいい感情は持っていなかったようだ。
しかし葬式終わりの食事会、蓋を開けて見てみればどうだろう。藤堂幸孝個人の印象は悪くなかったらしい。こまめに我が家に顔を出してきてくれ、頻繁に家に呼びつけられては、過ぎるほどによくしてもらった。亡き父との関係という下地が所々少し邪魔をしている部分はあったが、年々その影は薄れて今となってはすっかりだ。
自分たちには子供がいないから、と色々世話を焼いてくれるし、だから人手が欲しいと頼られるとこちらも何でもしてあげたくなる。
健全な、しかし他人としてはほんの少しの行き過ぎを感じるようなギブ&テイクの関係。
それは他には内緒の話で、見かけ上は、身内をなくした年下の男を気にかけてくれるいいご夫婦だ。

「これが花見にいきてぇなんて言うもんだから土手までな。お前さんは散歩かい」
「散歩がてら、行きつけの喫茶店まで。いつものです」
「だって今週までが見頃なんてニュースで言うからもうねぇ。幸孝君はもう?」
「散歩中にちらっと。独り身の男がじっくり花見なんて寂しいでしょう、行けませんよ」
「なんでぇ、いい人の一人や二人いるんじゃねぇのかい」
「おじさまの若いころじゃないんですから」

よくよく見てみればおじさまの片手には保冷バッグが釣り下がっていた。
天気もいい。おにぎりと簡単なおかずでも弁当にして花見なんて風情があっていいだろう。
おじさまもおばさまも、時折年寄りらしく、私に「恋人はいないのか」と聞いた。
息子同然の男がいい年にもなって未婚どころかそういう気配もない、となれば心配にもなるんだろう。その男が愛想もなければ常に仏頂面で慣れなければ口数も少ない男と知っていれば猶更。
しかしながら、そんな存在はいない、と答えた時どことなく嬉しそうに感じる二人の顔が、私は一等好きであった。

「またご飯でも食べに来て頂戴な。この人、楽しみにしてるみたいだから」
「おお、また一局付き合ってもらわねぇとなぁ。酒も溜まってるし」
「是非。都合が空いたらお電話しますよ」
「忘れんなよぉ」

そうして二人とは別れた。先ほど歩いてきた道を、今度は夫妻が遡るように歩いていく。ふと後ろを振り返ったとき、さりげなく繋がれていた手が遠めに見えて少し羨ましいような気がした。
あぁ、しかし平和だ。どこか心が温かい。
手に持った鞄の取っ手を何となく握りなおして、改めて目的地への道を歩き出した。



目的の店は住宅街の中でひっそりと営まれていた。
今時の洒落た感じはなく、昔ながら、大正舞台の小説にでも出てきそうな、レトロな雰囲気をしていた。
窓はすりガラスで、中は明かりがついているかどうか程度にしか伺うことは出来ない。
壁を這う蔦はどこか薄暗い雰囲気がして、初めての人間を尻込みさせる。
硬質で温度感の薄い外観。そこにちょこんとつけられたチョコレート色の扉を躊躇いなく潜る。
香る珈琲豆。光量控えめな暖色の光。規則正しく並んだダークブラウンのテーブルとイス。

「いらっしゃい」

顔馴染みの店主はカップを磨きながら、こちらの顔も見ずに一言言った。接客の常識からみればアウトな姿ではあるが、慣れてしまえばどうということはない。半ば定位置となった一番奥のカウンター席に座ると、店主は磨き終わったカップを置きながら言った。

「今日の日替わりはドリアです」
「じゃあ……日替わりセット、ドリンクはおすすめの水出しで」

ここで「いつもの」とか言えたら一般にはかっこいいのだろうが、優柔不断な自分は中々それは出来なかった。豆も淹れ方も種類が多彩なのがこの店の売りで、通いだしてしばらく経つが堪能しきるまではまだまだ遠い。それに加えフードメニューもあるものだからそれぞれ合うものを考えていれば「いつもの」で視界を狭める方が愚かしいのではとまで感じる。そういえば、この店で「いつもの」というセリフはあまり聞いたことがない。

「外、暑いですか」
「ほどほどに……初夏、ってほどじゃあないが」

仕事は食事を済ませた後でいい。
鞄を隣の椅子に置いてしまったのを見てから、店主はこちらに雑談を持ちかけた。向こうとしては放っておいてもいいと思うのだが、無言が過ぎて居心地が悪くならないようにだろう、こうした気遣いも好ましく思っている。私の受け答えはそっけないと言われがちだが、店主はあまり気にしていないようだった。

「じゃあ瀬川さんが来ますよ」
「大分久しぶりだな、あの人」
「寒いの苦手らしいですから。冬の時期は冬眠ですよ、熊なんだ、あの人は」
「俺も、寒いのは苦手だ」
「藤堂さんは寒くても来てくれるでしょう」
「家に一人でいるって言うのも、な」
「わぁ……こっちは寂しんぼ様様ですけど」

平日の昼間、ランチ前という時間もあって客は自分一人だけだった。店主は他に副業をしているらしく、常連が来ればまぁ続けられる、道楽の延長のような店だと笑っていたのを以前聞いた。他の人間がいればこうはいかないが、一人だと思うと多少好き勝手話していても許される。だらだらとこうして店主と雑談をするのも一種の楽しみで、いつもついつい仕事前に時間を使ってしまうのだ。

「そういえば、神田さんと岡本さんが今度藤堂さんと飲みたいって言ってましたよ」
「ああ、そうか」
「神田さん、藤堂さんのこと気に入ってるから」
「……行ってもいい、な。別に」
「本当に?二人とも飲み癖悪いですよ」
「飲んだことが?」
「前に。絡み酒がすごくて……藤堂さん捕まっちゃうよ」
「ほぉ……」

カラコロとドアベルが鳴った。この席からだと丁度まっすぐ前を見ると扉が見えるので、それが鳴るとつい前を向いてしまう。いつものように今回もそうすると、パーカーとジーンズというラフな格好をした女が一人、ひょっこりと顔を覗かせていた。

「お!藤堂さんいるじゃん」
「神田さん、いらっしゃい」
「どうも」
「やった〜〜〜お隣座っちゃお」

今まさに噂をしていた人物の登場に驚きながら、今日の仕事は諦めた方がいいかもしれない、と苦笑した。
鞄をどかしてやると、言葉の通り神田は俺の隣の席に意気揚々と腰かけた。肩口で切り揃えられた髪の毛が座りなおす動きに合わせてふわふわと揺れている。彼女は店主にカフェモカで!と軽快に注文して、カウンターに頬杖をついた。

「で?何のお話してたの?」
「神田さんのお話」
「俺と飲みたいって?」
「あ、その話ね。そうそう」

神田は、今この瞬間の服装こそ地味なものの、顔立ちや化粧は大分派手な女だった。昼間からこうしてふらふらしていることからどこぞの商売女なのだろうか。こまめに変わる爪の色だとか、ふわりと香る香水だとか、目元を飾っているまつげの長さだとか、そんな色めいたことばかりが記憶に残っている。
月に数度こうしてこの店で顔を合わせては、隣で珈琲を啜って談笑している。話の内容は友人とのことだったり、恋人とのことだったり、人間関係についてがメインだった。内容が日頃の自分からあまりにもかけ離れて新鮮だったので、聞いていて飽きることは今のところない。時折他の客も交えて相談大会になることもあるが、高確率で発端は彼女だった。

「あたし結構飲み会やってるんだけど、藤堂さんって呼んだことないな〜って。そもそも連絡先すら知らなくない?って感じになってね。よかったらどう?」
「仕事明けなら行ってもいい」
「割と軽いお返事。本当?本当に来る?」

年齢を聞いたことはなかったが、話の流れからして成人しているのだろう。ならば一緒に飲むくらいなら特に問題はない。言質はとったぞ、と半ば脅す様な声色で言われたが、酒の約束程度でそんな風に言われるとは少し心外だ。ならば連絡先を交換しよう、とお互いのスマホを見たところろくなメッセージアプリを入れていないことを笑われた。電話かメールか、それくらいで十分だろうと反論すると、今時メールは使わない、とsらなる笑いを誘ってしまう。それでも今更そのためアプリを入れるのも躊躇われて、結局名前と電話番号だけを登録させた。

「藤堂さん……の、名前ってこれなんて読むの」
「ゆきたか」
「ゆきちゃんじゃん」

成人しているとわかっているのに話している感覚が女子高生のそれで少し困る。私のような古い人間の中の女子高生だから大分古い型であろうとは思うが、なんというか、軽い。
俺の名前一つでケタケタ笑う彼女を見ながら、ここまで愉快になれるのだから大分コスパがいいな、と思う。食前にやってきた水出し珈琲を一口飲むこちらだけが冷静だ。その頃には彼女のカフェモカも届いていて、隣で今か今かと湯気を立てて待っていた。

「君は面白いな」

零れ落ちる様にぽつりとつぶやくと、彼女は待ってましたとばかりににんまりと笑った。
ぐい、と顔と顔を近づけて、まっすぐに俺の目を覗き込む。

「そう、あたし面白いの。面白い方が何かとお得でしょ?」

自信満々に彼女は言った。自己肯定感が高いようで素晴らしいが、お得。なるほど、お得か。面白さとお得が等号、もしくは矢印で繋がるような考え方を今までしたことがなかったものだから、興味の芽が出るのを感じた。

「たとえば」
「好きな男が一緒に飲んでくれたり」
「単純だ。直情で短絡だ」
「でも伝わらないよりずーっとマシよ。そうでしょう?」

顔を近づけたまま、熱く語る彼女の目は爛々と輝いていた。自分も随分年を取ったのだろう、近頃の若い者の勢いには驚かされるばかりだ。
昔よりある大和撫子概念、奥ゆかしくお淑やか、といった女から彼女は大分離れていたが、それはそれとして、全く違う分野において、これはこれで、彼女は好ましかった。
なるほどなるほど、うんうん。
納得しかけながら頷いていると、諫めるような言葉が飛んできた。

「神田さん、あんまりすぐ人にそういうこと言うもんじゃないよ」

店主が注文していたドリアを店の奥から運んできて、目の前に置いた。それは香ばしい匂いとともにぶわりと湯気を放っていたが、添えられた取り皿のおかげで火傷はせずに済みそうだ。

「あたし、結構真剣なんだけどな」
「年が離れすぎじゃないかい」
「今時年齢差なんて関係ある?あたし、年上好きなの」

チーズの伸びる様はそれだけで食欲をそそった。ミートソースとチーズを全部混ぜて食べるのは行儀が悪いだろうか。しっかり混ぜて味を均一にするのが好きなのだが、些か見栄えが悪い。せめて取り皿に取った分ならいいだろうか。
もぐもぐと無言で咀嚼している中、店主と神田の声だけが店内に響く。話題の中心は間違いなく自分であるはずなのに聞く気はどこかに失せてしまった。言葉がただの音になって右から左へ抜けて行ってしまう。
うまい。この店のおすすめはドリンクもフードも外れがないな。

「ゆきちゃん!あたし本気だからね!」
「ん。」

何の話だったんだろうか、いきなり話を振られてもどうしようもなかった。
いつのまにか定着していた「ゆきちゃん」というあだ名にツッコミを入れる隙すらなかった。
店主はため息をついてゴリゴリと豆を挽く作業を始めている。その様を見ると、口論は神田に軍配が上がったらしい。どういった経緯かは知らないが。

「とりあえず後で予定決めて電話するから!今夜するから!よろしくね!」

一杯で湯気を立てていたはずの彼女のカフェモカはいつのまにか空になっていた。
この後に何か予定があったのだろう、勘定を済ませてバタバタと彼女は去っていく。その姿はどこか遅刻寸前の学生とも重なって、少し面白かった。面白かった駄賃に次会ったら奢ってあげてもいいかもしれない。次会うとしたら言っていた飲み会だろうか。

「藤堂さん、罪な人だねぇ」
「……知ってるだろう」
「まぁ、そうですね」

ご馳走様、と皿を押しやり、どかしていた鞄を引き寄せる。
今日やろうと思っていたのは月刊誌に寄稿しているコラムの執筆だった。編集長が俺の文章を気に入ってくれているらしく、事前に題材さえ言っておけば何を書いてもいい、という好条件でページを開けてくれている。今回の題材は事前に「煙草」と伝えてある。

「煙草が吸いたい」

ふとそう思って、スマートフォンの電話帳から一件の連絡先を呼び出す。
きっと、書くなら今夜がちょうどいいことだろう。



別に、煙草が好きなわけではなかった。
しかし、かといって、特段嫌いというわけでもなかった。
人が吸っているのを傍で嗅ぐ度、弱い気管を刺激される不快感と同時に、マーキングによる獣じみた陶酔を感じていた。それは酷い思い込みで、ただの被害妄想で、気づいた今となってはただの恥だった。
それを吐露した最初のヒトは、俺も喫煙した方がいいと煙草を勧めた。しかし、一週間ほど吸い続けたところで、体がどうしても許してはくれなかった。まだ若かった当時、拗ねたように口を噤んだ俺をそのヒトは笑った。そして宥める様に、改めて一本だけ煙草をくれた。時々、日に一本なら大したことはないだろう、と。
差し出されたよくある銘柄のそれには、バニラの匂いが混じっていた。もう匂いは忘れてしまったが、そんな匂いだったという記憶だけが残っている。
シャワーも終わって綺麗になったばかりの、まだしっとりと濡れていた俺に自分の煙草の匂いを付けるのはさぞ楽しかったろう。
そのヒトは満足そうな目で俺を見て、熱の籠ったような息を吐いた。俺自身も何となく相手のそれがわかって、愛されているように感じて、柄にもなく、もう一回と強請っていた。
それ以来、寝る相手は喫煙者だけにした。男でも女でもいい、年上でも年下でもいい、抱くでも抱かれるでもいい、煙草を吸ってさえいれば。
そうして、終わった後に煙草を一本強請る。
それがルーティーンになっていた。
もう何年になるだろうか、それは今の今まで続いている。

「煙草を一本、くれないか」
「シャワー浴びたのに?」
「だから、だ」

少し気だるい程度の心地よい疲労感と、そこらにありがちなすっきりとした感覚。
俗っぽいそれらの後味をありありと纏わせながら、浴室から出てきたばかりの女に強請った。
女は濡れた髪をタオルで拭いながら、手に馴染んだシガーケースを手に取る。
ひしゃげたパッケージではなくブランドロゴのついたシガーケースが差し出されたことに少し驚きながら、その中から一本だけ頂戴する。ベッドの脇にに投げたままになっていた上着から燐寸を取り出してから、ベランダへ出た。

「そんなの使ってるの?」

室内から聞こえる問いかけには答えないまま、煙草を銜えて燐寸を擦る。指先にぼんやりとした熱源を感じながら煙草に火を点すと、苦い匂いがした。口腔を通り越して喉、肺まで乾くような感覚がするのは気のせいだろうか。
口から細く吐き出した煙が、素肌に纏わりつく。
この時期、昼がどれだけ温かく夏のようであっても、夜はそれなりに冷えるものだ。
あまりベランダに長居はよくないだろう、と深く吸い込んでは吐き出す。比例して量の増える煙を指先で散らしながら遊ぶのは、幼い頃に還ったような心地がした。そういえば、昔身内に喫煙者がいた。

「冷えるよ」

髪をすっかり乾かし終え、最低限の身支度だけ整えた女がベランダに顔を出した。その顔を見ながら。短い髪はドライヤーが短くて済んでいい、と酒の席で満足そうに言っていたのを思い出した。確かに早い。早いとはいえ、だ。それなりに時間は経っていたのだろう、わざわざ呼びに来るくらいなのだから。

「ん」

煙草も短くなった、ここにいる理由もない。ならば女の苦言に付き合ってやってもいいだろう。
携帯灰皿に短くなった煙草を放り込んで、燐寸箱と一緒にズボンのポケットに仕舞った。部屋の中に戻ると、やはり幾分か外よりは温かく感じる。女は片手に俺のシャツを握っていて、少し背伸びをしながら俺の肩に掛けた。

「もっと大人な人だと思ってた」
「大人だろう」
「見かけはね。でも少し子供っぽい」

ベッドに腰かけた俺の上に乗って、女はそう宣った。
額やら瞼やら、そんなところに啄むようなキスをして、抱きこむように頭を抱えられる。薄いキャミソールのようなものを着ただけの女の胸は柔らかくて、余計な隔たりが少ないせいか心臓の音がよく聞こえた。抱えられて耳が塞がれると、それだけが聞こえる。心地がいい。

「あたしとおんなじにおいがする」

俺の髪に鼻をうずめて、女は笑った。
すん、と鼻を鳴らすと、先ほどまで纏わせていた苦い匂いが洗剤の匂いの奥から香る。
先ほどまで適量の疲労感に瞼を重くしていたというのに、胸と腰の奥がずし、と疼いた。
女は未だ無邪気に俺の頭や肩、背中だったりをするすると撫でまわしている。
人のことは言うくせに、自分だって子供のようではないか。とは、口には出せないでいた。

「タトゥー、すごいね。ピアスも」
「こわいか」
「びっくりしただけ」
「ん」

丁度タトゥーの入っている首の後ろ辺りを撫であげられて、声が漏れる。少し驚いたのと、本当にほんのちょっと恥ずかしかったので、仕返しをした。布越しに胸の肉にやんわりと歯を立てる。女はけらけらと笑っていた。

「ねぇ、これ、何人の人が知ってるの」
「たくさん、しっている」
「沢山?」
「たくさん」

女が笑うのを止めた。何を言えばいいのか、言葉を探しているようだった。
ベッドサイドに置いていたスマートフォンが鳴った。音がしばらく続いていて、電話の着信であることに気付いた。
ベッドサイドまで、スマートフォンまでは、頑張れば手が届いた。手に取って、電話に出なくてはいけない。しかし、女がそれを止めた。

「だめ」

顔と顔を合わせて、言い聞かせるように言った。その顔には、先ほどまでは確かにあった温度がなかった。
ちら、と画面を確認しようとすると、白くて細い手が視界を塞いだ。その手は顔色とは違い温度を持っていた、寧ろ熱いと思ったくらいに。しかし、かすかに震えているのもわかった。

「だめ」

視界は塞がれたまま、唇を合わせる。ぬるりとしたものが唇を舐めて、それからがぶりと噛みつかれた。

「駄目じゃない」

悪い気分ではなかった。自分を子供だと笑い大人ぶりながら背伸びする子供が、電話一つでこんなに我武者羅になるのが。
自分だけを見ていろと、他の人間のことを考えるなと、優しい言葉で蓋をしながら内心を煮えたぎらせている様を見るのが。

「駄目じゃない」

そしてふと、俺はこの女のようになったことがあったろうかと考えた。
こんなに我武者羅に、こんなに暑くなったことがあったろうか。
その考えは昂りすぎた胸の内を少し冷ました。今はただの充足がぬるま湯のようにこの胸の内を満たしている。
あぁ、明日はきっといい朝が来るだろう。
そうして俺は押し倒されるように横になった。

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