大罪まとめ2

◆そうして私は
「エマ」
私の口からその二つの音が並んでこぼれ落ち
ると、彼女はふわりと微笑みを浮かべながら
振り返った。
白いワンピース、白い靴、白い肌、白い髪。
全てが清く整えられたその姿を目に焼き付け
ながら、私はそっと彼女に手を伸ばした。
短く切りそろえられた髪がふわふわと揺れて
いる。雲というより綿飴と言い表したくなる
それに手を差し込みながら、もう一度その名
前を呼んだ。エマ。エ、マ。たった二文字の
名前がどうしてこんなにも癖になるのだろう。
それが私にはどうしてもわからなかった。私
の手をするりと交わして懐に入り込んだ彼女
は、私の胸板へ楽しそうに顔をすりつけた。
彼女の持つもののように柔らかくあるわけで
もないのに、彼女からは鼻歌が聞こえてくる。
満足げな吐息まで聞こえてくる。その様子は
まるで子供のようで、私は思わずその背に手
を回してゆっくりと撫でた。
時間が穏やかに流れていくのを感じている。
こんな気分になるのもどれくらいぶりであっ
たか。いや、たった、ほんの少しの時間だっ
たろうか?まぁいい、それもどうでもよいこ
とだ。
彼女といるというのに、彼女のこと以外を考
えることなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「エプロンはどうしたの?」
彼女が一言私に問いかけた。一瞬私の思考が
止まり、それからコマ送りするように動き出
す。
エプロン、毎日付けていた、仕事用の。
思考の断片が一つに集結する。
自分の姿を改めて見てみれば、そこには確か
に見慣れたオレンジ色の布地はなかった。
黒のセーター、細身でグレーのスーツ。胸元
の薔薇だけが色鮮やかで、私の世界をモノク
ロから掬い上げている。
まじまじと見てから、一つ。
何故、自分はこのような格好をしている?
ぼとりと落ちて産声を上げたこの疑問は、彼
女の新たな言葉によって黙殺された。
「なんだか、鉄の匂いがするわ」
腕の中から彼女の姿が消える。視線で追えば、
手の長さと、あとほんの少しの隙間。ぎりぎ
り届かないようなもどかしい距離を持って、
彼女はじっとこちらを見据えている。
こっちへ、と、そう呼びかけようと口を開き
かけたその時。
「手が、随分汚れているのね」
どろり。
その瞬間に掌に嫌な感触がする。
濡れて、重い。乾いて、軋む。
まとわりついて離れない液体。
なんてことだ。見せることは勿論のこと、そ
の名称を口に出すことすら、彼女の前ではし
たくなかったというのに。
「その手で私に触れるというのね」
彼女は眉根を寄せてそう言った。
涙すら流たしてしまいそうな表情で、よりに
もよって私の一番見たくない表情でそう言っ
た。
そして私を、私が最も聞きたくない類いの言
葉を、その唇で、その声で。
彼女に向けた手をだらりと下げて、私はじっ
と、彼女の視線に応えていた。そして、その
手が持つものを視界に入れたとき、自分の目
が僅かに見開くのを感じた。
「その手で、この子に触れるというのね」
そこにいたのは、小さな赤ん坊であった。
すやすやと静かに眠っている、眼の開く様子
もない、まだ頭髪すら生えそろわない、動く
ことすらままならないだろう。そんな、生ま
れて間もないような赤ん坊。
誰の子だと問うことはない。それは愚問とい
うものだ、答えは分かりきっている。
きっとその柔らかな瞼が開かれたその先には
緑色の瞳があり、その頭はやがてきらきらと
輝く銀色の髪に覆われることだろう。
そうでなくては納得がいかない、そうでなけ
ればいけない、そうでなければ許せない。
そうでなければ、その子供に全く「価値はな
い」のだから。それどころではない、それは
抹殺するべき汚点に変わってしまうのだから。
「ところで、あなたはどなたかしら?」
予期していなかった問いかけ。
それがこの耳に届いたその瞬間に、視界のほ
ぼ半分が黒く塗りつぶされた。
何かが、目を覆っている。
思わず左目に手をかざせば、慣れ親しんだ柔
らかい感触がそこには埋まっている。
それは、花だ。咲き誇る薔薇の花だ。
その花を中心として、植物としてのあり方を
無視して張り巡らされた茨がこの顔を覆って
いる。
それが、彼女の中で私を私ではなくしている
のだ。
「ごめんなさいね、そろそろこの子にミルク
をあげる時間なの」
ワンピースの白い背中が見える。ふわりとわ
ずかに浮き上がる裾、彼女が足を進めて行っ
てしまうサイン。
私から遠のいていく。彼女が、この、私から。
「ッ、エマ!!」
その様子を指を咥えてみていることなど出来
るはずもなかった。
足を踏み出し、その小さな背中に駆け寄る。
元々が数メートルもない距離、三秒もその動
作にはかからない。
たった今この瞬間にも、彼女の細い肩をつか、
んで……

*  *  *

「スラ様!!」
呼ばれた自らの名前に弾かれたように目を開
ける。
反射で動く手、途端に響く破砕音。
真横に目線をやれば身の丈ほどの大剣が深々
と石畳に食い込んでいる。
ああ、命拾いをしたものだ。
防御の際に落とされなくなってしまった左手
を茨で再構築しながら、頭上の影に視線を向
ける。
「起きてしまったか、何故起きた。そのまま
安らかに死に逝けばいいものを」
視線の先にあったものは白く巨大な甲冑。
その姿は、他の悪魔からしたらであるが、滅
多に見られるものではない。
天と地の間、こちらとあちらの間、私と彼女
の間。その狭間にある危うい平穏を守る者。
私にとってはただ人の道を邪魔するのみしか
出来ない愚か者。
門番、と、ここに住む者はやつのことを呼ん
だ。それをやつが否定することは無い。
ただやつは黙々と、天界へ通じるその門が許
可なく開かないよう、ここで番をしていた。
「この向こうに何がある、お前の手の中に何
がある。どちらも無よ、双方にとって役に立
たぬ、故に存在すら認められぬガラクタよ」
「ああ、五月蠅い。お前の長ったらしい口上
は聞き飽きたし意味もわからない」
生憎と私には全く学がない。
門番が地面から大剣を引き抜くのとほぼ同時、
腕の力で跳ねるように起き上がる。
この甲冑と戦うときは常に身体が砕かれる。
記憶をたぐり寄せて思い出すのは、骨が数本
折られ、内蔵のいくつかは潰され、肌の裂傷
など数え切れなかったこと。しかし今見るこ
の身体は骨は治り、内蔵も八割回復、裂けた
肌の上では血がすっかり固まっている。
どうやら、気絶してから相当の時間が経過し
ているらしい。
「コラン」
私を起こした……命の恩人とも言える私の使
い魔は、眠る前の私よりももっと、最早ボロ
雑巾と言って構わぬほどに傷だらけであった。
あちこちに巻かれた拘束用のベルトは千切れ
て風に揺れ、むき出しになった骨もひびが入
り、今も尚倒れて地面とキスをしている。
この門番相手に時間稼ぎでもしたのだろう。
私ですらこの有様だというのに、なんという。
「思った以上に……阿呆だな、お前は」
「これでも貴方様の……従僕でございますか
ら」
なるほど、そう言われてしまうと納得するし
かない。
確認するようにパチン、と指を鳴らすと、そ
こには既に茨はなく、確かな肉と骨の感触が
あった。神経接続、反応速度良好、問題は何
もない。悪魔という身体は、随分便利である。
「まだやるというのか、この不毛な戦いを。
意味などない、価値などない、ただ消え失せ
るためだけの戦いを」
「無論。私がお前を殺すまで」
「どんな喜劇にも勝る言葉だ。そのようなこ
と、未来永劫、どこまで行こうがあり得はし
ない」
「それはいったい、どこの誰が決めたことだ?
お前の承諾はいざ知らず、私の承諾も得ずに、
誰が勝手にそう決めた?」
聞く義理はない。
笑いたければ笑うがいいさ、そう、勝手に。
これが私の生き方なのだ、傲慢と指差された、
私のあり方なのだ。



◆餓供誕
そのことは、色欲の君だけが知っていた。
誕生日というものが存在しない彼だからこそ、
彼はその日を大事にしようとしていた。
11月29日。その日は、暴食の彼の生前の誕生
日であった。
死んだ今となってしまっては、誕生日なんて
どうでもいいと思うものも多いだろう。だが
色欲の君にとってはそうではない。前述した
とおり、彼には誕生日すらない。嫉妬ではな
いが、それを羨んでいた。折角あるものは祝
えばいい、感情を昇華させた今ではそう思う
のだ。だからこそ、彼は誰よりも張り切って
その日の準備をした。彼の好きなものをプレ
ゼントとして用意し、膨大な量の食事を準備
し、彼の大好きな人達へ協力を仰いだ。完璧
だと、そう思ったのだ。
彼が片腕を落としてくるまでは。
「あれぇ、みんなどうしたの?」
彼はいつもの笑顔でそう言って、落とした腕
を反対の腕でプラプラと振り動かした。切り
口からは黒い液体がぽたぽたと落ちていく。
死んでいるのだから血ではない。だが、それ
とほぼ等しいものが垂れ流されていた。
「が、餓供……」
まず最初に口を開いたのは強欲の彼であった。
ふらふらと暴食の彼の前に立ち、目線を合わ
せるように跪く。
彼は笑ったままだった。少しの間視線を合わ
せていると、やがて悟ったのか首をゆっくり
と傾げた。
なぜそんな顔をするの?
その純粋な瞳がそう言っていた。
「がっくんね、今日誕生日なの。だからねぇ、
みんなにお礼するの」
そして彼はにこにことした笑顔に戻り、それ
からとてとてと強欲の横をすり抜けて色欲の
君の前に立った。彼は泣きそうだった。生来
の性格からだろうか、と言われればそれは違
う。泣きそうなのは憤怒や強欲もだ。
泣かせているのは、彼らの知る暴食の過去だ
った。
「みんなにね、おいしいもの食べさせてあげ
るの」
やめろ、それ以上言うな。もう何も言わなく
ていい。
3人はそう祈った。嫉妬は表情を凍らせ、怠
惰は理解することを放棄し、傲慢は若干気持
ちを理解しかけていた。
傲慢の彼だけが、その行き過ぎた無償の奉仕
に共感を覚えることが出来ていた。
「がっくんね、とってもおいしいの」
食べていいよ。
彼がそう言って抱きついたのは、彼が一番慕
う大罪だった。彼は抱き返すことが出来なか
った。彼は固まり、その顔を歪め、ただ黒に
汚れることを受け入れていた。彼が何を思っ
ているかなど、他の誰にも測り知れなかった。
「ねぇ、たべて」
これが娼婦の言葉だったらどれだけよかった
ことだろう。肉欲で見る影もないほどに汚れ
た言葉ならどれだけ。
彼は愚かだ、だからこそ過ぎるほどに純粋だ
った。彼にとって食べるとは、言葉通りの意
味しか存在しなかった。
その腕を受け取る者は誰もいなかった。ぼと
りと床の上に落ち、綺麗な色をしたカーペッ
トをじんわりと黒く濡らしていた。




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